劇場版ラブライブを見て自分のチンチン取りたくなった話

タイトルは酷いの一語に尽きますが、実際真面目な話なのです。

というわけで、ラブライブの劇場版があまりにも凄まじい内容すぎて二ヶ月経っても頭から離れてくれないので、いい加減自分の精神を解放するためにもダラダラと思ったことを書き殴っておりました。

考察とまではいきません、そこまで難しく考えて見ていませんし……。だから、ただの個人的な感想文に過ぎません。

これを読んで貰って「みんなもそう思うよね!?」なんて主張をしようとも思ってもいません。この映画に関しては本当に感じ方、捉え方は個人によって千差万別だと思うし、そこも作品の魅力の一つかなとも思うので。

ただそう思っているなら何で感想なんか書くんだよという話ですが、まあ先に言った自分を堂々巡りの妄想から解放するためが一つの理由です。

そしてもう一つの理由は祝福するためです。いや結婚にはそれが必要だからとかじゃなくて。

名作、駄作の感じ方は人それぞれですが、少なくともこの映画は一つでも多くの祝福を受けて然るべき内容だったように思います。

そんな祝福の一つになれるかどうかはこんなタイトルつけてる時点でどないやねんという感じですが、ともかく出来る限りはそうあるべくこの感想を書いておきたいと思っていました。実際どうなったかは怪しいところですが。

ラブライブ!へ祝福を。

そう、自分は五年間の夢に対して祝福を送らなければならないのです。

何より1stシングルの発売日から今この劇場版まで一切ラブライブと離れることなく追いかけてきたダメ男の意見なんて中々見られるものじゃないと思いますので。

そういう貴重なサンプルとしても役割を果たせればと思っています。

それでは、前置きはこの程度にして以下の本文からしばしお付き合いください。

 

 

 

■終わらせたという凄まじさ

今回のこの作品は、アイドルものとしては画期的と評していいと思われる。

いや、画期的というよりは、誰でもやることは出来たけども様々な理由でやれなかったことを躊躇なくやってしまったと言う方が正しいかもしれない。

この劇場版の凄まじさはただ一つ、「終わらせた」ことにある。

アニメシリーズとしては最後の作品なのだし終わるのは当たり前なのでは…?、と思うかもしれないが、違うのだ。

この劇場版は恐らく、アニメシリーズ以外のラブライブというプロジェクトの全ての未来を抱き込んで終わってしまったのである。

いくらなんでもそりゃ言い過ぎだとか、思い詰めすぎだとか言われるかもしれませんが、個人的にはそう感じた。

完膚なきまでに終わってしまったラブライブμ’s

彼女達は何故それを選んだのか?

それを選ぶことで何をして、何を伝えたかったのか?

劇場版公開から二ヶ月、毎日毎日それを考えて、ようやく自分なりの結論に達することは出来たかと思う。

上手くまとめられなくて支離滅裂な文章になってしまうかもしれないが、それでもこの一つの受け取り方を記しておきたい。

これを見たことで得てしまった自分の苦悩を忘れないためにも。

 

 

 

■劇場版ラブライブは「ラピュタの皮を被った風立ちぬ」?

この映画は例えるならば、ラピュタの内容を期待してラピュタを観に行ったら、見ている途中でいきなり「はい、実はラピュタはここまでです。後は風立ちぬをやります」と言われて今まで見ていたラピュタが終わり本当にそのまま風立ちぬが始まってしまうような映画である。

わかりにくい例えだと思われるかもしれないが、簡単にすると本当にこうとしか言えない。

もう少し詳しく言うと、この映画は一つの作品の中でまさかの二部構成になっているのだ。

海外ライブ編と、帰国後のライブ編に全く分断されてしまっているのである。

そしてその海外ライブ編が見る前に観客全員が期待していた、あるいは想定していたラピュタの部分であり、帰国後のライブ編が誰も期待も想定もしていなかった風立ちぬの部分に当たる。

殆ど映画の内容が知れ渡るようになった今では「ふーん、そうなんだ」くらいの反応かもしれないが、公開初日、あるいは何の予備知識も入れずに映画を見た時のこの衝撃は計り知れなかった。

その時点で割ともう凄い映画だとも思う。びっくり箱映画だよ、ええ全く。

何故なら誰も風立ちぬをやるなんて本当に思っていなかったのである。

ある程度それに近い内容には触れるかなとは考えていたかもしれないが、それでもここまでやるだなんて全く、本当に全く思っていなかった。

そして何より、制作側がそれを巧妙に、細心の注意を払って隠し通した、あるいは何かを切り捨て犠牲にしてでもファンを騙し通したのが一番の理由であるのだ。

普通、ここまでやるだろうか。全てが明らかになった今、思うことはそれである。

正直この部分だけでも、この作品に携わった監督以下スタッフは狂っていたと言えるだろう。

 

 

 

■劇場版ラブライブにおける盤外戦術的カラクリの面白さ

まずはどうしてそれがそこまで凄まじいことなのかを、個人的な主観を混ぜながら解説していきたいと思う。

では、何故自分も含めて大多数の人がラブライブが終わりを描く気はないと思い込んでいたのか。

一つは二期の最終回に原因がある。

ラブライブはそこで一度終わらせることが出来た、あるいは終わらせようと準備していたのを、劇場版に続けるためというのもあるが、とにかく一度引っ繰り返したのだ。

何だかんだで1クールかけて積み上げてきた終わりを曖昧にしてしまった。

とはいえ、それはその時の作品の立場を広い目で見ると、またアイドルものとしての約束から言っても当たり前の選択ではあった。

不満に思った人も当時は大勢いただろう。自分としても何となく肩透かしを食らった気分になったのは事実である。

ラブライブは終わらない、少なくとも色々なしがらみが発生した今終わることも出来ない。

そしてスタッフも終わりを描く気はなかった。

視聴者はそう感じたのである。

そして、そんな印象のまま約一年弱劇場版まで間が空き、その間のプロジェクトの目覚ましい発展具合で更にその考えを強くしていくことになる。

人気絶頂、数々の新記録を樹立するまさしく時代の寵児

ラブライブは劇場版を以て更にその地位を盤石のものとするのだろう。そのための劇場版なのだ。

公開前の空気はまさしくそんな感じであった。

そして第二の原因は劇場版に関する水も漏らさぬほど徹底した情報統制にあった。

二月のライブで披露されたトレイラーから公開直前の予告情報に至るまで、映画後編の映像は殆ど使われずに海外ライブ編のものがメインで流されていたのである。

これは確実に、観客に対して海外ライブ編が劇場版のメインであると誤認させるためだろう。

まんまと騙されましたよ、ええ本当に。一切を疑うことなくである。

そして、そうさせることが出来た背景には、アイドルものの作品を取り巻く風潮まで利用した巧妙なカラクリが存在していたのだ。

それは一体どういうものなのか?

まず、第一の原因から、我々はラブライブがはっきりとした終わりを描くつもりのない作品だと思い込んでいたこと。

これにより、劇場版は継続していくμ'sの新しいチャレンジを描いた作品になるとまた勝手に思い込んでしまった。

そして次に、ラブライブより先にあったアイドルアニメの劇場版がある種のテンプレートを形成していたこと。

まあ、アイドルマスターアイカツのことなのであるが、この二者とも大筋は劇中で開催される最大規模のライブに向けて練習し、トラブルを乗り越え、絆を深め、様々な準備を重ねて、そしてクライマックスでそのライブを成功させて新しい場所へ大きく羽ばたき、終わるというものになっている。

劇場版というスケールに見合った、外すことのない固い構成と言えるだろう。

だから当然、μ'sもこの構成に倣うものだと決めつけてしまった。

そのために、海外ライブというわかりやすいフェイクもぶら下げられていたわけである。

そして、それらの情報や状況を総合した上で類推される劇場版ストーリーの概形は、μ'sの新たなチャレンジとして海外ライブが行われ、見事μ'sはそれを成功させ、今よりも新しく大きな場所へ羽ばたいていくというものになるだろう。

これは半分は正解であった。

そして、それ故に、まだもう半分が存在するなどと考えもしなかったのである。

だってそうだろう。

誰が二期の終盤をわざと台無しにするという犠牲を払ってまで、安泰とも言える構成を捨て去ってまで、ファンを驚かせるために騙し通すなどと思うだろうか。

それで得られるのは初めて見る時一度だけの、それも誰も内容を知らずに見に行ける限られた期間だけにしか通じない衝撃。

まさしく狂っている。

だからこそ、それは脳天を揺さぶるほどに効いたのだ。

まずはこの衝撃が、自分を強く劇場版ラブライブという作品へ引き込むことになった。

初見の時の、

「海外ライブが…始まっちゃっ…た!?」

→「終わっちゃっ…た…!?」

→「話が続いちゃっ…た…!?」

という三段階の衝撃はまさしく言葉に出来ない。

「えっ、一体これからどうなるの全く予想出来ない!」というワクワクを、一番最初に見た時は楽しむことが出来た。

けど、それは別に本編自体の面白さとはまあ、あまり関係はないのだが……この作品の盤外まで巻き込んだそんな驚きの構造もまた劇場版の楽しさと凄さの一つであったことを、まずはここに書いておきたく思う。

 

 

 

■劇場版ラブライブは名作なのか?

ただまあ上で書いたように、そんなインパクト重視な構造だけで中身が伴っていなかったらただのビックリ映画で終わってしまっただろう。

しかし構造の妙は勿論であるが、そんなギミックを駆使して描いた内容もまた凄まじいものであった。

構成でまず度肝を抜き、内容でもまた度肝を抜く。

隙を生じぬ二段構えで、この映画は自分の心をズタズタにしていった。いい意味でだよ、うん、多分。

以下からは、その内容が如何に凄絶なものであるかを記していきたいと思う。

 

 

まずこの映画が「名作」なのかと言われると、実は自分としても必ずしもそうだとは言い切れないところがある。

2クール分やってきたアニメで積み上げたものと完全に地続きになっているので仕方のない部分もあるのだが、映画館にふらっと立ち寄った何の予備知識もない人が見てもいきなり楽しめるような作りではないからである。

テレビシリーズアニメの続編劇場版全般がそんな感じではあるが、特に今回の劇場版ラブライブはそれが顕著だろう。

何も知らなくても万人が楽しめて、どれほど時間が過ぎた先の人が見ても色褪せずに面白い。そんな作品ではないことは確かである。

しかし、それでも尚この映画は素晴らしいと称えられるほどの魅力と面白さを持っている。

何故そう思えるのかと言うと、それはこの映画がラブライブの「責任」を果たし、ラブライブとしての「答え」を出したものであるからなのだ。

五年間という旅路の果てにラブライブとμ'sの出した結論。

それはこのラブライブという作品に関わってきた時間が多いほどより深く響くのかも知れないが、たとえこの映画で初めてこの作品に触れた人にでも何かしら心を打つものがあるほど美しいものであった。

そうであったと思いたい。

だからこそ今の結果にも繋がっているのだと、そう信じている。

 

 

 

■アイドルもののお約束は「終わらない」こと

では、その果たした責任と出した答えとは一体何なのだろうか。

それを解くためにはまず、この映画が今までどのアイドルものも踏み込まなかった領域へ初めて踏み込んだ作品だということを語る必要があるだろう。

先にも少し触れたが、これまでのアイドルものは明確な終わりというものを描かないものであった。

正確には、ある種の永遠性を残した終わり方をするものだった。

つまり、作中で最初に掲げた、あるいは物語を進める内に見えてきたある程度の目標を達成し、相応の地位についた時点で終わるという形である。

アイドルであるならば、その目標なり地位とはトップアイドル、大スターとなることが殆どだろう。

物語の構成上、アイドルはクライマックスで最高の盛り上がりを見せたその果てに目標を達成する。

自分達の夢を叶えたアイドル。

後はまだまだその先を目指すなり、これからも活動を頑張りますなどの曖昧な継続性を物語の最後に少しだけ示すことで、語られずとも生き続けるアイドル達の姿はそこで永遠を得る。

