長年追いかけてきたコンテンツが実はとんでもない魔王なんじゃないかと思い始めた話


 今回は考察というわけでも何でもなく、何と言うかまあ今現在のエビストとかその他色々なことについて最近考えたり感じたりしていることを言語化して整理するためにちょっとした日記のようなものを書き残しておこうかなと思い、こうして筆を取っている。
 元々は「B.A.Cのオンラインライブ凄かったね」という話を興奮と共にしたかっただけのはずだったのだが、それ単体だけでは飽き足らずそこに2_wEiのライブなんかも絡める必要が出てきたりして……。
 それをどうにかこうにか頭の中で形にしようといじっている内にどんどこ「今の世界情勢は……」とか「二次元アイドルとは……」とか「幸せって何だろう……」とか余計なものまで混ざってきてしまって……。
 気がつけば自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってきている間にもう四月突入みたいなどうしようもないことになっていたのだが、最近ようやくそれが何なのかまとまった気がする。
 自分が今一体何を感じていて、何を書き残しておきたいのか。
 それはつまり、『8 beat Story♪というコンテンツはやっぱりとんでもなく凄(ヤバ)かった』ということなのだ。
 「コイツらヤバいくらいイカレてるぜ!」ってことを今回エビストが行った二つのライブを見たことで今更ながら改めて確信し、その気づきを記録として残しておきたい。結局そういう話に落ち着いた。
 去年以前の時点で「もう流石にこれ以上エビストについて書くことはない! 完全に理解(わか)った!」なんてことも言っていたが、自分が甘かった。甘過ぎた。
 あれだけ散々このコンテンツから受けた衝撃について書き残してきてなお、未だにこうして自分に筆を取らせる程の驚きと興奮を与えてくれるのだから、喜ばしさを通り越してもう本当に泣きながら「堪忍してくれ」と言いたいくらいの気分である。
 つまり、結局また「それくらいエビストは凄くてヤバくて狂ってる」というのを思い知らされた衝撃を自分なりに頭の中から抽出し、言語化して長々と書き殴っていくだけの文章となる。
 なのでこれはもう本当に考察とか、あるいは布教や勧誘のための記事などではなく、単なる狂人の手記でしかないので、もしも興味本位で読まれる場合はそれを念頭に置いて適当に流し読んでいただければと思う。
 しかしまあ、ここからまたとんでもない分量になってしまった本編へ進む前に、今回の内容の全てを一言でまとめた簡単な結論を書いておくことにしよう。
 「初めて出会った時は天使だと思って追いかけてきた子が、最近ようやく実はとんでもない魔王だと気づいたけど離れられない」。要はそれだけの話、かもしれない。

 

 

  

 

 さて、この話は最終的に「最近のエビスト本当に凄い、本当にヤバい、マジでイカレてるよ」という結論に持っていくものであるわけだが、そのためにはまずそう思わされた切っ掛けである今回エビストが行った二つのライブについての感想を書いておかなければならないだろう。
 二つのライブ――それはB.A.Cのオンラインライブと、2_wEiのリアルライブのことなのだが、とにかくこれがもう本当に衝撃的だった。凄かった。
 そして、一体その何が凄かったのかについて、これからそう感じた理由をどうにかこうにか言語化していこうというわけである。
 しかし、そのために一々「ここのところがこう凄くて~」というようなことを書いていてはあまりにも文章が長ったらしくなってしまう(いつものことではあるが)。書く方にも読む方にも手間と時間がかかる。
 なので、諸々の細かいところをすっ飛ばして、何とか本質的な部分だけを簡潔に抜き出して解析していくことを試みたい。

 

 

 


 まずB.A.Cのオンラインライブについてだが、これは非常に衝撃的かつ革新的なオンラインライブであったと思う。
 では、一体何によってそう思わされたのだろうか。
 それは、これまでのオンラインライブというものが『ライブをオンラインで配信するもの』であることに対して、B.A.C――ひいてはエビストが配信したのは『ライブではないもの』だった、ということになるかと思う。
 ここで一度根本的な問題に立ち返ることになるが、そもそもオンラインライブと現実のライブとは同じものなのだろうか。
 答えは当然ノーのはずだ。同じライブを見るにしても、現実で見ることで感じられるものと、オンライン配信で見ることで感じられるものは明確に別物であるだろう。
 そのどちらが良いか悪いかをここで論じるつもりはないし、そもそも答えは出ないものなのかもしれない。
 だが、そのように現実とオンラインで感じられるものに違いがあるのならば、現実で行えないが故の代替としてオンラインライブが開催されることには何かしらの矛盾が存在していないだろうか。
 今は現実の会場でライブを行うのが難しい状況だから、その代わりにオンライン配信を利用して自宅でライブを楽しもう。
 それを否定するつもりはない。そうする必要があったこともわかる。
 だが、そこにはどこかオンライン配信を現地参加には及ばぬものと見なし、それでも仕方なくその代わりとして行っているような姿勢が見受けられないだろうか。
 少しの間だけ我慢すればまた元通りにやれるようになる。オンライン配信のライブは現地で行えない代わりに我慢して楽しむものだ。
 この一年ほど、オンラインライブとは根底にどこかそんな雰囲気を漂わせたまま行われてきたように思う。
 まあ、それも仕方ないといえば仕方ない。誰もが少しだけ我慢すればこれまで通りの世界が戻ってくるものだと思い込んでいた。自分も例外ではない。
 だが、一年経っていよいよこれは様子が違うということも理解出来てきた。この状況はもうすぐ収まるなんてことはない、少なくとも二、三年先まで続くかもしれない。その可能性の方が濃厚だ。
 そうなってきた今、果たしてこの先もオンラインライブというものは現実でのそれの下位互換でしかない代替物として、心のどこかで何かを我慢しながら見るものでいいのだろうか。
 現実で行うはずだったライブをそっくりそのまま配信で垂れ流すだけのものでいいのだろうか。
 オンラインライブには現実でのそれとは違う、むしろ現実にも勝るような、オンラインでしか出来ない新しいライブの形というものがあるのではないだろうか。
 少なくともこの先まだまだこんな世界の状況が続く中で、オンラインライブというものはそれを模索し、目指していく必要があるように思う。
 そんな時に、どこよりも先駆けてそれを示してみせたのがこのB.A.Cのオンラインライブであった……と、自分は感じた。
 そして、そう感じた理由こそが、先に挙げたようにこの公演が「ライブと銘打っておきながら実はライブではなかった」という点にある。
 現実で行うはずだった形のライブをそっくりそのまま配信で垂れ流しても現実で感じるものを超えることは出来ないし、代替物という意識がそこに存在していては同等に並ぶことすら出来ない。
 そもそも、現実とオンラインでは感じられるものが違う。では、その違いとは何なのだろうか。
 そんな疑問が立ちはだかる中で、恐らくエビストはその違いを『双方向性』に見出したのだと思われる。
 ライブとはステージに立つ演者と観客、その両者の間に一方通行ではない双方向の交流が発生することによってその楽しさ、真の魅力というのが作り上げられるものである。
 そして、オンライン配信という形ではどうしてもそのリアルタイムでの双方向性というものが欠如してしまう。
 どうにかしてそこを埋めることが出来ないものだろうかと様々な工夫を試みているコンテンツは多いが、今のテクノロジーではやはりどうしても越えられない限界が存在している。
 現実でのライブで行えるのと同じ人数をリアルタイムかつオンラインで双方向に交流させることは、今のところ技術的に不可能であると言わざるをえない。それこそがリアルとオンラインの明確な違いの一つであることは間違いない。
 では、その差異を埋めるには一体どうすればいいのだろうか。
 そこでエビストはこのB.A.Cのオンラインライブにおいて、その真逆を行くことにした。
 違いを埋めるのではなく、その違いを際立たせることを選んだのだ。

