B.A.Cの標榜する教義について――あるいは二次元アイドルの虚飾と欺瞞


 何故、人はB.A.Cの主張することに心惹かれてしまうのか?

 B.A.Cは言うまでもなく、8 beat Story♪の作品世界においては人間の音楽を消し去ろうとする悪の存在である。
 そのことも別に作中において隠されていたりすることはなく、彼女達が本当は人間達を愚かな存在であると見下していること、心の底では同情も理解もしていないことはあからさまに描かれている。
 そうでありながらB.A.C(特にアモル)が人間達に対してまるで理解者であり同志であるかのごとく語りかけてくるその演説には多分に人心掌握のための嘘が盛り込まれており、信用できない内容であることはB.A.Cのサイドストーリーを読んだ者なら誰でも理解出来ることである。
 それなのに何故B.A.Cが主張し、主にアモルが演説するその思想にどうしても少なからぬ共感を覚えてしまうのか?
 今回はここで少しばかり、そのB.A.Cの示す教義の内容を細かく解体して考えてみたい。



 

 そもそもB.A.Cがストーリーや演説の中で主張していることや、語っている思想とは一体どういう内容なのか。
 それをまずは一旦整理してみよう。
 第一にサイドストーリーの中で描かれているそれとしては、簡単に言ってしまえば『音楽による苦しみから人類を救済する』というものになる。
 アモル曰く、音楽を奏でることによって得られる快楽とは一時のまやかしのようなモノに過ぎず、それを得るために生じる苦しみの方が遙かに大きい。
 幸福で楽しい音楽を奏でる美しいステージに立つためには、その裏にある喰うか喰われるかの過酷な競争社会で必死に努力し、多くのものを犠牲にしなくてはならない。
 その事実を"音楽は楽しい"だの、"素敵だ"などという言葉で誤魔化し、目を背けるのは間違っている。
 そして、人々をそんな苦しみから救うためには、音楽を奏でること自体をやめさせるしかないのだ。
 サイドストーリー内でB.A.Cが主張することの内容は概ねそんなところである。
 そして今のところもう一つ重要な彼女達の思想が描かれている媒体としては、2_wEiの2ndライブの中でのMCというものが存在している。
 そこでは現実に存在している人間達へ向けてアモルの演説が行われたのであるが、その内容はサイドストーリーでのそれよりも若干変化している。
 まず、それは現実のライブの中で人間達へ向けて語りかける状況にある関係上、あくまでも自分達の裏を見せずに表向きの顔だけで言葉を選んで話す、他者の共感を呼び起こしやすいものとなっていた。
 曰く、我々も、そしてここにいる君達も共に音楽を愛する同志である。音楽は素晴らしい。
 しかし、それなのにこの世界は残酷で不平等だ。同じ音楽を奏でていても、人気がなくなればすぐに見捨てられ、支持されなければ活動は出来なくなり、やがては消えてしまう。
 そんな、他でもない音楽によって引き起こされる苦しみに溢れた不平等な世界をB.A.Cが変えてみせる。そして、君達も一緒にこの世界を変えようではないか。
 そのためにはB.A.Cの音楽だけを信じろ。我々が君達を導いてやる。
 2_wEi2ndライブでのアモルの演説とは、簡単に噛み砕くならば概ねこのような内容であったと思う。
 サイドストーリーのものと比べると、わかりやすく相手の共感を得るために"自分達も音楽を愛しているのだ"というあからさまな嘘が盛り込まれており、語り口も人間の音楽全てをバッサリと否定するそれではなく、あくまで音楽を愛する人間達の心に理解を示し、寄り添う風でいながらも同時にその構造の歪みを指摘するという狡猾さに溢れているが、その中で主張していること自体は両方の間でもおおよその部分は共通していると言えるだろう。
 音楽は一時の快楽と引き換えに、多大なる苦痛と悲劇を生み出している。
 そのような歪んだ世界は正され、救われなければならない。
 我々(B.A.C)の音楽によって。
 重要な骨子だけを抜き出せば、B.A.Cの主張であり思想とはそういうものであるだろう。

 