その代表例が先輩であるアイドルマスター(無印)だった。

その劇場版は、天海春香765プロのメンバーがアリーナライブを成功させ、名実共にトップアイドルとなり、その後もトップアイドルとして活動を続けていくということを示して終わる。

またアイカツの劇場版も同様に、主人公である星宮いちごが大スター宮いちご祭りを成功させ、神崎美月を越えてトップに立つことを主軸に据えたストーリーであった。

終わることのないアイドル達の物語。

別に、それ自体は何ら悪いことではないだろう。

ずっと続いていく夢というのは素晴らしいものである。

コンテンツを継続していく上でも、これまでの展開に一応の区切りはつけつつ、この先も語られないだけで物語は続いていくのだと思わせるというのは重要なことだろう。

ラブライブも二期の終わりはそういうものであったし、今回の映画も前半までならそれをもう一度やるだけのものだった。

しかし、劇場版ラブライブはそんなこれまでの約束をぶち破って、その前半だけでは終わらなかったのである。

その残った映画の後半部分で、これまでのアイドルものの更に一歩先へ踏み込んだのだ。

ある意味この劇場版のメインストーリーもそこから始まると言っても過言ではないだろう。

則ち、「目標を果たし、到達点に行き着いた、その後のアイドルはどうするのか?」を、曖昧にもせず、ぼかしもせずに描いたのがこの劇場版ラブライブなのであり、何よりこの作品の一番評価されるべき素晴らしい部分だと思うのだ。

 

 

 

■普通の終わりの一歩先

では、その「終わりの先の物語」とでも言うべきこの映画の後半部分とはどのようなものなのだろうか。

スクールアイドル全国大会たるラブライブを更に盛り上げるために海外でのライブ公演を成功させたμ’sという、従来のテンプレートに沿った内容。

普通ならそこで終わるはずの物語が、ここから更に続くことになるのが後半部分となる。

大体の話は皆わかっているとは思うが、理解を深めるためにも簡単に内容に触れていこう。

海外ライブを終えて帰国したμ'sを待ち受けていたのは、想像以上に人気の膨れ上がった自分達という現実だった。

空港にはファンが詰めかけ、秋葉原の街は自分達の広告一色に染まり、街を歩くだけでも人だかりが出来て困るような状況。

彼女達は間違いなく押しも押されもせぬ大スターとなってしまっていた。

そんな現状を受けて、μ'sは三年生の卒業と同時に解散することを決めたはずの活動をもっと続けて欲しいという要望を、ファンのみならずその上から、もはや取り巻く世界全てから突きつけられることになる。

人気の頂点に立った今、μ'sは求めに応じて活動を続けるのか、それとも自分達で決めた通りに終わるのか。

悩んで、迷って、自分達の答えを探そうとするμ’s

劇場版の後半はそういう物語になっている。

自分達の想像以上の到達点に行き着いた時に、まだ進むのか、そこで止めるのかを一切曖昧にせずにはっきりと選択させる。

そして、それをしっかりと時間を使って描写する。

それこそが劇場版ラブライブが見せた、終わりの先のアイドルの物語であった。

 

 

 

■劇場版ラブライブは現実のラブライブともリンクしているのか?

話は少し変わるのだが、このストーリーを見て、大半の人が作品内だけではない現実のμ'sを取り巻く状況をも連想するだろう。

秋葉原の街を埋め尽くすほどのμ'sに関する広告や、人気の絶頂ぶりの描写は一見するといやらしいほどに今のラブライブというコンテンツに関する現実を反映しているようにも見える。

そこら辺に反発感を覚えたり、現実での出来事に対する作品を利用した言い訳だという意見を抱く人も少なくないだろう。

一過性の状況を如実に反映させたそのような造りは、作品としての面白さの普遍性も減少させてしまうだろう。

そもそも本当に現実とリンクさせている描写なのかどうかも実際意見の分かれるところかも知れない。

果たしてラブライブ劇場版は現実(いま)のラブライブそのものを示しているのだろうか?

そしてそういう風に見るべきなのだろうか?

そこら辺も人によって決めたらいいとは思う。だが個人的には、ある程度のリンクを認め、その上でこの劇場版を噛み砕くべきだと思っている。

制作時期的にここまでピッタリと状況がハマってしまうとは向こう側も考えていなかったのではとも思うが、意図的な現実の取り入れを行っているのは間違いのないことだろう。

それに何より、そのリンクは今しか味わえない面白さと意味を持った、この劇場版を構成する重要な要素だと思うのだ。

だって、普通あり得るだろうか?

劇中で彼女達はここまで人気絶頂なんですという、コミカルささえ感じるほどのスターとしての描写が、そのまま作品内を飛び越えた現実での姿の忠実な再現でもあるだなんて。

後でも詳しく語るのだが、こんなことはきっとラブライブ以外には出来ないのだ。

そして、ラブライブにしか出来ないことをやったからこそ、この劇場版は素晴らしいのである。

だからこそ、この場合には大いにアニメと現実の密接な結びつきを楽しむべきであると思うのだ。

何より、そのリンクは企画当初からラブライブの特徴の一つとして頑として存在してきたのであり、そしてここに至ってこれほど大きく花咲いたものでもあるのだから。

 

 

 

■青春だからこそ終われる物語

では、そんな現実とのリンクも踏まえた上で、μ'sはどういう決断を下したのだろうか。

結末を言ってしまうことになるが、彼女達は終わりを選ぶことにした。

従来の終わりのその先を描いた中で、続けるのではなく更なる完璧な終わりをμ'sは望んだ。

これも、アイドルものしてはまた異例と言える決断だろう。

二次元という、老いることも衰えることもなく時間を止めたまま物語を続けられる場所において、何故μ'sは終わりを選んだのだろうか?

その選択をした理由を、ここからは考えていきたいと思う。

 

 

まず理由の一つとして考えられるのは、ラブライブの設定面における、普通のアイドルとは違うスクールアイドルという立場がある。

プロのアイドルではない、アマチュアとしてのスクールアイドルだからこそ、彼女達には自分達の意志で活動を終わらせることが出来るのだ。

学生だからこそ、青春だからこそ、終わらせられた。

あたかも高校球児達が甲子園を戦い抜き、優勝した後で部活を引退するかのように。

それがある程度許される設定が、スクールアイドルだったのである。

……とまあ、こう書いてしまえば簡単な話で終わってしまうだろう。

しかし、実はそんな終わりが許されたのは二期の最終回までだったのだ。

確かに、二期のあの時点でメールが届かずに門を潜っていたならば、美しい締め方だったかもしれない。

だが、それでは単にラブライブというアニメの物語が綺麗に締まっただけに過ぎなかっただろう。

それを今回の劇場版に繋げたことで、単なる物語的な終わりを超えた本当の終わりとでもいうべきところにラブライブは到達出来たのである。

いや何かもう言い過ぎて褒め殺しみたいに見えるけども。しつこいけども。これは本当に画期的ですごいことだと思うのだ。

何故なら、劇場版では彼女達に再度続ける道もあることが提示されていたからなのである。

卒業というどうしようもない壁も、9人だからこそμ’sという自分達に課した制約も乗り越えた、μ'sを更なる高みへ上らせて走っていける道。

それを敢えて選ばなかったからこそ、それでも尚終わるという道を選んだからこそ、その終わりはただの物語という枠を越えるものになったのだ。

彼女達はいつまでも輝いていける未来ではなく、最高に輝いていられる今を選んだ。

それはとても美しくて、それ故に苛烈ですらある生き方だろう。

まさしく青春だからこそ選べて、青春だからこそ描けた、ラブライブだけの結論なのである。

 

 

 

■禁忌に触れたラブライブ

しかしである。その結論に行き着いたことは、実はこうして言葉として表す以上に凄まじいことだったりする。危(ヤバ)いことだったりする。

何故なら、それはある意味アイドルのタブーとも言える部分に触れているからである。

つまり「アイドルとは輝ける時間に限りがあるからこそ美しい」という、

「実はみんな気づいているけども色々とデリケートなとこに関わってるアレだから触れないでいようね」

って約束していたところを、今回ガッツリと何一つぼかすことなく声高に主張してきたのだ。

劇中では再三「スクールアイドルの話」として描かれているが、本当はこの映画が話している、描いている全てのことはスクールを越えた普遍的なアイドルに関するそれなのである。

学生であるから、部活レベルであるから、だからこそ一つの青春時代として、普通とは違うアイドルとして描いている、描けている側面は確かにある。

しかし、学生でなくても、仕事としてであっても、アイドルが活動して輝いて生きている時間というのは全て青春なのである。

そして青春とはその時間に限りがあるからこそ、終わりがあるからこそ、最高に燃えて、最高に輝いていて、最高に美しいのだ。

その期間の長さは人によりまちまちであるが、どのアイドルもきっと自分達の青春を駆け抜けているのだ。輝ける時間こそが青春なのである。

そして、その輝いていられる時間には確実に終わりがあり、寿命のようなものがあるのだ。

ある日いきなりその終わりが来て輝けなくなるわけではなく、徐々にその光は小さくなっていって、きっと以前のようには出来なくなってしまう。そんな日がきっと来るのである。

そして、誰もはっきりとそれを終わりだと言わないだけなのだ。

もちろん、それが悪いわけではない。その最高に輝いていて、最高に美しかった時間を過ぎてしまったとして、それでも続ける覚悟や強さというのは素晴らしいものである。

だが、自分達が本当に輝けなくなったのならば。走り出した頃のように、走り抜けていた時のように、最高に輝いていて、最高に楽しくて、最高に美しい自分達でいられなくなるのならば。

それならば続けていく意味などない。そうなるくらいなら、最高の今で終わりたい。

そんな苛烈な思想や生き方もまた、素晴らしいのではないだろうか。いや、実際素晴らしいのだ。

今回劇場版ラブライブが示した一つのスタンスがそれなのである。

そして、それは今まで本当に誰も言わなかった、商業的な部分やら倫理面やらその他諸々の観点から口に出せなかった禁忌にダイナミックに触れまくっているのである。

永遠は美しい。ずっと続いていく強い輝きを謳うのは何より美しい。

しかし、刹那的で、儚くて、終わりのある最後の輝きを美しいと思うのもまた人間の心理の一つなのだ。

そして公言することが憚られるだけで、アイドルについても皆そう思っているのである。

でなければ、その側面が存在しないならば、この業界は成り立たない。いわば陰の部分である。

そのアイドルの陰を、今回の劇場版は究極の陽へと転じさせてしまったわけである。

マジで頭おかしいとしか言いようがない。

陰があるからこそより光が強くなるどころか、陰こそが真の光だと主張してるようなもんなのである。

そうやって今までのアイドルものが是としてきた理想の対極中の対極を描いて、新しい理想としてみせたのが今回の劇場版ラブライブなのだ。

 

 

 

■μ'sは頂点を目指していなかった?