 中途半端にこれまで通りの手法の再現に縋るくらいなら、いっそ完全にそれを捨て去って新しい形に進むことにした。
 つまりどういうことかというと、『双方向性』の再現を完全に諦めて、『一方通行』だけでライブを形成してきたのである。
 全員が固唾を呑んで見守る中で行われるやり直しのきかないリアルタイム一発勝負のライブと違い、向こう側だけが一番良いものを選び抜き、切り取ってガチガチに編集されたパフォーマンス映像。
 その場で起こる偶発的な事象も組み込んで作られていくそれを否定するような、導入から結末までをきっちりと最初から決められているドラマ仕立ての構成。
 観客の反応など一切求めていない、ただ自分達の思想を教え説くだけの演説のようなMC。
 そういったものを組み合わせて作り上げられた今回のB.A.Cのオンラインライブは、まさしくこちら側からの反応や向こうがそれを受け取ることで生じる何かを一切必要としていない、完全なる『一方通行』の発信だった。
 それはもはやライブというよりは映画やドラマといった映像作品に近いものだっただろう。
 それ故に、自分はこのオンラインライブを「ライブではなかった」と表現しているわけである。
 そして、このライブなのにライブではない何かが果たして本当に面白いのかというと……これがもう、とんでもなく面白かった。
 しかし、その面白さはこれがライブではないことと同様に、ライブに対して感じる面白さではなかったとも思う。
 どちらかというと本当に、映像作品に感じる面白さに近いものだっただろう。
 だが、それでもそれは確かに『面白さ』であった。何かの代わりとしてどこかに不完全燃焼という印象を抱きながら見るものよりは、遙かに純粋で混じり気のない気持ちの良い『面白さ』だった。
 それに、『一方通行』が『双方向』に劣っているなどということも決してない。
 映像作品というものはそのどれもが『一方通行』の面白さである。ライブと映画の面白さを比べようがないのと同じことだ、この二つは似ているようでそもそものジャンルが実は全く違う。

 オンライン配信で行うライブではどうしても『双方向』の面白さを再現することが出来ないのであれば、いっそのこと完全に『一方通行』なものとして作ってみる。ジャンルそのものをオンラインによりフィットするものへと変えてみる。
 言葉にしてみればあまりにもシンプルな逆転の発想だが、それが今回ピッタリとハマって、オンラインライブの新しい可能性というものを見せてくれたように思う。
 ライブのようでライブじゃない、ライブ風の映像作品。現実と違ってそれを流しても許されることこそが、オンラインの現実よりも優れた点であるということ。
 それこそが今回エビストがB.A.Cのオンラインライブで示してみせた、衝撃的で革新的な、オンラインライブの新しい可能性であった。 

 

 

 

 

 さて、次はそんなB.A.Cのオンラインライブに続く形で開催された2_wEiのリアルライブについても、実際観に行って感じたことをまとめていこう。
 何故ならば、今回のB.A.Cのオンラインライブも2_wEiのリアルライブもそれぞれが単体だけではなく、両者を共に観て、比べて、そこで描かれているものが何なのかを考えてみることで、より向こうがこの二つの公演を通じて表現したかったものが見えてくるようになっているからだ。
 というわけで2_wEiのリアルライブについての感想だが、これもまた今世界がこんな状況に置かれている中で開催されたライブとして時勢に合わせた変容をしつつも非常に面白く、またその内容を実現させた手腕と発想に感心させられるものであった。
 まずこのライブはオンライン配信のみであったB.A.Cのライブに対して、それから二週間後に開催された現地参加のみでオンライン配信の一切ない完全なリアルライブだった。
 それはその時点でもB.A.Cのオンラインという形式と2_wEiのリアルという形式とで何かしらの対比を描くつもりなのだと予測出来るものだった。
 果たしてその予測は正しく、この2_wEiのライブは前述したようなB.A.Cの『一方通行』のオンラインライブに対して、現実でのライブの本質とは『双方向性』にあるということを強く主張するようなライブとなっていた。
 というよりも、先に書いた自分の『双方向』、『一方通行』の話はこのライブを見たことでそういう言葉で説明するという着想を得たものである。
 社会的な必要性に駆られた形とはいえ、図らずも急速に、オンライン配信で自宅にいながらライブが見られるようになってしまったこの時代。
 そんな中にあって、どうして現地開催のみにこだわり、わざわざ観客に足を運ばせるのか。
 それに対するエビストなりの答えとして今回の2_wEiライブの中で示されたのがこの『双方向性』の概念であったと思う。
 今回のライブMCの中では「自分達が何かを伝えたくてライブをするのと同じように、お前達もこちらへ何かを伝えたいからライブに来るんだろう」という旨のことが語られていた。
 これこそがエビストの考える、ライブをライブたらしめている肝心要の要素なのだろう。