 さて、ではそんなB.A.Cの思想の一体どこにそれほど惹きつけられるものが存在しているのだろうか。
 結論から言うと、あくまで自分個人の感覚であり意見ではあるが、『それが現実に存在している虚飾と欺瞞を明確に指摘し、その現状を間違いであると否定している』部分にあるのではないかと思っている。
 果たしてそれはどういうことなのか、もう少し詳しく考えてみよう。
 まず当たり前の話ではあるが、B.A.Cの主張とは全面的に支持できるようなものではない。
 音楽には喜びだけではなくその裏に多くの苦しみが存在していること自体は確かであるかもしれないが、だからと言って"じゃあ苦しみを生み出すようなものはなくしてしまおう"というのは極論に過ぎるだろう。
 そもそもその部分はフィクションにおける悪役としての味付けのようなものであり、最初から共感を呼び起こすよりも忌避感を覚えたり、しっかりと否定されるために作られているのだろう。
 現実でのライブにおける演説にしても、そこに得体の知れないカリスマを感じることはあれど、その内容が全て真実というわけではなく、多くの嘘が含まれていることをわかった状態で聞く上では完全に騙されたりするということもないだろう。
 そうであるはずなのに、その主張と思想にはそれでもなお心惹かれてしまう部分が存在している。
 それこそが、まず先に挙げたように『誰もが目を背けて触れないようしていた虚飾と欺瞞を面と向かって指摘している』というところなのである。
 では、その"虚飾と欺瞞"とは一体何なのか。
 それはB.A.Cの言う音楽そのものに蔓延しているものというよりは、エビストという作品自体も身を置いている『二次元アイドル』というジャンルにおいて特に顕著なものと言えるかもしれない。
 即ち、彼女達が指摘するところの"快楽の裏に多大なる苦しみが存在していること"。
 そして、"そんな事実については一切目を向けずに触れようとしていないこと"。
 それこそがこのジャンルにおける最大の虚飾であり、例外なく全ての作品が言葉にすることすら忌避するタブーなのである。
 しかしこれだけでは何がなにやらという感じなので、もう少々詳しく説明していこう。
 これまで二次元アイドル作品における物語本編や、あるいは楽曲の歌詞においては主に『夢や希望を抱くことは素晴らしく、努力すれば必ず願いは叶い、誰でもキラキラと輝くことが出来る』という内容のことが描かれ、歌われてきた。
 そして、それはある程度真実のことではある。全てを嘘や綺麗事であると否定出来るものではないし、勿論するつもりもない。
 夢と希望は素晴らしい。頑張れば願いは叶う。いずれも普遍的な真実である。
 しかし、一方で全ての者にこのキラキラとした観念が当てはまるというのはどうしようもない欺瞞であることも自分は心のどこかで認識している。
 諦めない限り夢や願いは叶い、奇跡は起こる。選ばれた存在にとっては確かにそうなのだろう。
 けれど、それ以上に選ばれなかった存在というのはごちゃまんといる。
 輝かしく、美しい、希望に溢れた物語や歌の裏では、夢は破れ、願いは叶わず、奇跡は起こらないまま消えていった作品が確かに、選ばれた側の作品の数倍は存在しているのである。
 そして、現実としてそこに在るはずのその悲劇は決して表に描かれることはない。
 最終的には競争に負け、見捨てられるような者達の物語など楽しくないし、誰も求めてはいないと言われれば確かにそうである。
 夢や希望を歌い、見てくれている人達を応援し、笑顔と勇気を与え、憧れを生み出し、元気づけることこそがアイドルと、それを題材とした作品の存在意義である。それも確かにそうだろう。
 けれど結局そうなれなかった存在を、紛れもなくそこに在るはずのものを、まるでそんなものはどこにもないかのように、最初から見えていないかのようにそれを無視して美しく輝いている部分だけを切り取ることは、虚飾以外の何者でもないだろう。
 とはいえ、中には選ばれず、夢も願いも叶えることは出来なかった存在を描いた物語もあるにはある。
 そしてそんな物語の結論としては、"たとえ選ばれず、叶えられなかったとしても、夢を追いかけて頑張る姿はそれだけでキラキラと輝いていて、かけがえのないものなのだ"とされていた。
 それも確かにそうなのかもしれない。夢と憧れを追ってひたむきに頑張っていた全ての作品は、たとえ道半ばにして終わってしまう結末であったとしても、間違いなく一時は輝いていたのだろう。
 だが、その一時のために多くの苦しみと悲しみを味わっていたであろうこともまた間違いのないことなのではないだろうか。
 そして、そんな苦しみや悲しみもその存在と同様に物語や歌として表に出して描かれることはないか、あるいは描かれたとしても肯定的なものとされてしまう。
 痛みも苦しみも、輝くためには必要だった。
 しかし、それも結局は欺瞞であるように思える。
 どれほど肯定的に描かれ、本人達が納得していたとしても、その悲しみや苦しみが夢を見る代償として仕方のないものだとは思いがたいものがある。
 つまりはこういうことだ。
 アイドルものは夢を見よう、希望を抱こう、頑張れば願いは叶い、奇跡は起こせるものであると高らかに歌う。それはフィクションだけではなく実際にも例の存在する、一つの真実ではある。
 だが一方で、そうはなれなかった者達も確実に存在している。
 それなのに、まるでそんなことはありえないかのように、全ての作品が無責任に誰でもそうなれるのだと歌い続けている。
 そしてまた、夢を追うための苦しみや犠牲は尊いものであり、たとえ叶うことはなかったとしてもその行動は美しく輝いているのだとも唱えている。
 一時の輝きの裏にそれ以上の苦しみや悲しみがあることを仕方のないものであるとして顧みない。
 少し長くなってしまったが、それこそが二次元アイドルというジャンルの中に確かに存在している虚飾と欺瞞であり、またそこに身を置く全ての作品が触れないように忌避しているタブーである。
 そして、話を戻すが、今回この虚飾と欺瞞を指摘し、正面切って間違っていると断じてみせたのがB.A.Cであり、彼女達のその主張なのである。
 全ての者達の夢が叶うわけではない、奇跡が起こるわけではない。
 綺麗事で誤魔化しているが、この世界は明らかに不平等である。
 そこで生じる苦しみも悲しみも、そして犠牲も決して無視され、看過されるべきものではない。
 世界は残酷だ。そして、残酷を強いるそんな世界は間違っているのだ。
 サイドストーリーと現実でのライブでの演説の内容を合わせると、B.A.Cが広めようとしている思想とはそういうものとなるように思われる。
 そして確かに、その後に続く「だからそんな間違いを生む人間の音楽は全て終わらせよう、この世界にはB.A.Cの音楽だけがあればいい」という考えはいただけないものではある。
 だが、「この世界(ジャンル)は嘘に満ちている。明らかな不平等を黙殺してはならない。苦しみも悲しみも犠牲も見過ごされていいわけがない。世界は間違っているんだ」という主張それ自体には、どうしても抗い難い共感を覚えずにはいられない。
 それは一体何故なのだろうか。