だが、そのアプローチが過去になかったわけではない。劇場版アイカツが、実はそれのプロトタイプとでも言える造りになっている。

これまでのアイカツにおける、何もなかった場所から新しいことへ挑戦していく、魅力的な主人公像である星宮いちごを、まだその位置にある内に出せる最高の輝きを以て終わらせる物語。それが劇場版アイカツでは描かれていた。

それでも、星宮いちごは立場を変えて、これからも新しい夢を追い続ける存在として続いていくことが提示されていた。終わりを経て生まれ変わる。形を変えた永遠性の物語であった。そこまでが限界でもあった。

そして今回のラブライブはその限界を越えて、というかアクセル全開でぶっ飛んで向こう側まで行きやがった。

九人分まとめて一グループの、生まれ変わりも未来もない完全な終わりの物語である。究極的とすら言えるだろう。

上でも言ってきたように、プロではないアマチュアとして、卒業という期限のある学生としてのスクールアイドルという特殊な立場がその終わりを可能にした。それは確かにこういう物語にすることが出来た理由の一つである。

しかし、たとえそんな学生という立場や卒業という期限が存在していなかったとしても、μ'sはここで終わりという道を選んでいたのではないかと思うのだ。

それを選ぶグループだったのではないかと、そう思えてしまうのである。

何故そう思うのか、思えるのかの理由は劇場版の本編中でも描かれているが、改めてここで丁寧に考えていきたい。

まず重要なのは、μ'sは別にトップアイドルやスターダムの頂点を夢見て集まったグループではないということである。

発起人の穂乃果が憧れたのはプロのアイドルではなく同じスクールアイドルであるA-RISEにであるし、メンバーの中でプロになることを夢見ているのはにこだけである。そのにこにしても、別に9人でプロになるためにμ'sに在籍しているわけではない。

ではグループの目標とは一体何なのだろう?

廃校を救うため?

ラブライブという大会で優勝するため?

そのどちらも一期と二期の活動における目標ではあったが、それらは全て達成されてしまった。

それらと同じように映画での目標とされていた海外ライブの成功もまた、前半で完璧に達成されてしまう。

その副産物として、本人達すら望んでいなかったほどの全国的な知名度と人気まで得てしまった。

グループとしての目標や夢が、ここまで余すことなく達成されてしまった例というのも珍しいくらいだろう。

夢を全て叶えたグループ、μ’s

そんな立場になった上で、この先も活動していくことで、もっと大きな、見果てぬ夢と目標を達成し続けることを願うのか。

普通のアイドルならば躊躇なくそれを選ぶだろう状況で、μ'sは迷った。

何故なら始まりから途中、そして終わりに至るまで、それを夢見てきたことが一度もないからなのである。

そして結局は、新しい夢を追い続ける道を選ばなかった。

それには何よりも、自分達がどうしてグループを作って、活動を始めたのかという根源的な理由が関係している。

そして、繰り返すことになるが、μ'sのそれは決して頂点に立ち、見果てぬ夢を追い続けることではなかったのである。

 

 

 

■μ'sが本当に目指していたもの

では、μ'sというグループの根っこ、今までアイドル活動を続けてきた理由とは一体何なのだろうか。

それは一言で表すならば、「輝きたかったから」というものになるのだろう。

それぞれが色々な問題を抱えていて、どうにもならない毎日を送っていて、燻っていた。

そんな九人が集まって、自分達を変えたいと願った。

本気になれて、熱く自分を燃やし尽くせて、最高に楽しくて、何よりもキラキラと光り輝いていたかった。

太陽のような、光になりたかった。

抽象的に過ぎる表現ばかりになってしまったが、きっとそういうことなのである。

それをわかりやすい単語に置き換えるならば、「青春」と言っていいのかもしれない。けれど、本当はそんな簡単に定義出来る理屈じゃないのだろう。

だから言葉じゃなくて感覚でわかるしかないのだ。そして、その感覚はどんな言葉よりもμ'sの目指した理想を理解させてくれる。

実際、μ'sは本当に光り輝いていた。アニメを見ていても、現実のライブを見ていても、何を見ていてもである。

その姿は始まりから終わりまでずっと、何よりも輝いていた。

そして、それこそがμ'sのなりたかったものであり、追い続けてきた目標であり、夢見たことだった。

スターになるためや、頂点に立つためにアイドルをやっていたわけではない。ただそう在ることが出来るから、アイドルをやっていたのである。

これは全編まるごと、一貫してそうなのだ。

アニメ一期でもそうだ。最初の動機である、廃校を阻止するため。それがなし崩しに達成されてしまって、宙ぶらりんになったグループが色々あって自然解散しそうになった。その時に、それでも再度九人が集まってまだ続けることにしたのは、自分達の目的がそうなのだということを理解したからである。

アニメ二期で三年生の卒業をもって解散することを決めたのも、九人でなければμ’sはそうでなくなってしまうからだ。

そして、それは今回の劇場版でもそうなのだ。

二期の時とは違う、九人で揃って、この先を続けることも出来た。

けれど、それは今までとは違う道を行くことでもある。

今よりももっと多くの誰かの期待、願望、重圧。色々なものを背負って踊る時、同時に今のような軽やかさは失われることになるだろう。

何ものにも縛られずに跳ぶことの出来た、青春という軽やかさ。

それがなくなった自分達は、果たして本当にそう在りたかった輝きのままでいられるのだろうか。

確かに多くの期待と羨望を背負って立ち、見果てぬ夢へ突き進んでいく姿にもまた嘘偽りのない輝きが存在する。

それこそは、アイドルマスターアイカツ765プロメンバーや星宮いちごが全てを叶えた後に尚歩いていくことを決めた道だった。

けれど、μ'sが求めていた輝きは、夢を見た姿は、それとは違うものだった。

限られた時間の中でしか存在することの出来ない、精一杯の輝き。

自分達が今まで最高に輝いていて、最高に楽しくて、そして何よりも美しくあれたのは、その輝きを纏っていたからなのだ。

ここまで来ることが出来たのは、その光を追いかけてきたからなのだ。

そしてそれは終わりを選ばずに永遠を得た時に失われ、別のものへと変化してしまう。

それがこの先もずっと変わらないものであると、自分達のままで進んでいけるなどという願望めいた夢物語を、μ'sは謳わなかった。

その限りのある輝きでいられることこそが、μ’sの存在理由であった。

そうでなくなってしまうのならば、μ’sを続ける理由などない。

そうなるくらいならば、自分達は終わりをこそ選ぶ。

苛烈である。あまりに苛烈な生き様であるとしか言えないだろう。

しかし、これは一つの真実であり、確かにアイドルというものの中に存在する因果なのだ。

永遠を目指して歩み続ける強さこそが美しいのか、限りある一瞬に全力を尽くす儚さこそが美しいのか。そのどちらもが危ういバランスで内包されているのがアイドルであると思う。

どちらかが間違っているわけではない。二つとも正しくて、それを併せ持つ矛盾こそが複雑な、形容しがたいアイドルの魔性を生み出しているのだ。

そしてラブライブは誰もが前者を理想として描く中で、初めて後者こそが理想なのだと説いた。

それだけのことである。それだけのことではあるが、偉大なことでもあった。

それは、二期の最終回の時点で綺麗に終わっていただけならば、決してここまで心に響くことはなかっただろう。

卒業という避けようのない強制力を理由にして自分達だけで個人的に終わらせていたならば、それは単なるそういう物語というだけのことで完結してしまっていた。

それを劇場版はここまで物語の枠を越えて、何もかも全てを巻き込んでμ’sはそんな激しい在り方を望むグループであるということを形にし、説得力を持たせた。そして、受け入れるかはどうあれこちらもそれに納得はさせられてしまった。

必然ではなく、必要とした終わりだった。だからこそ、それは物語の枠を超えることが出来たのだ。

そしてそのためには、やはり二期の終わりから公開まで間を空けたこの時間が必要であったし、その時間を作中へ取り入れた描写が不可欠であったと思うのだ。

劇場版公開までの約一年で、現実でのグループの精力的な活動も手伝い、μ'sは名実共に現実世界でも大スターとなった。

単なる描写ではない、実感を伴ったトップアイドルの地位。

その印象を多くの観客は持ったままで劇場版を見に来るだろうし、前編にあたる海外ライブ編を見ることでそのことを強く想起させられる。

これまでの現実を含めたμ'sの歩みを振り返るのが、海外編の役割と言えるだろう。

それ故に、その人気や地位を意識したままで見届ける後編、μ'sの選んだこれからがより凄絶なものとして映るのである。

フィクションじゃない本当の人気の絶頂で、本当に夢を叶えてしまった今だからこそ、それらを全て投げ捨ててでも掴もうとする理想の輝きがより際立つのだ。

それがこの映画を現実と積極的にリンクさせて見ることを是とする理由の一つである。

設定を越えた事実をも利用して描く物語は反則中の反則であるとも言えるし、何十年も残ることはない今この時この瞬間だけにしか通じない奇手でもある。

しかし、それもまたμ'sの追った理想と合致するところではあるのだ。

今にしかない、今だけしかない最高の輝きというものを、この映画自体が体現していると言ってもいいだろう。

 

 

 

■今だけを駆け抜けていくμ’s

そして、μ'sの限りある輝きというのは、何も時間ばかりのことを表しているのではない。

それはμ'sの持つ「力」とでも言うべきものも、また限界が近いことを示していたのではないかと思う。あくまで個人的な考えではあるが。

光り輝くことの出来る力。何か心に響く本物を生み出せる力。残酷ではあるが、アイドルのそれにはきっと限りがあり、いつまでも保っていられるものではない。

ここら辺のことは、アニメだけじゃない現実の世界でのことにも関わっている。コンテンツとしての寿命。あとどれだけ、μ'sは今のように輝いていられるだろうか。今のような本物を届けることが出来るだろうか。恐らくそう長くはなかっただろう。

アイドルはいつだって、何かを始める時が最も美しい。走り出して、挑戦していく姿こそが一番輝いている。

だからこそ、全てのアイドルは自分達の始まりと挑戦の歌を歌う。自分達を最も輝かせられる、そんな歌を。

その始まりの歌を、μ'sはもう歌えなくなっていたのだ。

そう、μ'sもいつだって、始まりと挑戦の姿こそが美しかった。

何もない場所から、何の保証も無しに、それでもがむしゃらに走り始める姿がどこよりも、誰よりも、その姿こそが一番美しくて、輝いていた。だからこそ多くの人が魅了され、惹き付けられた。

その始まりの輝きを、美しさを、μ’sはもう歌うことが出来なくなっていた。

当たり前の話ではある。何故なら、μ'sは自分達が歌ってきた夢も目標も全て達成してしまったのだ。

そんな今の中で「愛してるばんざーい!」を、初めて歌った時のような美しさで「まだゴールじゃない」と歌うことは出来ないだろう。

START:DASH!!」で描いた始まりを、本気で今の自分達のこととして歌うことは出来ないだろう。

No brand girls」なんてタイトルからして殆どギャグになってしまう。

歌ってきた理想へようやく辿り着いた時に、μ'sはここまで来るために必要とした輝きと美しさを失ってしまった。

因果である。まさしく因果である。

ならばどうするのか。道は二つある中で、μ'sが終わりを選んだのはこれまで書いてきたことである。

そうすることで、μ’sはその因果に全力で逆らおうとした。自分達の終わり、ほとんど命とも呼べるものを引き換えにしてである。

話が結構前の方まで戻ってしまうが、この劇場版は名作とはとても呼べない代物であると上には書いた。

しかし、名作になる道もあったのだ。それも簡単に。

どうすれば良かったのかと言うと、これまでのアイドルものの通りにすればそれで良かったのである。

そうすれば、万人が笑顔で楽しめるいい映画になっただろう。大多数の人が望んでいたのも、その形だっただろう。

そうして終わりをぼやかしていれば、もう数年はμ's自体も生き長らえることが出来たはずだ。

身の内に宿る、何かを生み出す力を薄く、薄く延ばして少しずつ使えば、かつてや今ほどは無理だとしても、しばらく地位を維持するに十分な輝きも纏うことが出来ていただろう。