 そう考えているからこその完全なる『一方通行』なB.A.Cのオンラインライブであり、それに対してどこまでも『双方向性』にこだわっているような今回の2_wEiのリアルライブなのだと考えられた。
 声を発することは一切出来ないものの、こちらが向こうへそれに代わる何かしらの反応を送ることを限界まで許可し、それを後押しして補うような演出すら組み込んだそのライブはまさしくその『双方向性』へのこだわりを証明するものであっただろう。
 そんな風に示されたエビストなりのライブというものに対する考え方、向き合い方にはこちらも大きく感銘を受け、確かにそうかもしれないと見事に納得させられてしまった。
 また、このリアルライブにはそんな風にオンラインとリアルの差異を描ききってみせただけではなく、もう一つライブをより面白くするための斬新かつ巧みな手法が用いられていた。
 それは、エビストという作品の中においての2_wEiの立ち位置を丸ごとこの今の現実世界の状況と重ねてしまうというものである。
 作品の中で現在の2_wEiはあらゆる苦難や逆境、絶望に突き落とされても決して折れることなく、全てに抗い続けて生きる存在である。
 そして現状、作品中最大の悪役であるB.A.Cとも敵対する立場にある。
 そんな物語の状況を踏まえた上で、今回オンラインのみのライブを行うB.A.Cへ対抗するかのようにリアルのみでのライブを2_wEiが行うという構図が二つのライブの背後には描かれている。
 物語の中では圧倒的な実力を持ちMotherからの強力なバックアップと共に支配を進めようとするB.A.Cに対して、2_wEiは現状Motherと袂を分かったことでバックアップを失いその地位を追われ、地に落ちた状態から這い上がろうとしている最中である。
 「新しい世界を我々が示そう」と語るB.A.Cは革新的なオンラインライブを、自由を求めて絶望に抗い這い上がろうとする2_wEiはこの情勢下においては開催すら難しいリアルライブを。
 それぞれがそんな風に作品の中における立ち位置をある程度反映しつつ、そこに物語の中の状況を重ねることが出来るようなライブを行っているわけである。
 そのどちらに肩入れし、どちらを支持するかはともかくとして、いずれにせよ2_wEiはこのリアルライブを行うことでB.A.C(オンラインライブ)に、あるいはもっと大きな何かに抗い、刃向かい、戦おうとしているように、エビストの物語に触れている人間にとっては感じられるようになっていると言えるだろう。
 そして、その何かに立ち向かうために敢えて今の時期には開催すら難しく制限の多い形でのライブを行うことは、取りも直さずこの世界の現状に対しても2_wEiの二人が抗おうとしている様をそこに重ねて見ることが出来る。
 実際それは二人が語るライブでのMCの中にも表れているものである。
 それほど直接的な表現ではないものの、こんな理不尽な状況に対して「自分達と同じく、強く立ち向かって生きろ」と2_wEiは観客へ呼びかけていた。
 そんな風に作品や2_wEiの物語をこの現実に重ねることで、観客はよりこのライブに没入することが出来るようになっている。
 今回の2_wEiのリアルライブに関して包み隠さず言えば、革新的だったB.A.Cのオンラインライブと違い、それはこれまで現実で行ってきた公演を大きく超えるものではなかっただろう。
 むしろ発声の禁止を初めとした様々な制限のおかげでこれまでよりもいくらかパワーダウンしてしまっていたかもしれないし、それは仕方のないことでもある。
 しかし、むしろそうした制限を課せられている状態を意識することで、より何かに抗うために歌い続けるという物語の中の2_wEiをこのライブそのものに重ね合わせることが出来るようになっていたとも思う。
 そして、そうであるからこそ観客はよりこの不自由なライブに気持ちを入れ込み、普段とは違った形の楽しみをそこに見いだせたように感じられた。
 制限され、抑圧されているからこそ、そこに現在似たような状況にある本編の物語や2_wEiの姿を重ね合わせて楽しむことが出来るというわけである。
 ここまで現実の状況と物語とが重なることは偶然によるところも大きいのだが、そんな風に降って湧いたようなそれを意図的かつ積極的に利用しようとしている動きは今回の2_wEiのリアルライブの中でしっかりと感じ取れるものであった(何であればそれはB.A.Cのオンラインライブから始まっているものでもある)。
 このように、制限を受けて本来の全力を出すことが出来ないという不利な現実での状況に対して、そこに作品の物語としての文脈を乗せてしまうことで逆によりライブを楽しめる要素へと変換してしまうという手法は、今回の2_wEiのリアルライブにおいて最も斬新かつ優れた部分であったと思う。
 そして、「こんな状況じゃなければもっと楽しかっただろうになぁ……」ではなく、こんな状況だからこそ味わえる楽しみもあるのだと気づかせてくれたその手法は、面白さ以上の感動を自分に与えてくれたものだった。

 

 

 


 さて、ここまでB.A.Cと2_wEi、それぞれのライブがどう衝撃的で、どう革新的だったのかについて個別に分析してきた。
 その最後に、この二つのライブを通して観ることで総合的にはどんなことを感じられて、どんなものが見えてきたのかについてをまとめていきたいと思う。
 では、結局今回エビストが行ったこの二つのライブを統合して一つのものとして捉えてみた時に、一体何が一番凄いと感じられる部分だったのだろう。
 簡潔にまとめてしまうと、『世界がこんな状況だからこそむしろ面白くなる形のライブをやってのけたこと』というのがそれになるだろう。
 ドラマ仕立ての構成であったり、カメラアングルや演出を徹底的にクールに編集した映像作品として提供してきたB.A.Cのオンラインライブは、まさしくオンラインだけの配信だからこそ出来るものだった。
 そして、架空のキャラクターを演じている体で行われる今の世相への揶揄を織り込んだ演説のようなMCは、世界がこんな状況だからこそ(基本的には間違っているものとは理解しつつも)どこか共感を呼び起こされ、心を揺さぶられるものであった。
 また、それに対してオンライン配信を一切行わず現地参加のみで開催された2_wEiのライブは、オンラインではなく現実だからこそ出来ることを明確に意識した演出の多いライブであった。
 制限されて以前のような形では行えない閉塞感を、2_wEiというユニットが物語においてB.A.Cと敵対し、あらゆる絶望に抗ってきた存在であることと重ねてみせる。そうすることで、オンラインではなく敢えて現実で行うことの意味や抑圧への反発を、ライブの特色の一つとして楽しむことが出来るようになっており、これもまた世界がこんな状況だからこそ出来る新しいライブになっていた。
 とまあ、そんな風に、今この状況下においてあらゆるコンテンツが本来の力を制限されたようなどことなく不完全なライブしか行えていない中で、むしろその制限を利用したこんな状況だからこそ楽しむことの出来る形式というものを作り上げてみせたのが、今回の二つのライブを総合して考えてみた時に挙げられるもっとも優れた点であっただろう。

 

 

 