 ここで話は少し変わるが、B.A.Cの登場以前には一時期2_wEiがエビスト作中での悪役として権勢を振るっていた。
 そして2_wEiにも勿論悪役としての主張と思想が存在していた。
 彼女達は愛や希望というものを否定し、憎しみと絶望こそが世界の全てだ、何もかも破壊してやると歌っていた。
 それが彼女達自身の物語の経過と精神の成長と共に変化していくことになるのはまた別の話だが、ともあれその主張自体には悪役としての魅力と境遇への同情を感じつつも、共感を覚えるようなことはなかった。
 何故ならば、我々はその主張が完全に間違っていることを知っているからである。
 悪役として歌っていた頃の2_wEiの主張と考えは明らかに正しくない、間違ったものだった。それは後に2_wEi自身が認めるようになるところでもあった。
 中には本気でその退廃的な思想に共鳴していた者もいるにはいるかもしれないが、大多数の人間にとって世界はそこまで絶望的で暗澹としたものではなかっただろう。
 だからスタイルの一つとしては受け止められても、理のある主張として受け入れられるものではなかった。

 話を戻そう。

 そんな、間違いであることをある意味信じられた2_wEiの主張に対して、B.A.Cの主張には全体ではなくその中の一部とはいえ、確かに一理ある正しさが存在しているように思えてしまう。
 だからこそ、完全に拒絶してしまうことが出来ない。