だが、μ'sはそれを拒んだ。拒んだのはμ'sばかりではない。きっと制作陣もそれを拒み、スポンサーに至るまでそれを了承させられたのだ。

でなければ、こんな内容の映画は実現しなかっただろう。もし自分がスポンサーなら、今この人気と勢いの中でこの内容を持ってこられたらぶん殴ってでも止めている。無論色々な打算はあるのだろうが、それでもこれが通ってしまったのならば、つまりは全員がそれを願ったも同義である。殆どμ’sの言霊でも乗り移っていたのであるまいか。

μ'sは終わる。

そしてその終わりと引き換えにして、今ある全ての力を注ぎ込んだ、過去にも負けない、未来でも越えられない、最上級の輝きを作り出す。

きっと、そのためにも選ばれた終わりだったのだ。

自分達の始まりと未来を歌えなくなったμ'sは、代わりに輝ける今の尊さだけを歌う。辿り着いた場所の美しさを歌う。

いつだって目指してきた在り方の、今までの自分達と同じでいられるように。

薄めたりなんかしない、最後の最後まで全力を振り絞り、命をまるごと注ぎ込んで。

飾りじゃない翼で、二度とはない瞬間を飛んでいく。

ただ美しくあるために、自分達を燃やし尽くす終わりを選んだμ’s

美しければそれでいい。

青春が振り回す身勝手さはあまりに無責任で、だからこそ羨望を抱いてしまう。

そしてアイドルとは、その青春を捧げて燃え尽きることにこそ、言葉にするのが憚られる残酷な美しさを持つものなのだ。

μ'sはアイドルだった。最後まで、自分達の理想としたアイドルであり続けた。

そうしてμ'sは自分達の輝きと美しさだけを後に残して、旅立っていった。

めでたしめでたし……。

……。

……で、終わっていたならば、自分もここまでこの作品に悩まされはしていないのである。

μ'sは確かに自分達の信条のために終わりを選んだ。

だが、本当にそれだけだったのだろうか?

……実はそうではない。終わりを選んだのには、もう一つの理由がある。

そしてその理由があるからこそ、自分はこの劇場版が大好きで、同時に恨んでもしまうのである。

 

 

 

■終わりを求めたもう一つの理由

μ'sが終わりを求めた理由の一つは、「理想とした自分達で在るため」であった。

そして、いきなり率直に書いてしまうが、もう一つの理由は実は「未来のアイドル達のため」なのである。

これまでμ'sはいつだって、自分達のための活動と、何かを守るための活動を両立させてきた。

学校を守るため、支えてくれた人達の想いに応えるため、ラブライブという大会のため。

自分達の輝く光で、同時に何かを照らすことが出来るように。

自分と誰か。そんな両方を選び取る欲張りさを、μ'sは最後の瞬間まで持ち合わせたままで踊った。

だからこそ、最後までそうであったからこそ、μ'sの終わりは「自分達のためだけに」という青春の身勝手さが持つ美しさだけではなかった。それすらも超えてより強烈に、鮮烈に輝いていたものになって、そしてあまりにも眩すぎるそれが自分の目と心をズタズタに灼いていったのである。

 

 

どうして自分達のためだけではなかったのか、の理由やら何やらは全部劇中で描かれているので今更ここに書くまでもないとは思うのだけれども、それを見て個人的に感じたことを上手くまとめるためにもまた簡潔にではあるが触れさせてもらう。

映画の後半でμ'sが自分達の理想のために終わるのかどうかを迷っていた時に、続けるという選択肢を一つの道として考えたのは、何もこれからも九人で活動を続けられることを魅力的に感じたからというわけではない。

後ろ髪を引かれたのは、自分達が続けなかったことで何かを守れなくなるのではないかということについてだった。

μ'sはこれまでひたすらに自分達のために走ってきた。そして同時に求められるままにも走ってきた。

それを続けて頂点に辿り着いた時に、自分達が積み上げてきたものの大きさにようやく気づいた。

崩してしまえば、自分達だけじゃない多くのものもまた終わってしまうのではないか。

μ'sは自分達の青春の責任を問われることになった。

ここまで盛り上げて、ここまで魅了しておいて、その責任をただ放棄するだけで終わるのか。

自分達のために終わるのか。誰かのために続けるのか。

これまで二つで一つだった行動原理が別々の道として分離してしまった。そんなかつてない難題を前にして、μ'sは大いに悩むことになる。

 

 

 

■トップアイドルの責任

実はこれまでのアイドルものが夢を叶えた後も歩き続ける道を選んだ理由の一つにもこれがある。

更に大きな夢を叶え続けるためだけではない。そんな自分に憧れて、その背中を追いかけてくれる、自分達の後に続いていく輝きを守るためにも頂点に立ち続けることを選んだのだ。

アイカツ劇場版がその典型例である。星宮いちごは憧れであった神崎美月のために、そして自分に憧れて追いかけてくれている大空あかりのために、アイドルの頂点に立った後も歩き続けることを決めた。

輝きを受け継いで、それを守り続け、そしてまた誰かに繋いで、それを継いだ誰かがまた守り続けていく。

頂点に立ったアイドルの責任とはそれである。

そして、μ'sもまたそれを果たさなければならなかった。

しかし、ここでもまたμ'sというグループの普通のアイドルとは違う特殊性が今後を選ぶ上で問題となった。

何故ならμ’sは直接それを誰かから継いだわけでもなく、そして直接にそれを受け渡すべき誰かもいなかったのだ。

ならば自分達だけで終わっても構わないのではないか?

そう主張するメンバーもいた。

そして同時に、歩き続けることを決めた、同じ頂点に立つグループから一緒に続けて欲しいとも願われた。

これから始めようとする新しいスクールアイドル達のことを思って、それを見守ってあげたいとも願った。

自分達だけで輝いたまま終わりたい。その輝きを自分達の後に続く子達のためにも守りたい。

板挟みである。そして、板挟みの果てにμ'sは選んだ。

「どっちもやればいいじゃん!」という、まさかの第三ルートをである。

 

 

 

■終わりで描く新しい始まり

μ’sが憧れたのは、スクールアイドルという自分達が何よりも輝く存在でいることの出来た世界そのものである。

だから、その輝きは特定の誰かに受け継がせるためのものではない。継がせるというよりはむしろ世界へ還すべきものである。

その世界にいる、全ての少女達が輝くことの出来るように。

その世界に憧れる、全ての少女達を受け止める場所を繋ぐために。

そのためにμ'sは自分達の持てる最後の力を全て使って、μ'sというグループに残された命をまるごと注ぎ込んで、スクールアイドルという世界は、その存在はこんなにも素晴らしくて、美しくて、輝いているということを伝えることにした。

守って、繋げていくために続ける道ではない。

自分達の終わりという一度しか出すことの出来ない最高の輝きで、未来を繋げようとした。

アイドルはいつだって始まりの瞬間こそが一番輝いていて、美しい。

そして、終わりとは同時に新しい始まりをも意味する。

夢の結末まで届いて、もう何かを始めることが出来なくなったμ’s

それでもその始まりの時と同じままで、美しく輝いていたいと願った。

だから彼女達は自分達の終わりを使って、自分達ではない誰かの始まりを描くことにした。

μ'sというグループの命を引き換えにして作り出す、最後の始まりの輝きである。

美しくないはずがないのだ。胸を打たないはずがないのだ。

私達は美しい。私達のいるこの場所はこんなにも美しくて楽しい。そして、そこにいるみんなが美しくて、輝いているんだ。

μ'sが終わりを選んだ理由は、終わりという手段を使って伝えたかったこととは、それなのだ。

 

 

 

■輝きの解放

そしてこれは、作品の中だけの話に留まらないのではないだろうかと自分は感じた。

作中では便宜上「スクールアイドル」という呼称が使用されているが、伝えたかったことはスクールだけではない全ての「アイドル」についてのことだったのではないだろうか。

最初は何もない場所から走り始めて、誰にも知られていなかったラブライブとμ'sは、それでも確かな自分達の輝きを発し続けることと幾多の奇跡が重なることで、作品の内外問わずに大スターへと登り詰めた。

そして、現実でもその姿を見て、その後を追って、数多くの二次元アイドルが走り始めた。一緒にここまで走ってきた、先輩や同期もたくさんいた。

ラブライブが今の時代の全てを作ったとは言わない。ただ大きな時代の流れがアイドルに向かっただけで、ラブライブは単なるその中の一つだったのかもしれない。

しかし、それでも今の大二次元アイドル時代と言えるものを一番加熱させたのはラブライブμ’sだった。

それまでアイドルのライブに行ったこともないような人間を虜にし、アイドルのライブの楽しさや、アイドルという存在の素晴らしさを広めて、今の大二次元アイドル時代に繋がる一番大きな波を起こしたのは間違いなくラブライブとμ'sなのだ。

そして今まさしくその頂点に立ち、その一挙手一投足に数十万、数百万人の耳目を集めているのもラブライブとμ'sなのである。

映画の中の出来事とまさしくシンクロするように、現実でのμ'sにも今の大二次元アイドル時代を盛り上げて、頂点へ立った者としての責任があった。

今のμ'sの身の振り方一つで、今後の二次元アイドル界が激変してしまうかもしれない恐れがあった。

そんな現実での状況に対しても、μ'sはこの映画で自分達の答えを示したと思うのだ。

そう、μ'sが終わりと引き換えに踊ることでその素晴らしさを伝えるスクールアイドルの世界とは、取りも直さず二次元アイドルの世界そのものでもあるのではないだろうか。

輝いているのは自分達だけではない。「SUNNY DAY SONG」のステージで、そこで一緒に踊る全てのスクールアイドルが争いもなく、一つの光として輝いているのは、つまりはそういうことではないのかと思うのだ。

μ'sはそのSDSのステージを作るにあたり、他のスクールアイドル達を誘うために直接会いに行くことにした。そこで他のグループがライブの宣伝のためにチラシを配ったりしている活動がかつての自分達と重なるものであることを知ったり、協力の条件として勝負を挑まれたりする。これらは非常に暗示的なシーンであると思う。

そして、並んで同じ時期を走り、共にここまでやって来たA-RISE。彼女達はこれからも走り続けて、スクールアイドルの世界を支えることを選んだ。その選択は作中で、美しく終わることを選んだμ’sと比較して間違っていると否定されてはいない。どちらも正しくて、ただ道が分かれているだけなのだ、と。共に同じ時に生きて、ぶつかり合い高め合ってきた別のグループが続ける道を選んだことは決して間違っていないし、そして同じくらいに美しい。だからこそ、SDSのステージで一度だけ、スクールアイドルの輝きを伝えるという目的を共にするμ’sとA-RISEの道が交わるのである。これもまた暗示的な描写と言えるだろう。

そして、μ'sは踊る。A-RISEも踊る。他の多くのスクールアイドル達も一緒に踊る。そうして伝えることは、アイドルという存在の輝き、その素晴らしさ。μ'sだけじゃない。A-RISEだけじゃない。ここに集まって歌い、踊っている全てのアイドルが同じように光り輝いていて、同じように魅力的で、同じように楽しい場所を作って届けてくれるのだ。

ラブライブとμ'sが自分達の残された全てを注いだこの劇場版で、示した答えはそれなのではないだろうか。

ラブライブμ’sはこれまで積み上げてきた輝きを、自分達だけのものとして続けることも、自分達だけのものとして抱いたまま終わることもしなかった。

そして、誰か自分の後に続く一人だけに受け継がせることもしなかった。

いや、いるけどね、継がせる妹分。サンシャインとかあるけどね。

でもこの劇場版という作品の中で、誰かを後継者として指定するような描写を一切しなかったのは、そう言ってもいい根拠だと思うのだ。

だから、まあ確かにちょっとは直接的な後輩として贔屓しているかもしれないけども、Aqoursは素晴らしい。でも、同じランティスの妹分であるSTAR☆ANISやAIKATSU☆STARSだって素晴らしい。それどころか全然違う会社の後輩分達、WUGやi☆Ris777☆SISTERSやFEALsやH.Y.Rだってみんながみんな素晴らしくて、輝いているのだ。