 さて、ここまでが一応冷静かつお行儀のいい、言葉を選んだ感想と分析ということになる。
 ここで話を締めてもいい、というか締めた方が美しいのだが、自分が今回最も書き残しておきたいことは実はこの先にあったりする。
 というわけで、ここから先は今回のライブを通して感じた、恐ろしく個人的で勝手な印象と感想を熱狂的に語らせていただきたい。
 確かに、「今の世界の現状を逆に利用して楽しめるようにしたライブ」を考えつき、作り上げてみせたことは今回のエビストのライブで最も賞賛に値する、卓越した部分であったと思う。
 しかし、個人的にはそれよりも何よりも凄い――というより"ヤバい"と感じているのが、これが本当に『エビストにしか出来ないライブ』だったということであったりする。
 世界が突然変容してしまってからはや一年、自分の記憶にある限りではこのような形で情勢を逆手に取って観客を楽しませようとするようなライブを行ったのはエビストが最初であるように思う。
 何故、それがエビストにしか出来なかったのか。
 その理由について少しばかり考えてみよう。

 


 まずその一つは、エビストという作品のストーリーの特異性に存在しているだろう。
 ある種のディストピアに到達してしまう未来を変えるために、その未来に進めようとする敵とそれを阻止しようとする主人公達がライブを通して戦うアイドルものというのがエビストのストーリーである。
 そのストーリーの構図が、今回本当に奇跡的に、あらゆるライブコンテンツが制限を受けてしまっているこの世界情勢と全く意図せず完全にリンクしてしまった。
 しかも、ちょうどそのディストピアな未来こそが「幸福な新しい世界」であり、これまでの世界を「不幸で不完全なもの」と説いてくる最大の敵が作中に新たなユニットとして登場してきた時期にそうなってしまった。
 そして、エビストはこれまでに現実でのライブの中でも半ば演劇のように作品のストーリーを展開し、進めていく手法を取っていた。
 その結果として、この制限だらけの世界情勢を不幸で不完全なものとしてバッサリと切り捨ててみせたり、あるいは不条理なこの状況へ折れずに立ち向かえと鼓舞したりという形で、エビストだけが今の世の中の状況をそっくりそのまま物語の中の空気に近いものとして利用することが出来る下地が存在していた。
 そして、より物語への没入感を増大させ、現実と空想の境目を曖昧にし、ライブの臨場感を上げて面白くする要素として取り入れることが出来た。
 後にも先にもこんな奇天烈な設定の、ライブも行うタイプの二次元アイドル作品が登場していない以上、この混沌とした世界情勢を利用するという分野はまさしくエビストだけの独壇場であると言えるだろう。

 


 次に、「ライブを行っているのはあくまで架空のキャラクターである」という体を保ち続けてきたことも今回の形式のライブを実行出来た理由の一つだろう。
 ライブMCの形で行われた今の世界に対して否定的であったり批判的で過激な内容の言説は、その内容自体の是非はともかくとして、とてもではないがこの情勢下においてきちんとした社会的地位のある一個人として声高に主張出来るものではなかった。
 しかし、エビストのライブにおいてステージ上に立っているのはあくまでキャラクターであり、作られた架空の存在を演じているだけの役者に過ぎない。
 故に、そこで発せられる言葉も全てキャラクターの台詞であり、ステージに立つ人間の個人的な思想とは一切関わりのないものである。
 また、このライブはあくまで作品のストーリーをステージ上に再現しているものであり、そこから降りた現実世界とは明確に異なるフィクションである。
 そう言うには中々苦しいというか、かなりグレーな部分もあるにはあったが、一応そういう言い逃れが出来るように注意深く今回のライブは作られていた。
 というよりも、そんな言い逃れを出来ることに気づいたからこそ今回そのギリギリのラインを攻めてきたのかもしれない。
 いずれにせよ、「全てはステージ上における架空の出来事である」と言い張ることが出来る形式のライブをこれまでも行ってきていたことが、今回の過激とも言える内容を実行に移せた理由の一つであることに間違いはないだろう。

 


 そして、最後にエビストの今のコンテンツとしての『規模感』というのも理由の一つとして挙げられる。
 果たして良いのか悪いのかどちらとも言えないが、エビストはさほどメジャーなコンテンツではない。
 今でこそこのジャンルでは中堅所に数えてもいい程度ではあるが、そうは言ってもまだまだ全然マイナー、世間からの注目度もさほど高くはないというのが正直なところだ。ライブの集客人数もそれほど多くはない。
 だからこそ制限に抵触しない人数かつ感染対策の負担もそれほど大きくはない、これまでのそれに近い感覚でのライブを行うことが出来た。
 オンラインの方はともかく、現実でのライブをこの時期に予定通り行えたのは悲しいかな問題になるほどの大人数が集まることのない規模感だからだと言えるだろう。
 しかし、その規模感が関係してくるのは人数制限やそれに付随した感染対策という面ばかりではない。
 そもそも今回のライブにおいて最大の問題点は制限下でのリアルライブを決行することではなく、今の社会情勢への反発や揶揄をテイストとして混ぜ込んだそのセンシティブな内容にある。
 世間的な注目度が高く、スポンサー各社との様々な関係や立場を背負ったメジャーコンテンツであれば、先に挙げた二つの実行可能な理由を携えていたとしてもまず間違いなく許可されないライブであったことだろう。
 その点において、エビストのそれがそんなライブを実行に移せる自由度を持った規模感であったことは大きい。というよりも、それを許されないような注目度や、許してくれそうにないスポンサーというのを持ち合わせていないが故の現在の規模感であり、自由度であるとも言えるだろう。

 