 上で長々と書き連ねた二次元アイドルというジャンル内に存在する虚飾と欺瞞とは別にB.A.Cが今回初めて曝いたものであり、気づけたものであるというようなことではなく、取りも直さず自分自身も密かにずっとそれに対して燻った感情を抱き続けていたものでもあったのだ。
 夢を叶えられなかった者達を、奇跡の起こらなかった作品の終わりを見送る度に、全ての者がそうだと歌われているはずの輝かしく美しい観念との矛盾に苦しみ、不平等な世界に対して陰々滅々とした不満を堆積させていた。
 そんな人間にとって、今回B.A.Cが面と向かってその虚飾と欺瞞を指摘し、それは間違っていることなのだと断じてみせたことは、どうしようもなく否定しがたい正しさを感じてしまうものであった。
 そしてそれは自分だけではなく、大なり小なり追いかけていた作品が円満とは言い切れない形で終わった経験がある全ての人間にとってもそう思わせられるものであったのではないかと思う。

 こんな世界は間違っている。だから、共に世界を変えよう。
 間違いを正そう。
 私達(B.A.C)にはそうする力がある。私達(B.A.C)が正しい世界へと導いてあげよう。
 共に新世界の夜明けを見ようではないか。

 とまあ、実際のライブ内での演説においてはどうしようもない共感を抱かされてしまうその主張の後で、優しく寄り添うように、それでいながらも力強く引っ張り上げるように、そう呼びかけられるのである。
 こうなってくるともうまるっきり怪しげな宗教であり、ほぼほぼ洗脳に近い手口であるが、実際自分の心は軽く危機感を覚えるほどにグラグラに揺らがされてしまった。
 サイドストーリーを事前に読んでいて、その理解あるような素振りで親近感を抱かせる態度が実は真っ赤な嘘であることを知っているにも関わらずである。
 どうしても心惹かれてしまうものが、そこには厳然と存在しているのだ。

 というわけで、これまでに挙げてきたことを全部統合してみると、ようやくB.A.Cの主張と思想に心惹かれてしまう理由がしっかりとした形になるのではないだろうか。
 最後にそれらをなるべく簡潔にまとめてみよう。
 まずB.A.Cの主張と思想の内容とは、音楽を消し去ろうとする悪役としての部分を省けば、『楽しいや素晴らしいといった綺麗事で飾られた音楽の裏にはそれを維持するためにそこから得られる快楽以上の苦痛と犠牲が存在している。その事実を黙殺しながら歪な構造に縋り続けるのは間違っている』というものとなる。
 それは2_wEi2ndライブでの演説の内容も合わせると、自らも身を置く二次元アイドルというジャンル内にも共通して存在しているそういった虚飾と欺瞞を白日に晒してみせ、こんな不平等な世界は間違っているのだと断じるものにもなっているのではないかと解釈することが出来る。
 そして、その主張は完全な暴論であり全くの見当違いであるとも言い切れない、一つの無視出来ない正しさをそこに含んでいることも事実である。
 それ故に完全に否定することも出来ずに、それどころか心当たりのある者ならばある程度の共感を呼び起こされてしまうものとなっている。
 そうして心を揺らがせたところで、単に世界の不条理を指摘しただけに留まらず、それによって傷つけられてきたことに対して理解を寄せているように見せかけ、自分達は考えを同じくする者、同志であるのだと示してみせる。
 そして最終的には間違った世界を共に正そうと呼びかける。自分達は間違っていないと諭し、間違っているのは世界なのだと思い込ませる。煽動する。
 その上で、煽り立てただけで終わらせずに、最後に具体的な手段を提示してやる。
 世界を変えられるのはB.A.Cの音楽だけである。我々の導きに従っていれば間違った世界を打ち倒し、新しい世界へと至ることが出来る。
 だから、B.A.Cの音楽だけを信じていればいいのである。と。