そしてμ'sはその、他のグループ達全ての上にある立場として、先輩として、目指すべき憧れの姿としての責任を果たすために、自分達の終わりでもって彼女達の、アイドル全ての素晴らしさを歌うのである。

恐らくラブライブとμ'sがこの映画で目指したのは、「輝きの解放」ではないだろうか。

独占でも、継承でもなく、解放。自分達が掴んで、纏ってきたこの成功と輝きは、誰しもに掴むべき権利がある。

そのために、自分達がそうすることの出来た、そして他の子達もこれからそうすることが出来る場所の火を消さないために、μ'sは最後の力を振り絞っているのである。

 

 

 

■叶え、みんなの夢

そして、更にそれは何も今現役の後輩や同輩アイドル達のためばかりではない。

この映画を見て、ラブライブとμ'sの姿を見て、そこからアイドルを志すかもしれない、アイドルを始めるかも知れない少女達のためにもμ'sは歌っているのである。

まだアイドルですらない、スクールアイドルですらない少女達でも「大丈夫」というメッセージは劇中でしっかり描かれている。

それは、ここまでファン層が広がって、思いもよらなかったほど多くの中高生の少女達もラブライブμ’sを知って、見てくれているという現実(いま)があるから伝えられることである。

本当に頂点へ登り詰めて、見果てぬ夢を叶えたμ'sという確かな現実(いま)があるからこそ、彼女達だけが誰もが信じられる実感と共に、まだ夢を見るだけの少女達に伝えられるのだ。

夢を見ることは素晴らしい、そのために行動を始めることは素晴らしい。限られた今の中で自分を燃やして、輝くことは何よりも美しいということを。

もしこの映画が一つのアニメとして誰かだけにスポットを当てた個人回に相当するとしたら、その対象は「μ’s」そのものであったと言えるだろう。

穂乃果と絵里とことりと海未と凛と真姫と希と花陽とにこ。その九人が揃ったグループとしてのμ’sを概念的存在として主役にしたのがこの映画なのである。

μ'sが悩んで、μ'sが決めて、μ'sが行動し、μ'sが成長する。この劇場版はそんな話である。誰か一人ずつに焦点を当ててどうこうではなく、九人としてそうしたのだ。

そして、そんな九人としてのμ'sは、更なる夢を目指して歩き続けるのではなく、限りのある輝きを燃やして終わることを選んだ。

その最後の輝きで、全ての少女達の夢を照らすことを選んだ。

私達の夢を叶えた後は、みんなの夢を叶えるために。

自分達のために自分達の曲を歌えなくなったμ'sは、じゃあ誰かのために歌うしかないのだ。

僕らのLIVE 君とのLIFE」も「僕らは今の中で」も「START:DASH!!」も「No brand girls」も、自分達のこととして心から歌えなくなったのならば、代わりにその歌のようになりたいと夢見る少女達のために歌うのである。

だからこの映画でμ'sは九人の手を離れ、ただμ'sという概念として残ることになる。

輝かしいスターであり続けることを選ばなかった彼女は、どこか遠くの、名も知れぬ街の片隅で、静かに少女達の夢を歌い続ける。

あの頃歌っていた少女達ではなくなって、名前もわからないような誰でもない姿になっても、それでも少女達の背中を押し続けるのである。

いつだって、純粋に何でも出来ると思っていた子供の頃のように、いつだってあなたは「跳べる」のだと。

μ'sの歌は、存在は、この映画でそういうものになることを選び、そしてなった。

だから、この映画は本当は、究極的にはファンのための映画ではないのである。

これは、今を頑張る全てのアイドル達と、そしてこれからアイドルを夢見る全ての少女達のための映画なのである。

平日の学校帰りにでも、どこかの映画館でこれを見た少女が、静かに自分の夢を心に決めるかもしれない。そうさせることが出来るかもしれない映画なのだ。

だからこそ、この映画は今小中高生である少女達にこそ見て貰いたい。

μ'sが自分達の最後として、残った力の全てで輝き、スクリーンの向こうで踊り続けているのは、誰でもないあなた達のためになのだから。

とまあ、ここまでつらつらと綺麗事の理想ばかりを書き連ねてきたわけだが、実際がどうなのか、本当にμ'sがそれを望んでいるのかはわからない。

それに、やはりμ'sが終わりを選んだことに対する感じ方は個人によって分かれるところだろう。

そして、自分はこの映画を見てそう思った。そう感じた。結局のところ確かなことはそれだけである。

そんな夢を、μ'sの最後の姿に見てしまった。

そう、見てしまったのだ。

そして、幸か不幸か、それだけで終わることが出来なかったのである……。

 

 

 

■ただしおっさん、テメーはダメだ

そうなのだ。

だから、この映画がそんな映画なのだということに気づいた瞬間、自分のチンチンを取りたくなったのだ。

ここでようやくタイトルまで帰ってくることが出来た。

そして、そう、今すぐチンチンを取って女の子になり、俺もアイドルを、あの輝きを目指さなくてはと思った。

しかし、実際そうしたところで俺はアイドルになんてなれないし、輝くことも出来ないし、ただチンチンのない哀れなおっさんが一人この世に誕生するだけのことでしかないのである。

だからね、残酷ですよ、この映画は。本当に残酷なんです。非常に残酷な真実を自分に気づかせてくれた。

そう、自分が何でラブライブとμ'sをここまで追い続けてきたのかというと、この光景を見たかったからなのだ。

きっと、あの1stシングルのPVを見た時から、あの1stライブを見た時から、自分には決して出すことも表現することも出来ない輝きがこの世界にあることを初めて知って、それが何なのか知りたくて、自分だけでは得ることの出来ないそれを見続けんがために追いかけてきたのである。

知れば知るほど、追えば追うほどに薄々と理解していった。自分ではそれを手に入れることが出来ないから、それになることが出来ないから、だから自分の求めるそれを纏っている存在を追いかけて、手に入れる姿を見ることで自分を慰めているだけなのだ、と。

今回の劇場版は、追いかけて目にしてきた中でも究極の輝きの一つだった。ある種の到達点だった。

そしてその辿り着いたゴールが、自分の中ではハッキリとは言葉にしなかったそれを、わかっていたけども目を背けていた事実を、目の前に突きつけてくれた。

俺はアイドルになりたかったのだ。アイドルになりたかったのである。

別に今までの自分の人生と、過ごしてきた青春に不満や悔いがあるわけではない。それでも絶対に自分には触れることも、味わうことも、それになることも出来ない世界や存在があることを知ってしまった。

そりゃあそんなものはこの世界には無数にあるだろう。それに対する折り合いのつけ方も十分わかっているつもりだった。けれども、今回ばかりは憧れと羨望を抱いてしまわずにはおれなかったのだ。初めて見た衝撃に、その姿に、憧れと羨望を抱いてしまった。

綺麗な夢を見る少女になりたかった。それに向かって努力して、輝く少女になりたかった。その気持ちがどんなものなのか、そういう存在として立つステージがどんなものなのか、味わってみたかったのだ。

だが、どんなことをしたってそれを知ることも、それになることも出来ないのである。どこまでいっても自分はただのそこら辺にいるおっさんでしかないのだ。

アイドルを追いかけ続けてきて、初めてその最高の輝きを見届けた時に、気づいてしまった事実はそれだった。

この劇場版を初めて見た時は、そのことに気づかずに茫然自失の状態だった。二回目を見た時は何故かわけのわからないままに怒り狂った。

そして三回目に見た時にようやく今回長々書いてきた感想のような答えに行き着いた。そしてボロボロと涙がこぼれてきた。

四回目も泣いた。中でも「SUNNY DAY SONG」の時に一番泣いていることに気づいた。

五回目に泣いた時、どうしてそこが一番刺さるのか理解した。自分は画面の向こうに嫉妬している。嫉妬のあまりに泣いているのだと。

以降この劇場版を見る度に最高の爽やかさと美しさを感じながら、同時に最高にどす黒い気分になるのだ。つらい、これは本当に死ぬほどつらい。

まさしく「キレイダナア…ナンデ ワレハ アアジャナイ…ナンデ ワレハ ニゴッテイル…!?」といった感じである。いや、今アニメやってるから便乗したわけじゃないけども。

そして気づいた。本当は劇場版アイカツを見て自分が泣いたのも、それが理由だったのだ。

当時にそれに気づけなかったのは、その感情を移入させる対象として大空あかりという存在がいたからである。その願望が、「俺の代わりに頑張れあかりちゃん!」という気持ちへ自我を崩壊から保護するために置き換わっていたのだ。

しかし、今回の劇場版ラブライブはその感情を移入させる対象が、SDSの時に一緒に踊っている名もなきスクールアイドル達になっている。

つまりは空想のキャラではなく、自分自身の分身のようなものになっているのだ。だからこそ、自分があの場に共に立てる輝きになりたいという願望を強く意識させられ、あれにならなくてはという衝動が湧き起こってくるのである。

劇場版アイカツのテーマは「これを見た人が素敵な明日を迎えられるように」というものであり、言葉通りにその輝きを見た後は素敵な明日を迎えられそうだと思えた。

しかし劇場版ラブライブの輝きはあまりに強烈すぎて、素敵な明日になるどころか「明日あの輝きになっていたい」と願わせるほどであった。

してみれば、今回自分たちの終わりと引き換えにラブライブとμ'sの目指した、自分達の最後の輝きでアイドルがいかに素晴らしいのかということを知らしめるという試みは、十二分に成功していると言えるだろう。

何せそのメッセージを受け取る対象となる少女達どころか、無関係のはずのこんなおっさんにまで「アイドルになりたい!」と思わせているのだから。

 

 

 

■μ'sが終わりを通してファンへ伝えたかったこと

しかし、じゃあみんながみんなそう思わないとこの映画は楽しめないのかと言うと実はそんなこともないのである。

アイドルになりたいおじさんの視点で見ている変態など恐らく自分一人であるし、この映画を見る層の大半が少女達なのかというとそんなこともなく、実際それは三割もいれば良い方だろう。

つまり残り約七割の普通のファンが見ても、映画自体の面白さをゴチャゴチャ余計なことは考えずに楽しめているし、大きな舞台に立つμ’sを見て感動しているし、コミカルな描写で笑い、終わりの寂しさには素直に泣いているのである。

別にひねた見方をせずとも、素直に受け止めるだけでも良い映画なのだ。

それに、今回μ'sが伝えているメッセージは何も少女達に対してばかりではない。

普通のファン、普通のおっさんにも、伝えていることはあるのである。

それは劇中でも言っている、SDSのステージをやる目的。「スクールアイドルがいかに素晴らしいか」を伝えるライブということ。

則ち、現実に置き換えて「ラブライブとμ'sだけじゃない、他のアイドルも皆輝いていて、素晴らしいのだ」ということである。

ラブライブとμ'sはここで終わるけれども、今までの私達の活動を見て楽しかったり面白かったり輝いていると感じてくれたのならば、そのまま他のアイドルも追いかけてあげてね」