 あらゆるコンテンツの中で唯一エビストだけがこのような混乱しきった現実を敢えてその中に組み込むことでそれ自体を楽しめるようなライブを行えた理由というのは以上のようなものになるだろう。
 世界情勢と物語が奇跡的に重なってしまったことと、それを引き当てたある意味豪運とでも呼ぶべきもの。
 その現実と重なった物語をステージへと組み込む形のライブをこれまでに積み重ねてきていたこと。
 それをこの早さで実行に移せるフットワークを備え、制限にさほど抵触することなく自由度の高い動きが出来るような規模感。
 これらの理由を携えていたことで、エビストは今回素直に凄い、素晴らしい、というかヤバいと賞賛出来るような形のライブを行うことが出来た。
 だが、一番凄いのは現実を物語と重ねて組み込むことで制限された状況を楽しませてみせたライブでも、それを実行可能にした条件を奇跡的に今この時に兼ね備えていたことでもない。
 一番凄い――というかヤバいのは、そういった形のライブを思いつき、それを実行出来る条件が全て揃っているからといって、躊躇なくそれを実行してしまえたこと、しまったことそれ自体ではないかと自分は思っている。
 正直、今回のエビストのライブが今まで誰も思いつかなかったような、エビストだけにしか出来ない斬新なものというわけではないだろう。
 上記のような条件さえ揃っていればどのコンテンツでも可能だろうし、その条件を揃えることもある程度の無理をすれば出来ないこともないだろう。
 今の混乱しきったこの社会情勢を作劇に組み込むことも、その内に多くの事例が出てくることだろう。
 しかし、『出来ること』と『やること』は全く別の問題である。
 それがやってやれないことはないというのに、未だ他のコンテンツがやっていないのは何故か。
 先のコンテンツの規模感の話でも書いたことだが、それが今はまだ非常にセンシティブな、社会的倫理に抵触しかねないあまりにもギリギリのライン過ぎるからである。
 コンテンツや企業としてのブランドイメージ、体面というものが存在している以上、今回のこのライブのようなそれを傷つけかねない過激でグレーな内容と形式は、まともなところであれば運営本体がやりたくとも所属会社の上層部、スポンサー各社その他から到底許可されるものではないだろう。あまりにもリスクが高すぎる。
 だが、先にも書いたようにエビストはコンテンツを大きく売り出していないマイナーな地位であることと引き替えに、そういった柵みとなるスポンサーとの契約を一切交わしていない身の軽さが備わっており、それがこの過激でグレーなライブを止める者がいないという結果を生んでいた。
 だからこそ実行出来たわけだが、そういう社会的倫理への抵触、それによるブランドイメージの毀損を回避しなくてはならないという障害がクリア出来るからといって、それでもまだ「常識的に考えて普通はやらないだろう」という精神面のブレーキが存在しているはずだ。
 だってそうではないだろうか。
 ライブという概念を根本から覆してしまうような、ライブと銘打っているだけの映像作品。ただそれを流すだけという、必死にオンラインで現実のようなライブを再現しようとしているこれまでのオンラインライブそのものへのある種の当てつけのような行い。双方向の交流を求めない一方通行のパフォーマンス。他コンテンツやジャンルの現状、世界情勢への皮肉や批判を混ぜ込んだ過激すぎる演説。それらで構成されたB.A.Cのオンラインライブ。
 それに対して、先のそんなオンラインライブを否定するように徹底的に現実で行うことにこだわり、現地でこそ感じられる熱やオンラインでは出来ない双方向の交流を軸にして構成され、同コンテンツ内でリアルとオンラインとの比較をさせようとしてくる2_wEiのリアルライブ。
 そんなライブの内容は確かに凄かった。そんなライブの実行を可能にする条件が偶然今この時に揃っていた豪運や、それを考えついた発想力も確かに凄いだろう。
 だが、やはり一番凄い、というかヤバいのは、思いついたそれをやれる条件が揃っているからといって、本当に実行に移してしまったことそれ自体だと思われる。
 こんな革新的で先鋭的で、何より冒涜的ですらあるような過激なライブ、たとえ思いついたとて普通は色々考えて実行を踏みとどまってしまうだろう。
 だがエビスト運営はやった。躊躇なく、堂々と、それをやってのけ、この革新的なライブを世の中へ全力で投げつけてみせた。
 それこそが今回一番、ライブの内容そのものよりも凄いと感じ、また完全に「コイツらイカレとるわ……!」と思わせられた部分であった。

 

 

 


 さて、ようやくこの「エビスト運営はイカレとる」という結論に辿り着けたことで今回の記事を締めてもいいのだが、まだもう少しだけ語りたいことがあるので、ここからはちょっと別の話をしていこう。
 今回B.A.Cのオンラインライブでの演説の中では、同ジャンル内の大手やメジャーコンテンツを批判し、その陰には虐げられる弱者――この状況下でも忘れられないように必死に頑張っている弱小コンテンツが存在しており、そのような格差が存在しているこの世界は歪で不完全であるという内容のことが語られていた。
 無論これは根本的には架空のキャラクターが喋っているただの台詞であり、一個人やコンテンツそのものが本気で思想として主張していることではない……という建前はある。
 しかし、その言わんとすることはこのジャンルにおけるマイナーコンテンツを好き好んで追っている我々のような人間には大いに思い当たる節があり、心に突き刺さるものであった。思わずその過激な言説に同意を示してしまいたくなるほどに。
 そして、少なからぬコンテンツとしての本音も含まれているだろうそんな演説だが、しかし果たしてエビストは本当にこの内容を声高に主張して許されるような弱小コンテンツであると言えるのだろうか。
 エビストは現在企画始動から五年目に突入しようとしている。
 本当の弱小コンテンツが一年ないし二年も保たずに潰れていく中で、未だマイナーなままとはいえ五年も活動を続けているのはかなりの驚異であろう。

 また、その五年間の活動実態もただ植物状態で生きているだけというわけではなく、定期的な新曲追加、新ユニットの追加、イベントやワンマンライブの開催など、かなり精力的と言える動きを継続して行っている。
 胸を張って大手と言い張れる程ではもちろんない。が、さりとて真に弱小というにはその活動内容は不思議なほど活発で安定している。
 少なくとも他の、これまでに道半ばで活動終了してしまった同ジャンルのコンテンツ達と比べると、(財源は全くの謎だが)大手程ではないもののかなり恵まれている方だと言えるだろう。
 そんな大手には及ばないものの弱小とも言いかねる中堅と言ったポジションにあるエビストが、先のような弱者としての主張をする権利や、実際そうしたところでその内容に説得力はあるのだろうか。
 もしも同ジャンルの大手コンテンツがそのような内容の主張をするキャラクターを出していたとしたら、それはまったく何の説得力もない、むしろ不快さすら感じられる茶番にしか映らないだろう(まあB.A.Cは現状明確な敵役なのでその方がいいのかもしれないが、少なくともそんな存在にキャラクターとしての魅力を感じられはしない気がする)。
 果たしてエビストの今のコンテンツとしての立場は、それを主張しても何らかの反感を買わないものと言えるのだろうか。
 この問題に対して個人的な意見を述べさせてもらうとすると、それは「正直わからない」と言う他ない。
 自分は「少女達が大きな夢を見て必死に頑張る姿にどうしようもなく魅せられてしまう」という難儀な性癖を抱えているせいで、必然このジャンルのマイナー、弱小コンテンツを一通り履修したり、何個か入れ込んでは深い悲しみを背負ってしまったりしてきたのだが、そんな人間としてフラットに見た限りエビストはやはり真に弱小とは言い切れない恵まれた立場にあると思う。
 今も必死に頑張っているまだまだマイナーなコンテンツを応援している人達からすると、エビストですら自分達を代表してそんな主張をするには恵まれすぎているように映るかもしれないし、それに対して反感を抱かれても仕方ないのかもしれない。
 だが、ここでよく考えてみて欲しい。
 そもそものところ、そんな過激な主張を出来る正当性や権利など初めから誰も持ち合わせていないのである。
 たとえどれほどの、誰もが認める弱小コンテンツであろうと、その立場を利用して「大手との格差や自分達が恵まれない不幸を野放しする世界は間違っている」などと煽動し始めたらそれは完全な狂人である。発狂である。
 弱小コンテンツにだってプライドも野心も夢もある。いつか成功する日が来ることを夢に見ている。その美しい成功に繋がる目、真っ当なコンテンツとして歩む正しい道をわざわざ踏みにじり、否定しようなどとは誰も思わないだろう。
 世界の有り様へ真っ向から刃向かってみせるためにアイドル活動をしようなどというのは、その世界での栄達を夢見る以上、正当性や権利のあるなし以前に完全にどうかしている行いなのである。
 そして、たとえどれほどの大手コンテンツだろうが、いやむしろ大手コンテンツであるからこそ、先にも言ったようにそんな気の触れた行いは誰が――それが企画の中枢にいるプロデューサーであろうが総監督であろうが、断行しようとしても関係各所から全力で羽交い締めにされて止められる。
 結局何が言いたいのかというと、エビストがそれを主張することに正当性や説得力があるのかどうか以前に、そもそもその行い自体が狂っているのだということである。
 エビストは確かに弱小なマイナーコンテンツではない。
 何故ならどんなに弱小かつマイナーであっても等しく夢見る立身出世の道を自ら断ち切り、正攻法に依らない業界構造の転覆を煽動しているからである。
 いや、それは流石に言い過ぎかもしれないが、真っ当な成功の道を声高に否定するのは自らがその道に乗るつもりがないことを示してもいるだろう。
 そしてまた、確実に強大なメジャーコンテンツでもありはしない。
 それは規模や人気の差だけでなく、そうであるならば普通全力で誰かに止められるはずの言動を全く誰にも咎められずに押し通せているからである。
 では、弱小なマイナーでも強大なメジャーでもないエビストは一体何なのか。
 正解は、このコンテンツとしてあらゆる意味で常軌を逸した物語を描くために栄達を望まず、何者からも縛られないためにメジャーコンテンツへの進化キャンセルを連打しながら今の立ち位置に留まり続けている、完全に道から外れてしまっているコンテンツなのである。