 ……途中から如何にB.A.Cの演説がプロパガンダの手法として完成されているかについての解説になってしまった。
 とにもかくにも、B.A.Cの主張に心惹かれる理由はさらに細かく簡単に砕いてみれば、『現実として存在している不満や不平等を否定出来ない正しさで指摘し、それについて同じ目線からの理解を示してみせた上で、その感情は間違っていないと肯定し、それについて声を上げるべきだと誘ってくるから』ということになるかと思う。
 全く現実にあるプロパガンダの方式そのままなのではあるが、ここで一番興味深いのは、その核となるイデオロギーを政治ではなく音楽、ひいては二次元アイドルというジャンル内での現状に置いていることだろう。
 それ故に、本来の使用法ならば嫌悪するかあるいは距離を置いてしまうかもしれないその手法にも個人的には思わず乗せられたくなってしまう。
 エビストという作中においては世界の命運がかかった真剣な問題であるが、メタ的な視点から見るならばあくまでもフィクションであり、それによって自分達の生活がどうこうなるというわけではない。
 それならば、実際に感じている疑念や不満に対してこれを機会に声を上げてみるのもいいのではないだろうかと思わされてしまうのである。
 より深く、自分の個人的な事例について述べるならば、B.A.Cの主張に心惹かれる理由とはそういうものになる。
 それは、作中世界での対立やそれに対する各々のスタンスを現実世界にまで持ち出して延長することで両者の境界が曖昧になる感覚を楽しめるというエビストというコンテンツの独自性にして面白さの部分に則したものの一つでもあるのかもしれない。
 けれどまあ、それと同じくらいには、上の方で一種異様な熱情を込めて書いたように、二次元アイドルというジャンル内の虚飾と欺瞞に対して心が疲れ果てたというのも大きいだろう。
 諦めなければ夢は叶う、奇跡は起こるという歌が流れ続けるその裏で、そうなれなかった存在を看取り続けるのには流石に心も磨り減った。
 そんな時に、そんな陳腐化した奇跡という言葉を真っ向からくだらない欺瞞だと否定してみせたB.A.Cの存在とその演説は自分にとって非常に胸がすくような、心地よいものだった。
 結局突き詰めてしまえば、B.A.Cにどうしようもなく心惹かれる理由などそんなものなのかもしれない。
 とはいえ、やはりそれはどこまでいっても一人の人間が多少精神的におかしくなってしまったが故に想定以上にそれに対して感じ入ってしまっただけのものに過ぎず、全面的な正しさがその主張に存在しているわけではない。
 新たな主流となりうるほどの広く一般的な共感を得ることは難しいように思う。
 誰もが触れようとしてこなかったタブーに足を踏み入れたこと自体は挑戦的かもしれないが、それだけでは具体的な勝算もなくただひたすら周囲に噛みつこうとするだけの狂犬に等しく、単に過激で露悪的なだけの趣味の悪い作品にしかならないだろう。
 そうならないためには、非常にデリケートな扱いも求められる難しいものであると思う。
 しかし、個人的にはそこら辺のこと――今後のB.A.Cの取り扱いについてのことは、実はそれほど心配していない。
 何故ならば、これまでにも空乃かなでや2_wEiといった革新的ではあるが扱いの難しい素材を見事に調理してみせてきた作品が8 beat Story♪である。
 だからこそ、今回もその運用を大きく間違えるようなことはないだろうというある程度の信頼がある。
 そしてそれ故に、安心してB.A.Cに心動かされる立場というのを味わえている部分もあったりする。
 それに何より、B.A.Cの否定するその虚飾と欺瞞の中には他でもないエビスト、あるいは主人公ユニットである8/pLanet!!までもが含まれてしまっているのである。
 ある日突然頭がおかしくなって自分達がこれまでやってきたことは間違いだったのだという結論に到達してしまったというわけでもないのならば、自分自身も行ってきたことをある種の正しさでもって否定してくる主張を作中に登場させたということは、それに対してきっちりと向き合って自分達なりの答えを作品で描く覚悟があるということなのだろう。
 そして、もしもそれがきっちりと納得のいく正しさを備えたものであるならば、もはや擦り切れてしまいつつある自分の心も、あるいは選ばれなかった作品達も、何かしらの救いを得られるのかもしれないと半ば期待すらしてしまっているのである。
 何だかんだで結局話が大きく逸れてしまった感はあるが、B.A.Cの主張と思想とはやはりそういう最終的に打ち倒されるべきものであり、その時に果たしてどんな結論に至るのかまでも含めて心を惹かれるのだ、ということにしておきたい。
 色々と大変な御時世であるが、少なくともエビストのストーリーは今もなお益々面白くなってきている。
 今後三つのユニットが複雑に絡み合うだろう物語の果てに一体どんな景色が存在するのか、それを楽しみにしながらしばらくは更新を待つとしよう。
 とはいえ、後はまあ、エビスト自身が自ら指摘したような道半ばにして奇跡を起こせなかった悲劇の一つとならぬことを、ストーリーの続きを待つ以上に今はひたすら祈るばかりである……。