μ’sがこの映画で我々に送ってきたメッセージは、噛み砕くとこういうことになるだろう。

輝きの解放とはそういうことであり、ここまで二次元アイドル界を盛り上げてきて、頂点に立ってしまったμ'sの果たすべき責任とはつまりそういうことなのだ。

それはもしかしたら、今後は直接の後輩達にあたるラブライブサンシャインを応援してあげてねということかもしれない。商業的な側面から見ても。

実際サンシャインに対して先輩として何か遺してあげられるものがあるならば、これ以上のものはないだろう。

しかし、上でも言ったように、自分はこれを全ての二次元アイドルを対象としたものだったのではと考えているし、そう考えてもいたい。

だから、別に我々はこの後アイカツを追いかけてもいいし、WUGを追いかけてもいい。プリパラでもいいし、アイマスだっていいのだ。新しさならばナナシスもいいだろう。アイクロでもいい。エンジェルフェスタはむしろ積極的にみんな追ってやってくれ。

μ'sは最初、自分達の始まりの時に、その輝きでこれまでそれを知らなかった層にもアイドルという世界を知らしめ、魅了した。そして最後の最後まで、自分達に出せる限りの力でそれを繰り返した。

ラブライブとμ'sがここで終わっても、彼女達が見せてくれた楽しさと素晴らしさと輝きを知った何十万ものファン層は、その全てとまでは行かずとも殆どがまた他のアイドルを追いかけるだろう。

いや、そうして欲しいというのが、普通のファンである我々へμ'sがこの映画と自分達の終わりの姿を通して伝えたかったことである。

美しい。美しすぎる願いである。沈んでいく船の中で死にゆく自分のことは見捨て、取り残された赤ん坊を助けろと願うくらいに美しすぎる。

だから、アイドルになりたくてもなれないおじさん達は、これからも他のアイドル達を応援するしかないのだ。

それこそが、μ'sが今自分達の最後の輝きとして、画面の向こうで歌って、踊り続けている理由なのだから。

だからこの映画を見て何か解放感のようなものを感じた人は正解なのである。これでもうμ'sとラブライブを追わなくてもいいんだと感じた人こそが正解なのだ。

μ'sが纏い続けることを選ばず、また失わせることも選ばずにただ手放した輝きを他の誰かに掴ませるためにも、三々五々に散っていくことこそが正しい姿なのである。

その解放はきっと、大半の人にとって今は寂しく悲しいものであっても、長い目で見れば救いとなるだろう。少女達にとっては祝福となるだろう。

μ'sは夢を叶えた。追い求めていた光になった。きっと作品と現実の両方で。だからこれ以上を求めることは出来ない。

それでも尚ラブライブを求めるならば、新しい輝きであるサンシャインに、Aqoursに求めればいい。

そして自分もその救いは、五年間追いかけてきたファンの身としては正しく受け取ることは出来たと思う。

追い続けてきて良かった。この劇場版で、心からそう思える輝きと美しさを見届けることが出来た。

しかし、一方で上に長々書いた女々しい想いのような、五年間追い続けてきた本当の理由も知ってしまった。

μ'sの願いに応えるためにも、次の場所へ行かなければならない。行かなければならないのだが、その先で、また同じような時間と情熱を注ぎ込んで、それでまた同じ景色が見られるのだろうかという不安もある。

μ'sを追いかけてきた時間は、自分にとってまさしく二度目の青春だった。それくらいの情熱を傾けていた。しかし、それは今ここでμ'sのそれと同じく終わってしまった。それが確かな感覚としてある。そしてまたこの先、それを三度目、四度目と続けていく気力が自分に本当に残っているのだろうか。

よしんばそれをまた続けられたとしても、そして次に応援する対象がμ'sと同じくらい素晴らしい輝きに辿り着けたとしても、その時に得る答えも感じる気持ちも今回味わったそれとどうせ変わらないのではないだろうか。

アイドルになりたい。アイドルになりたかった。

俺は別にプロデューサーや支配人になって女の子を支えたいわけじゃない。

ファンとしてアイドルが届けてくれる楽しさを味わうだけで満足出来るわけじゃない。

アイドルに夢を見て憧れる少女になりたいのだ。俺はアイドルを追いかけてそれになりたいのだ。

また二度、三度と究極の輝きを見届けられたとしても、恐らく思うことはそれである。

呪いだ。まさしく呪いである。自分一人だけの特殊なケースだとは思うが、自分はこの劇場版で救いと同時にその呪いまで得てしまった。

それほどに、この劇場版が素晴らしかったのだ。凄まじいまでのパワーに満ち溢れていた。人一人の精神状態をこれほどズタズタにしてしまうのだから相当だろう。

もしかしたらこの先、他のアイドルを追いかけていった果てで、これと同じくらいの力と輝きを持った別の答えを得られることもあるかもしれない。それを見た時に、この呪いが解けることもあるかもしれない。

しかし、それでも、今はもう少しだけ、何も考えたくない。もう少しだけ、この劇場版の見せてくれる答えに浸っていたい。

アイドルになんて、少女になんてなれないのに、それでもなりたいと願わせるあの光景を見て、涙を流していたいのだ。

画面の向こうの名もなき少女達に自分を重ねて。

そんなことをさせてくれるほどの輝きまで辿り着けたのは、今はこのラブライブμ’sだけしかいないのだから。

 

 

 

ラブライブは救い

なーんて、以上余りにも理想と願望を押し付けた見方と感想、更に自分勝手で独り善がりな絶望を長々と述べてきたわけであるが、これが一番正しい作品の受け止め方だとは欠片も思っていないし、またそんなことも絶対にないだろう。

結局この劇場版は人によって感じ方は千差万別、自分なりの受け止め方と噛み砕き方をして付き合っていくしかない。

名作にも駄作にもなり得るだろう。

確かなのはただただ人によって見え方も感じ方も変わる妙なエネルギーに満ち溢れた作品だということである。そしてそのエネルギーこそはラブライブとμ'sが出せる最後の全力なのである。

そうは言っても、ラブライブとμ'sはここで最後なんだというのも結局自分がそうであって欲しいと願っているだけで、公式側は全くそんなことは考えていないのかもしれない。

何だかんだでこの後もまたμ'sは続いていくのかもしれない。Sidもゆるゆる続いていくかもしれないし(そもそも春色はいつ出るのだろう)、スクフェスだって当分終わる気配もないし今も新しいサイドストーリーが追加されていっている。その内やっぱりまた新しいアニメ始めちゃいましたなんて可能性も十分考えられるだろう。

サンシャインも始まるし、そっちを支えるためにも色々駆り出されることもあるかもしれない。未来は全然わからない。ラブライブプロジェクトがこれから連綿と続いていくものになったりすれば、最初のグループとしてオールスターズ的な企画に呼ばれることは必至だろう。結局これからも最盛期の勢いは失っても、まったりとμ'sとの付き合いは続いていくかもしれない。いや、恐らく続いていくのだろう。

ただ、そうだとしても尚、確かなことが一つある。

それは、この劇場版でμ'sが自分達の全てを惜しみなく使い切ったということである。

μ'sが走り始めた時のような、ひたすら上を目指して走り続けていた時のような、ここまでたくさんの人を惹き付け魅了する輝きと、本物を生み出す力というものがあるとすれば、彼女達は残されていたそれをここに全部注ぎ込んだということである。

この今を最高に輝くために、もう少し生き長らえることが出来たかもしれない未来を全部捨て去った。

そうすることで本当に今まで上に長々と書いてきたような理想を実現したかったのかはわからないし、やっぱり単なる自分勝手な終わりだったのかもしれない。

また、さっき書いたように、そうした後でも結局何だかんだで続いていくのかもしれない。

自分の見方に対する反論もたくさんあるだろう。

しかし、何か指摘を受ければすぐ折れる自分だが、今回ここだけは自分の感じて確信したものとしてハッキリと主張させてもらう。

劇場版はμ'sがこれまで走ってきた中で最高の輝きだったし、そしてこれから先もこの輝きを自分達で超えられることはない。自分達の本当に全力を出し切った。それだけは確かなのだ。

それは、たとえこの先もμ'sがぼんやりと活動を続けるとしても、決して今のような、魂の乗ったパフォーマンスは出来なくなるだろうということである。

そしてそれは、現実のμ'sでも恐らくそうなるだろう。次のライブで、この映画の曲を歌い終えた時に、μ'sの砂時計の砂は尽きてしまう予感がある。

無論、全部が全部推測に過ぎないところはある。もしかしたらこの先更に活動を続けてもμ'sは今の輝きを維持出来るかもしないし、それを超えられることもあるかもしれない。それはそれで、限界を超えて尚成長し続けられるグループがあるという歓迎すべき誤算ではある。

何もここで終わって欲しいとも積極的に願っているわけじゃない。やっぱり何だかんだで続いた方が嬉しいし、安心出来るという気持ちもある。

しかし、それでも。そんな悲しくも、困難な未来しか待っていないかもしれなくても、それでもμ'sがそういう選択をしてくれたということが、何よりも嬉しい自分がいるのだ。

μ'sは全力で生き抜いた。

いつだって美しくあるために、輝いているために、ここまで走ってきた自分達のままでいるために、そう在ることの出来る最後のこの場所で、この時間で、全ての力を使ってくれた。

それが、本当に何よりも嬉しい。そして、少しだけ悲しい。

この劇場版と、ラブライブと、μ'sに、一番感謝しているところは実はそこなのだ。

ありがとう。本当にありがとう。

最高の場所で、後にも先にもない、本来出せる以上の最高の輝きで、今が最高だと歌ってくれるのならば、これまで注ぎ込んだ全てが報われるのにこれ以上のものはない。

μ'sはこんな、ただ五年間追い続けてきただけのどうしようもない人間の期待にも、裏切ることも、見捨てることもなく応えてくれたのだ。その期待すら、超えるほどの形と輝きで。

だから、ラブライブの劇場版は、文句なく素晴らしいものであった。

ありがとう……!!

 

 

そして、取り残されたおっさんが一人である。

さっきので感動的に締められれば一番いいのだが、更に続けてしまわずにはいられない罪深さもこの映画にはある。だからこそ、普通に良かったよという以上に最高だったと思ってもいるのだ。

何にせよ、μ'sがこのまま感動的に終わるにしろ、全てを出し切った後でもぼんやりと活動を続けるにしろ、それでも自分もまだ生きていかなければならないのである。

また新しい光を探し続けるか、見つけたそれをまた追いかけるかして。

だけどね、正直本当に疲れたよパトラッシュ。疲れた。

ここまでのものを見せられてしまった後で、一体何をまだ続ければいいと言うのだろう。

この映画を見た後でやりたいことがあるとするなら、自分がμ'sを目指したいという気持ちが一番強いのだ。

しかし、そんなこと出来るわけねえだろという絶望は上に女々しく長ったらしく書いたばかりである。

じゃあ、どうすればいいんだろう。

正直もうアイドルのことはすっぱり忘れて別の何かに熱中するか、自分の願望を見なかったことしてまたアイドルをただ楽しむだけのピンチケに戻るかくらいしかないのではないだろうか。

そんなことを考えては、毎日ただぼんやりと過ごしている。

もう少しだけその狭間で、どちらでもないままで、ぼんやりしていたいと願いながら。

劇場版ラブライブは素晴らしかった。あまりに素晴らしすぎて自分には劇薬だった。

それも一つの真実である。

まさしく「なんちゅうもんを食わせてくれたんや…なんちゅうもんを…」という感じである。

しかし、それでもいつだってラブライブにそういうものを求めてもきたのだ。

予想を裏切り、期待を超える、味わうことで脳天を揺さぶられる劇毒のような衝撃を。

まさしく最後まで正解以上のものをお出ししてくれたわけである。

そして救いもまた、そこにあるのだ。

ラブライブの味わわせてくれた輝きは麻薬だ。

そして、自分は完全にそれの中毒になってしまっている。

ここまでその快感に溺れてしまったら、いつかまた求めずにはいられなくなるだろう。

たとえラブライブとμ'sがいなくなって、他から探すしかなくなってもだ。

そしてそうなったら、同じものが味わえなくなったとしたならば、もしくはすっぱりと薬を抜くことだって出来るかもしれないし。

ラブライブとμ'sが終わりを選んだ後の、これからの未来は本当に、全くどうなるのかわからない。

ただ、今はまだ少し、この劇薬を舐めて生きていたい。

それを味わえる内は、まだもう少しだけ。

そういうところも全部引っくるめて、ああ、本当に、ラブライブ劇場版は素晴らしい作品であった。

 

Tokyo 7th シスターズは本当にアイドルの新時代を創れるのか?