 

 

 思い返せば、結構以前からエビストにはその疑惑が存在していた。
 即ち、「エビストにはコンテンツとしての規模を積極的に拡大させようという気がないのでは?」という疑惑である。
 コンテンツが始動してから一年目や二年目までは、不安と共に見守りながら「頑張っているのに中々大きく育たないなぁ」と思っていた。
 けれど、こうして地道に実績と人気を少しずつでも積み上げていって、いずれその頑張りを目に留めた大きなスポンサーと契約することで一気に伸びるつもりなのだろうと思っていた。
 そうでなくては、いつまでも利益の少ないマイナーコンテンツを運営し続けることは難しいだろうとも思っていたからだ。
 しかし、そこから緩やかに規模を拡大しつつも未だ大手とはいえない状態のままで三年目、四年目と経過していく内にこれはどうも様子がおかしいということに気がつき始めた。
 何故いつまでも壁を突き抜けるような気配もないまま、利益が出ているのかも怪しい状態だというのに、コンテンツが終了することなく継続しているのだろうか。
 それが、コンテンツに動きらしい動きがまったくない、ただ死んでいないというだけの植物状態だからということであればまだ理解も出来る。
 しかし、そういうわけでもない。楽曲やストーリーは継続的に配信、更新され、イベントやライブも定期的に行われている。コンテンツとしては元気で健康そのものといってもいいコンディションだ。
 一向にぐんぐんと大きく育つ様子が見られないまま、かといって死に近づいている気配もなくいつまでも元気に、一年目も二年目も三年目も四年目も変わらずエビストはのんびりとコンテンツを続けてきた。
 流石にここまでくればこのコンテンツは何かが異常だということを理解し始めるし、上で書いたような疑惑も浮かんでくる。
 もちろん、必死で頑張っているのに未だに認められずに不遇の日々を送っているという可能性もある。その実力と将来性を見込んでバックアップを申し出てくれるようなスポンサーもまだいないのかもしれない。
 しかし、冷静かつ俯瞰的に考えてみて、IPを一から立ち上げるのが酷く難しいこの時代に、何の大口スポンサーも背後に付けず継続的に巨大な宣伝なんかも打っていないというのにZeppダイバーシティーで単独ライブを行えるようなコンテンツを欲しがらない会社があるのだろうか。
 余程勘が悪いのでもない限り、エビストにはスポンサーとして一枚噛みたいと思わせる程の地力と将来性があることには気がつくはずだろう。
 だが、そうだというのに未だスポンサーらしいスポンサーの影も見えないままでほぼインディーズのような活動を続けているのは何故か。
 これはもうその種の申し出をエビスト側が全て断り続けているからだと判断するより他ないだろう。
 そうなると、やはりエビストはコンテンツとしての規模を積極的に拡大させるつもりがなく、自ら望んで今のサイズを維持し続けていると考えられる。そういうことになってしまう。

 

 

 最初にこの疑惑に行き着いた時に、自分が感じたものは正直に言わせてもらうと落胆に近かった。
 その時は、そんな風に今の規模に固執してまでエビストがやりたいことと言うのが一体何であるのかまだ不透明だったからだ。
 しかし、そのようにメジャー化を自らの意志で断り続けている同ジャンルのコンテンツはエビストだけというわけでもなく、実は前例が存在していた。
 ナナシスがそうである。このコンテンツの総監督は手ずから作品のストーリーを全部書き上げて作成しており、それを歪めざるを得ないようなメディア展開はこちらから断っているというほどのこだわりの強い職人気質であるらしいという話は風の噂に聞いていた。
 であれば、エビストも同様にこの先描こうとしている物語に手を入れられて変に歪められたくないから、スポンサーを付けずに今の規模で落ち着こうとしているのかもしれない。
 そうとも考えたが、それにしては不可解な部分も多々あった。
 これまで追ってきた中でエビストにナナシス程の頑固な職人気質のようなものを感じたことはなかったし、どちらかというと柔軟に様々なものを取り入れて作品をアップデートし続けてきたコンテンツという印象だった。
 そこまで作品の物語を筋書き通りに進めたいというこだわりも見受けられなかったし、他者の介入で描きたいテーマが大きく歪められてしまいそうだとも思えなかった。