 

大仰なタイトルをつけてありますが、殆ど先日参加したTokyo 7th シスターズのライブに対する批評と愚痴になっております。あと少しゲームについても。

内容もアイドルという幻想にすがるしか生きる術のない男のみっともない妄執と、Tokyo 7th シスターズの行く末を真に憂う者である!みたいな感じの文言で構成されているので、(大半の人がそうだとは思いますが)アウトだと感じたらこの時点で読むことはオススメしません。

そもそも全部で2万2000文字あります。自分でも何でそんなに書いたのかわかりません。

狂人の書いた2万文字超の妄執を笑ってやりたい、そんな人が読んでください。

あと時間がない人やそんなに読めるかという人は最後のまとめだけ読んでも大体わかります。

 

 

 

 

 

序論

結論というより総評としては「いい”イベント”だった」のである。

少なくとも自分などよりも(大半の人がそうであるが)ナナシスのことを知っていて、ナナシスのことが好きな人達、ファン、支配人の皆が楽しかった、素晴らしかったと感じているならその時点でもうそれはいいものなのだ。

作品への知識量、入れ込み具合、好感度がそれ以下の人間が外野から(参加しているから半分内野みたいなものではあるが)ゴチャゴチャ言うことなど何もないのだ。自分自身も自分が入れ込んでいる作品でそんなことを積極的にされたいなどとは微塵も思わない。

無論イベント自体も大きな破綻もトラブルもなく、滞りなくきっちりと盛り上がって終わったということが前提でもある。その点でも一々細かいことをあげつらって水を差すほどのことは大してはなかった。

だからTokyo 7th シスターズのイベントはいいものだった。事実はそれだけでいい。

他に言うことは何もない。終わり。

 

 

と、まあ、そういう風に全てを割り切れるほど心が清らかならば今こうして筆を取っていないし、そもそもライブに参加などしていないのである。

無論ナナシスが好きな人からすれば傍迷惑もいいところだし、テメーなんかに言われたくねーんだよボケが!という気持ちになることだろう。その点本当に心苦しいし、自分が盛り上がっている場にわざわざアイスバケツを持って浴びせに突貫していくようなクソ野郎であることは重々自覚している。自覚していることを免罪符にするつもりも開き直るつもりもないので、ひたすら罵り蔑み晒し上げてくれても構わない。全ての反感を甘んじて受け入れる所存ではある。

だがそれでも言いたいことがある。あるのだ。

以下に記すのは一人の狂人のどこまでも個人的で主観的な偏見にまみれた、信頼性などは欠片もない雑言であるということで、内容の是非はどちらでもいいがそこだけをご理解賜りたい。

 

 

 

 

 その1:ゲームとしての「Tokyo 7th シスターズ」について

元々自分はナナシスのゲーム自体にどうも、苦手を感じていた。

ゲームとしてのシステムどうこうとかではなく、キャラデザとか、設定とか、シナリオとかを諸々を引っくるめた作品全体の雰囲気みたいなものに、である。

それを「嫌いだ」とか「受け入れがたい」とまでは言わないが、「なんか苦手だなぁ」くらいのレベルに感じていた。

何故かはよくわからないし、単純に個人の好みと言われればそれまでの話である。それでも分析して言語化してみるならば、それはどことなく「鼻につくオシャレさ」が原因であるように思われた。

とにかくナナシスはスマートだった。

初期も初期から世界観やキャラの作り込みなどがきっちりしていて完成形に近く、無駄なところが少なかった。

作品全体の雰囲気がそうであった。

リリースから一年以上経つが、一度ゲームシステムを大幅に改新した以外に中身はそれほど最初から変化はしていないのではないだろうか。

堅固な砦のように、FSSでいうところのエンゲージのように全てのパーツが無駄なく組み合わさって、完成した存在としてナナシスは生まれ落ちた。かのように自分には見えた。今もそう感じている。

ナナシスは優等生だ。そつがない。近未来を舞台とした作品全体のデザインは無駄のない流線型を思わせ、ひたすらにオシャレだ。

他に惑わされない自分を持って、二次元アイドルという市場において全く独自の世界観を売り出してきた。

素晴らしいことである。中々出来るものではない。本当にそう思う。

他者に惑わされないということは、他者からの影響も受けず、また存在を意識することもないということでもある。他と比べてどうこうという寄り道などする気は全くなく、本当に自分の最初に決めた道を一歩も外れることなく歩いてここまで来た。ように自分には見えている。

あまりにも強固な自我である。一種のナルシシズムすら感じる。いや、それは確かに存在するのだ。

 

 

そう、ナナシスには全体的に制作側の強烈なナルシシズムが漂っていた。

これはあくまで個人的な見解であるし、マイナス的な意味だけを含むものではないことをご理解いただきたい。

無論コンテンツを立ち上げるにあたっては他の先人達を研究、分析し尽くして影響を受けたり意識したりはしたことだろう。だがそうした試行錯誤の果てに完成させてリリースまで漕ぎ着けたナナシスは、その後全く情勢に左右されたことがないと言うべきか、思い描いた道から全く外れたことがないと言うべきか、とにかく予想外の挙動をしていないのではないだろうか。

制作者が思い描いた理想を正確に反映させて実現させるためのツール。それがナナシスなのでは? とまで自分は思った。

それをしてナナシスナルシシズムであり、そこから感じるのが「鼻につくオシャレさ」ではないかという話なのである。

自分達がスマートで洗練されていることを自分で理解しているが故の、である。

 

 

だからと言って、そんなものがナナシス本編の面白さに影響を及ぼすのかというとそんなことは殆どないわけなのである。

結局そこをどう思うか、感じるか、気づくかなどは個人の嗜好に収束していく。

要は料理にパクチーが入っているか入っていないか、パクチーが好きか苦手か程度の問題ではあるのだ。パクチー一つで料理の味が大きく左右される訳はない。

完成された近未来的でスマートなイメージは確かにユーザーを惹きつけ、ポップでキュートなキャラクター達は人気を得て、かっちりしたストーリーは好評を博している。好きな人は好きなのだ。当たり前の話だ。

自分もパクチーどうも苦手だわと思いつつも、料理自体は美味しく、興味深くいただかせてもらっている。ゲームはそれなりに進めたし、感心する部分も多かった。アルバムは発売日に購入させてもらったし、気に入っている楽曲もたくさんある。カジカちゃんは可愛いし、定期的に「晴海サワラ 流出」でグーグル検索している。最近は知名度もうなぎ登りで、確かな盛り上がり、ブームの兆しを感じる日々である。

だからこそ、その初めてのライブに期待を抱いた。

アイドルの新時代を作ると作品内外で喧伝するナナシスである。これを機に何かが一皮剥けて、自分の抱いているわだかまりも何もかもを超えた場所を見られるのではないだろうか……、と。

まあ、それが見えたのならばこんなことを書いてはいない。前置きばかりがクソ長くなったが、以降からようやく今回のライブに対する自分の胸の内である。

 

 

 

 

 

その2:ライブとしてのTokyo 7th シスターズの問題

前項において自分の感じた「鼻につくオシャレさ」や「制作者のナルシシズム」はナナシス本編の面白さにはそれほど関係ないと書いたが、少しだけ訂正させてもらう。

本編の面白さには確かに関係しないかもしれないが、作品をこれから広める上でこの小さなトゲはもしかすると致命的なところに食い込むのではないだろうか。

そう感じた原因こそが今回のライブである。

結論から言って、今回のライブに参加することで自分はこのトゲすら気にならなくなった場所に行けるということはなく、むしろこのトゲの存在ばかりが随所で目に入ることで目の前で展開される空間に入り込めないという結果に終わってしまった。

楽しめなかったとは言わない、むしろしっかり楽しんだ方だろう。ただ、これまでに参加した別の素晴らしいライブの数々で感じたことのある、楽しさを超えた先へ行くことはどうしても出来なかった。そこに到達するのが果たして良いのか悪いのか、自分だけなのかそうじゃないのかはまた長くなる話なので後で述べることとして、結局その風俗行ったけどイケずにフィニッシュみたいなことになった元凶を探ると間違いなくそのトゲに行き着くのだ。

ナナシスライブは、ライブではなかった。

一から十まで制作者のナルシシズムに基づいた理想を実現するために作られたイベントだった。

言い方は悪いが、いやまあどうしてもここだけは悪く言ってしまうのだが、そういうものであったのだ。

 

 

断っておきたいのだが、今回演者には全く一欠片の非もない。パフォーマンスそれ自体にでもある。

自分が違和感を覚えたこと、不満に思ったこと、やるせなさすら感じたことの全てはこのイベントの演出や構成、演者への指示にある。

そしてそれを考案した不特定多数の作り手、いやもうそこまで広く叩きたくないので少数の思惑、どころか誰か一人の黒幕がいるものと勝手に推測してそいつに向けて文句をぶつけていきたい。

このライブのために積まれた努力と当日必死に動いていた全ての人の働きに悪いところは一切ない。

ただ悪いのは上層部の構想と指示なのだ。

そうであって欲しい。

 

 

そして、そう、「演出・構成・指示」である。

今回のイベントの悪い部分は全てここに集約されている。

もちろん先の「オシャレさ」と「ナルシシズム」も全てここから滲み出ている。

今から行うのは醜い悪意に基づいた全くの邪推であるのだが、このイベントの制作者は今回においてもナナシスゲーム本体のように最初から完璧なエンターテインメントを目指したのではないだろうか。

元々ナナシスの制作者はどことなく完璧主義者的な雰囲気を纏っているなぁ、と個人的には思っていた。そして今回もその完璧主義に見合うところの隙のないライブを作ろうとしたのではないだろうか。

自分の理想通りのライブ。

だが、それは失敗しているぞ、と。

本人から見てどうなのか、思い入れのあるファンから見てどうなのかは知らない。だけど自分だけはこう感じたし、言いたい。

今回の”ライブ”は貴方の理想とする完璧には程遠いお粗末さであった、と。

恐らく、今回のために色々と先達のコンテンツが行ってきたライブを研究し、参考にしたところは多かったと思われる。

そして「ウチもこういうのがやりたいね」ではなく、「ウチでもこういうのはやれる」と考えたのではないだろうか。

その上で、そんな先人達の行いの成功したところなり素晴らしいと思うところをピックアップし、独自のアレンジを加えた上でとにかく考えなしに今回のライブに詰め込んだのではないだろうか。

それが行われている本質的な意図や、それが発生した背景などをよく知ろうともせずに、上っ面だけをなぞろうとしたのではないだろうか。

とにかく、悪意と共にそう思ってしまうような部分が、今回の”イベント”の随所に存在していたのである。

 

 

 

 

 

その3:キャストMCにおける問題点

その一つがキャストMCである。

二次元と三次元の融合、というのはこういう二次元アイドルコンテンツのライブを現実でやるにあたって実に重要なポイントであることはわかっている。

そこら辺のことは先達のコンテンツを参考にしたのも理解出来る。

というか、今のこういうコンテンツのライブの新しい雛形を作ったのは某ライブなので以降特筆しない限りはこの某ライブの方のものと対比させていると思って欲しい。某ライブの方が比べた時により優れているとかそういうことではなくとにかく本当に原型と派生の関係にあるので語る場合に避けて通れないだけである。