 それに、そもそもエビストには物語云々以前にどうも根本的に商業主義的な展開を好んでいないような節が多々あった。それはストーリーの中で一貫して描かれている要素であったり、これまでの発言の中に見え隠れするものだった。
 そのせいで、コンテンツとして大口のスポンサーと契約してどんどんメジャーになっていこうというのを、明確な理由なくただ感情的に嫌がっているのではないかとも考えられた。
 しかし、いずれにせよその両方の可能性と信条というものに対して、自分個人としてはかなり懐疑的なスタンスであった。
 ナナシスも含めてそうなのだが、様々な制約を課せられている中でも、その上でなお面白い物語というものは作っていけると思うし、そうした折り合いの中で最善を追求している作品の方が個人的には好みだった。
 また、コンテンツとして利益と発展を貪欲に求めることもそう悪いことではないと思っていた。そうして規模を拡大させて利益を得ていく中で、それに応じたより豪華でクオリティの高い表現やパフォーマンスも可能になっていくだろうし、そうしてこそ今以上に作品や物語が面白くなっていくものだと考えていた。
 そうした理由から、その可能性を自ら放棄し、またそうすることで一体何がしたいのかがいまいち見えてこないエビストの展開に対する落胆は生じていた。

 

 

 しかし、今回のライブでようやく、そうしてメジャーコンテンツへの進化をキャンセルし続けることで一体エビストが何を表現したいのか、何を描きたいのかについて判明したように思う。
 そして、それは「そうしなければ出来ないことなど本当にあるのだろうか?」という懐疑や、規模の拡大とコンテンツ発展の先で見られるだろう可能性が潰えた落胆を完全に吹き飛ばされてしまう程のものだった。
 確かに、上に長々と書いてきた通りに、これはあえてこの規模を維持しつつ何のスポンサーもつけていない自由度を持ったエビストだからこそ実現できる表現であり、そうでなければ描けない面白さであった。
 発展を自ら拒否してまで一体何がやりたいんだという問いかけに、「これがやりたかったんだよ!!」と答えられたらそれはもう納得するより他がない。
 さらに、それは同時にエビストが自分の想像を超えて遙かにぶっ飛んでいてイカレた考えで動いているコンテンツなのだということにも改めて気づかせてくれた。
 これまでは正直言って、前例として挙げたナナシスのその頑固で職人気質なところがどうも自分の性に合わないこともあり、それを単に真似して追随しているように見えるエビストの姿勢に不安や不満があったりもしたのだが、その印象を綺麗さっぱり消し飛ばす程に両者の実態はまるで違っていた。
 エビストはコンテンツの規模を拡大したりスポンサーをつけたせいで自分達の描きたい物語を歪められてしまうことを嫌っている職人などではない。
 ただ、そうして縛られることでルールのない闘いが出来なくなるのを嫌がっているだけなのだ。
 両者は一見似ているようだが、ナナシスの方はまだルールの中での理想を求める良識を持ったコンテンツだった。しかし、エビストの方はやりたいことがルールそのものに抵触するから誰も介入させずに自分達だけでやりたがっていたのだった。まさしく狂っているとしか言いようがない。
 今まで自分はエビストも(多少逸脱しかける傾向は見せていたもの)基本的にはまだルールの中で競い合うつもりの作品だと思い込んでいた。しかし、完全に見誤っていた。

 エビストはこうして完全に法則から外れることで描ける面白さを目指していたのだった。
 そして、今回のそのルールから逸脱しなければ出来ない形式のライブを、確かに途轍もなく面白いと感じさせられてしまった。こうなるともう、完全に自分の負けである。
 今回のことでエビストは自分のみみっちい予測や常識というものを遙かに超えていく、ヤバいコンテンツになってしまった。

 

 

 だが、世界がこれまで通りのままであったなら、エビストのそんな狂気的な挑戦もジャンル内の片隅でひっそりと狂い咲いた徒花でしかなかったかもしれない。
 何だかんだで世の中結局正攻法が一番強いし、規模の差に伴うクオリティの差というのも圧倒的だ。予算の大きさとそれによって作られるリッチな成果物の暴力の前には、知恵を絞った奇策や工夫など容易く握り潰されてしまう。
 まともなものをまともに楽しめる環境がある限り、まともでない楽しさをわざわざ選ぶ必要性はあまりないのかもしれない。
 しかし、何の因果か運命か、今や世界は大きく乱れ、近年で一番の混迷の真っ只中にある。
 大きな会場で大人数を集めることで資金も集め、それを予算として回転させてド派手に盛り上がるライブを行い更に人気を高めていくという、強大なメジャーコンテンツの得意技は半ば封じられてしまっている状況だ。
 大手であればあるほど今現在そんな全力を出すことが出来ずに、積み重なる制限の中で縮こまってしまっているような、どこか精彩を欠いた展開をしていくより他ないという印象を受ける。
 そんな世相の中にあって、メジャーになることを自ら拒否することで得た自由度の高さと小回りの利く規模感を十全に駆使して、制限だらけの今の状況すら表現に組み込んで利用してみせるエビストはもしかしたら今が一番ノリにノっており、輝いている時期かもしれない。
 治世においてはただの変わり者でしかなかったスタンスが、乱世においてもっともその全力を発揮出来るものへと変化してしまった。イカレたヤツほど乱世においては輝ける。それほどまでに世の中は異常事態だと言える。まさに悪魔が微笑む時代だろう。
 冗談さておき、自分より上位にあるコンテンツがその身の大きさ故に不自由な制限を課され、保守的な考えから中々抜け出せずに足踏みしているしかない中で、躊躇なくグイグイと踏み出していき、時代に即した革新的な表現を模索していける立ち位置とバイタリティをエビストがこの瞬間に備えていたことは素直に幸運であり、また実際それを行えていることは称賛に値するものだと言えるだろう。
 時代は今まさに一番エビストの味方であるのかもしれない。

 


 そしてまた、世界がこんな状況になってしまったことで、従来型の『二次元アイドルコンテンツとしての成功パターン』というものもその根本が大きく揺らいできたようにも思える。
 曲を出して、ライブをして、人気を積み重ねていくことでアニメ化まで辿り着き、そこでまた一気に人気を上昇させることでより大きな会場でのライブを行うことが出来るようになる。
 そうした繰り返しでファンを増やし、コンテンツとしての規模を拡大し、それに応じてよりクオリティの高い曲やストーリー、映像作品やライブパフォーマンスをファンへ届けていく。
 それこそがこのジャンルのコンテンツとして歩むべき一番正しい道であると、これまでは自分もそう信じていた。
 だが、今はその肝心の大型のライブやイベントを積極的に行うことで人気を拡大していくという手法が大きく制限されてしまっている状況だ。
 これまでの二次元アイドルコンテンツは軒並みライブを行うことを前提としてプロジェクトが組まれていた。何と言ってもそれが一番集客と集金に繋がり、コンテンツ規模を大きく拡大させられる手段だったからだ。
 それが封じられてしまった、あるいはこれまでのような形で行うのが難しくなってしまったとあっては、その成功パターンも正しく機能するのかどうかは怪しくなってくるだろう。
 そうだというのにいつまでもその旧態依然とした形式に固執して、制限を課されたままダラダラとそれを続けていくのはどうだろうかと思えてくる。
 今まで通りの過去にいつか戻れる日を願いながら、どことなく色褪せて不完全な従来のやり方を続けていくことは、あまりにも不健康ではないだろうか。そして、何よりそれが本当に面白いとは思えない。
 ただでさえ面白くはないことばかりな今の状況、せめて追いかけるコンテンツくらいは何かを我慢しているような様子のない、溌剌として面白いものであって欲しい。
 それに、これは前々から薄らとそうではあったのだが、今回のことを受けていよいよ本格的に二次元アイドルというジャンルとして定番の設定や物語――ある程度のテンプレートのようなものも更新され、新しい形を模索することの必要性が強まったように思える。
 そつがなく出来の良い楽曲。クセのないお行儀の良いストーリー、キャラクター。まあ及第点と言える程度のクオリティでのアニメ化。
 そうして基礎を作った上でドカンと大きなライブを行い、コンテンツとして打ち立てる。
 世界がこんなことになっていなければそれもまあいいだろうとは思うものの、今はその肝心要のライブが封じられてしまっている状況である。
 そんな中でただリアルでのイベントやライブのための下敷きとして作られるような作品だけ見せられて面白いのか、楽しめるのかと言われると、もうこれがまったく面白くも楽しくもないのである。
 作品として何の信念もない、描きたいものもない、これまでの先例から導き出された正解に近いものをただなぞっただけのような作品では、今この状況下においては何の感慨もなく消費されて終わるだけだ。
 今までは何とか騙し騙しそれでもやってこられたが、流石に今回ばかりはもうここら辺が限界であろう。
 「○○っぽいのがやりたい」だけで二次元アイドルものがやっていける時代は明確に終わりを告げた。
 二次元アイドルコンテンツとして本当に成功を目指すならば、それなりの信念と覚悟を持ち、自分が次の新たな形になるつもりで、この時勢に即した作品を作っていかなければならないだろう。

 

 

 そんな考えに至ったのはまあ最近の色々なものを見た上でのことのなのだが、やはりその一番大きな原因は今回のエビストのライブだった。
 上では散々狂ってるだのイカレてるだのと評してきたが、そうであってもやはり何より今回のライブで得た最大の感情は『面白さ』だった。
 他のコンテンツがどこか「今は配信だけでしか出来ないけど我慢してね」という印象が漂う不完全燃焼なオンラインライブを作ってきた中で、初めてエビストだけがオンラインだからこそ出来るぶっ飛び具合を備えた、オンラインだからこそ面白いライブをぶつけてきた。
 そして、そんな風にオンラインの可能性と優位性を見せつけてきた後で配信なしの現地開催のみのライブを行い、両者の比較を物語に重ねてライブの面白さそのものに転用してしまうこのギミック。
 これについては上で散々書いてきたことなのでここではもう語らないが、こんな風になってしまった世界でも、いや、こんな世界だからこそ出来る面白い表現はあるんだぜと言わんばかりの今回のライブには本当に大きな衝撃と感銘を受けてしまった。
 エビストは確かにイカレているのかもしれない。狂っているのかもしれない。
 真っ当な成功という道を自ら突っぱねて、どこまでも自由で過激な表現を追い求める様はそう思われても仕方がない。
 しかし、それでもなお同じくらい確かなことは、エビストはいついかなる時も作っている側の方が誰よりも、もしかしたら追いかけてくれるファンよりも全力で楽しんでコンテンツを作り上げているということである。
 そして、エビストはこんな塞ぎ込みたくなるような世界の状況すら、作品の中に組み込んでしまうことで楽しもうとしている。楽しんでしまおうとしている。
 何よりまた、いついかなる時もエビストはコンテンツを通して追いかけているこちらのことも楽しませようとしてくれている。
 こんなどうしようもない状況だからこそむしろ面白く思えるものを作り上げて、こちらにもそれを楽しんでしまえと呼びかけている。
 エビストに信念はあるのかと問われると、自分程度ではその真なるものを読み取ることはまだ難しいが、少なくとも人気や利益すら度外視して『楽しいことをやる』という姿勢だけは一貫していると言えるだろう。
 今はまだその面白さを知る人は少ないかもしれない(それはまあほぼ自業自得なのだが)。その存在はちっぽけなものなのかもしれない。
 だが、一度でもそれを知った人の中には確実に何かを残す力がこのコンテンツにはハッキリと存在していると思う。
 少なくとも、今回のライブは自分の心に大きな爪痕を残してくれた。この感情はただの一時だけで消費されてしまうものではなく、長いこと忘れられないものだろう。
 制限だらけの今の状況。それがもう一年以上。そして、少なくとも今後数年はこれが続いてしまうのかもしれない。
 同ジャンル内のあらゆるコンテンツが全力を封じられたような状態で、最も正しかったはずの成功のモデルというものも崩れつつある中、そんなままで道半ばにして歩みが途絶えるものも増えてきた。一体コンテンツにとっての幸せとは何なのだろうと自問し続けてしまう日々である。
 だったら栄達にも成功にもこだわらず、自分達が本当にやりたいことだけを何にも縛られずに自由にやりきれることこそが、今この時代ではコンテンツにとって一番の幸せなのかもしれない。
 コンテンツの寿命はそう長くない。数年の時間というものは致命的に大きい。それがアイドルものであるならば尚更だろう。
 その期間を何かを我慢して燻ったまま過ごすくらいなら、将来的な成功をかなぐり捨ててでも全力で走りきる方がいいのかも。
 今現在のエビストを見ていると、これまでの信条を曲げてそんな風に思えてきてしまう。
 エビストの作品としてのゴールがこの先のどんな場所にあるのかはわからない。
 今回自分では追いつけないような領域へ踏み出してみせたエビストの行く末は、もはや自分の予測できる範囲を飛び越えてしまっている。
 もっととんでもないことになるのか。それとも人気的には相変わらずこのままの調子なのか。
 だがいずれにせよ確かなことは、どんな結末を迎えるにしてもそれはエビストが自由に、やりたいようにやりきって、散々に全てを楽しんだ末のものだろうということである。
 そこにもう心配はない。エビストはきっと、どんな場所でも幸せだったと笑っているのだろう。そうするために活動をしているのだということが今回わかったことでもある。
 そして、果たしてこんな時代がいつまで続くのかはわからないが、エビストを追いかけている限りは少なくともそれすらも面白いと自分も思えるようになってきた。
 いつかそう思わせてくれるエビストの終わりを見届ける時にも、自分はそれすらも面白く、楽しんでいられることを願うばかりである。