話を戻そう、だからキャラと声優のシンクロ率を上げるために実際キャラのセリフや持ちネタなんかをちょろっと担当声優がやって見せて、二次元と三次元の境界を曖昧にするわけである。そこまではいい。

だが今回のナナシスの場合は明らかに行き過ぎであった。

与えられたMCの時間、最初の777シスターズの自己紹介を例に取ってみると、一人が自己紹介するにあたって話すネタの内容はキャラなりきりパートが三分の二を占め、残り三分の一が担当声優個人の挨拶なのである。

これはいくら何でも配分ミスだ。

しかも777シスターズは12人いる。ジャーマネのコニーさんを入れて13人である。

その13人が殆どなりきりコントを自己紹介で延々やるのである。もう何が何だかわからない。

さっきは二次元と三次元の境界を曖昧にすると言ったが、それはやはり現実に存在する演者である声優達がいて、その生きて動いている姿の向こうに担当するキャラと重なるのを垣間見るものなのだ。

普通に話したり、動いたりした時の仕草や、パフォーマンスそれ自体の向こうにある一瞬をもってして「俺、○○ちゃんが見えた!」というトチ狂った幻想を発生させるのである。

最初から演じたまま来られるのは違うのだ。

それでは舞台の上にいるのが担当キャラとは名前も人格も違う一人の人間なのか、痛いキャラなりきりの人なのかわからないのだ。そういう境界の曖昧さを見たい訳ではないのだ。

名前も人格も違う個人が一瞬だけ見せる奇跡を目撃したいのである。

そして、このMCはここだけに限らず全編通してこうなのである。

12人程度ならその三分の一の個人パートをかき集められるかもしれないが、出演人数は総勢21人もいる。だから担当しているキャラの寸劇以外は、どの人がどんな性格をしていてどんな気持ちでここにいるのかまるでわからない。人によってはMCすらなしで歌って退場という場合もあった。

ふざけるなと言いたい。何を考えとるんだと言いたい。

声優達が恐山で修行したイタコでもない限り、恐らくこのふざけた寸劇の殆どはアドリブではなく制作側が事前に内容を考案してこれを演じる旨指示したものであろう。何がしたいんだと言う他ない。

自分はライブを見に来たのであって決してミュージカルを見に来たわけではないのだ。いや、むしろミュージカルをやるつもりならば最初からカッチリとキャラのコスプレをして芯の通った演技をし、メリハリのついたシナリオで二次元の世界を三次元に再現するはずである。けれどそんな域にはまるで達していない、ミュージカルと表現するなら本当にしっかりやっているミュージカルに対して失礼千万もいいところのミュージカルもどきなのである。

マジで、重ねてマジでそんなものを見に行ったわけではない。

それがライブに本当に必要なことならば我慢もしよう、受け入れもしよう。そうでないのは、ミュージカルにもなっていない原因はその寸劇がライブに入り込むことに対して何ら寄与していないからである。何か連続性のあるストーリーを表現しているわけでもない、ただの自己紹介、キャラがそこにいるということを示すためだけのものなのである。加えて内容も大して面白くもないのだ。

書いてて泣きたくなってきた。

何で、どうして、その時間をもっと短くして演者各人に自分達の言葉を語らせてくれなかったのだ。それこそがライブで一番大事なところなのに。

キャラクターだけが見たいのなら、別にこんなところに来ないでモニターに向かって己の性器を振り回すだけで満足出来るのである。

そうじゃないものが見たいから、そうじゃないものを見られると期待したからここまで来ているのだ。

本当に制作者はそこをしっかり理解しているのだろうか?

某ライブのコールアンドレスポンスの上っ面だけしか見ていないのでは?

ひたすらに疑問が尽きない。

 

 

 

 

 

その4:尺の取り方における問題点

第二の問題点は尺の使い方であった。

一つ目でキャスト自身のMCが極端に少なかったことを批判したのだが、それは別にMCが短かったというわけではない。

むしろMCは長かった。アホみたいに長かったのである。

そしてそれは全く必要性のない長さだったのだ。

最たるものがNI+CORAのそれである。777シスターズが歌い終わり、自己紹介を終えた後の各ユニットが歌っていくコーナーのトップバッターが彼女達であった。

曲のイントロと共に登場して一曲歌い、そこからMCパートへ移行、その流れまでは良かった。

ここからこの二人のMCが実に15分近く続く。

メンバー全員ならまだしもたった二人である。混乱でしかない。

内容も特にライブにあたってどうこうなどは触る程度で、後は殆どもう内容も覚えていないような妙ちきりんなトークが前述の如く微妙なキャラなりきりを交えて15分である。

ハッキリ言って唯々苦痛だった。

指定席ならまだしも、ぎゅうぎゅう詰めのオールスタンディングの会場である。

ずっと次の曲はまだかまだかと思いながら立たされ続けるのだ。

五分なら我慢もしよう、10分なら寛大な心で許しもしよう、しかし明らかにライブに不必要な内容を15分である。その15分すら正確に計ったわけではなく全てが終わった今あれは体感で20分はあったけどいくら何でもそんなはずはないから暫定的に15分にしているだけである。現地では永遠のように長かった。

トップバッターのNI+CORAが一番酷かったのだが、他のユニットのMCも大なり小なり似たようなものだったと思ってくれて構わないというか実際そうであった。

これは一体誰が悪いのか?

ライブに不慣れでトークを制御出来なかったキャスト達のせいか?

多少はそういう部分もあるかもしれないが、実際これも制作側が八割方悪い。

何故ならトークが長すぎるならば、タイムキーパー等の役割を持った人間が巻けだの終われだのを指示するはずなのである。

MCの内容にしたって、今回ポロリとキャストがこぼしたところによると内容の指示は事細かに制作側から出ていたようなのである。

つまり、今回のこの中身の殆どない伸びきったラーメンのようなMCはまさしく制作側が意図して仕掛けたものに他ならないのである。

おまっ……、お前ら……、もうこれから何回も言うけども何を、何を考えてそんなことをしやがった。

本当にライブMCの役割を理解しているのかと。

観客を楽しませるため?

楽しんでねーよ馬鹿か! 足は痛いわ内容は面白くないわハッキリ苦痛でしかなかったわ!

ぎゅうぎゅう詰めの会場で立ったまま見続ける観客のことを本当に考えていたのならばこんなことはしないだろう。

つまりはこれも制作者の自己満足的な演出に他ならないわけである。

そこら辺完全に履き違えているわけである。

では何が正解だったのか?

それも難しいところはあるのだ。MCの意味は人によって千差万別ではあるのだから。

だが今回のそれではないと自分は断言するし、取り敢えずではあるが個人的なMCの見解を述べさせてもらう。

まずは尺稼ぎとしての意味。歌っている本人なり、後続の演者なりを休ませるために行うMC。

しかしこれは必要以上に演者を休ませて、その分の負担を観客側へ押しつけるものでは決してない。

全力のパフォーマンスをした後で、息を切らしながらステージ裏へ戻り、急いで衣装を着替え化粧を直すその間が必要なことを知っているから、観客はそれを稼ぐための素人漫才のようなMCにも我慢して付き合うのだ。

かといって演ずる側もそれに甘えっぱなしではなく、観客の興奮を冷まさぬ最小単位の時間で準備をするために時には十分でない休息でもステージへ戻ってきてくれる、実際そうであることを期待しているから待つのである。

翻って、今回のナナシスのMCは何だ?

本当にその尺を観客に押しつけなければいけないほど余裕がなかったのか?

NI+CORAには活動限界時間を超えたら15分休まないといけないとかいう設定でもあったのか?

甚だ疑問である。

しかし、MCにはもう一つの意味としてライブに引き込むためのものというのもある。

時には歌うよりMCの方が面白いということもある。

しかし、それにしたって自分の話術の中へ、MC含めたライブの中へ引き込む腕があり、そのために行っているのである。

身も蓋もない話ではあるが、楽しければ、面白ければ許されることもある。ナナシスのそれも楽しいから、面白いからと許した人も多いかもしれない。

しかし、相応たる実力で、本当に観客を楽しませようと考えられたMCであり取られた時間だったのか。

その基準に照らすと、自分としてはそこも引っかかり続けている。

 

 

尺の使い方がアレだった部分はもう一つある。

ドラマCD垂れ流しパートである。

デフォルメされたキャラの絵を使って流すライブの幕間劇、これも発祥を某ライブに求めることが出来る演出である。

けれどここでも、その本質を理解することのない上っ面だけのコピーが発動してしまっていた。

別にドラマの内容の優劣どうこうというわけではなく、何のためにこのドラマCDパートを取るのかという話である。

某ライブの方はこれを尺稼ぎとライブに入り込ませるために行っている。

演者と観客双方に大きな休息が必要な部分で、大体三回に分けてそれぞれが10分ほどの尺で流される。

内容はグループのメンバーが今行っているライブに向けて、あるいはライブの途中の控え室でわちゃわちゃするものになっており、それを見ることで二次元の方のグループもこのライブにこうして関わっていることを知り、観客もよりライブの世界に入り込む。

これが大きく幕間ドラマパートをやる目的であろう。

今回ナナシスも先人に倣ってそれをやった。

”こっち側だけの尺稼ぎ”のために”ライブと何の関係もない”ドラマパートを”一切分割せずに”流すという最悪の形で、である。

かくして六つのユニットが各々持ち曲を披露していく途中の三つ目が終わった所という果たして本当にそこまでの長尺が必要だったのか不明である謎のポイントで突如として20分強のドラマパートが立ったままの観客達に対して一切の分割なく流されるという凶行が発生した。

それも777シスターズが河原でそれぞれの考えるBBQをするという、その時その場所において心の底から、心の底から、心の底からどうでもいい内容のドラマパートが、だ。

この行いの是非を深く語る必要はないだろう。

あっちがやっていたからこっちもやろう、それも何も考えずに安易に、観客のためではなく自分達の都合と満足のために。そんな邪推しか出来ないこの尺の使い方であった。

 

 

それでいて、ライブの総時間は17時に始まり20時30分くらいに終わるという実に三時間半もの長丁場である。

中を覗けばそれに見合うボリュームはなく間延びしたスカスカの構成がライブにのめり込む意識をことごとく挫いてくれる素敵なものに仕上がっていた。

そう、ライブに入り込めなかった原因の一つは確かにこの間延びした、曲を聴いてパフォーマンスを見てそこで上がったボルテージに一々冷や水をぶっかけてくれるような構成に存在していた。

 

 

 

 

 

その5:パフォーマンスの問題点

三つ目はどこかで見たようなレベルから脱しきれないパフォーマンスにあった。

ここら辺は個人の好みや尺度に基づく優劣の付け方に関わってくるのであまり声を大きくして言いたくはないのだが、敢えて言おう。

だからこれは絶対的なものではまるでなく、あくまで本当に個人的な評価として聞き流して欲しい。

さて、その肝心なナナシスのライブパフォーマンスだが、他と比べてそれ程優れているわけではなかった。

しかし、それはそれで全然構わないのである。

本職のアイドルではないし、これが初めてのライブなのだから。

そんなことは当たり前だし、そんなことを乗り越える何かで観客は惹きつけられるのである。

その何かとは例えば演者の熱であり、腸(はらわた)であり、命そのものであったりする。

拙い踊りだろうが汗をかき全力で、振りを間違えても一心不乱に打ち込み、下手な歌でも顔を真っ赤にし息を切らせて声を枯れさせながら叫ぶ。涙をこらえて、時には我慢できずに流しながらも自分の思いを観客に向かって語りかける。

そんなアイドルの生きている姿に、自分の全力をぶつけてくる命の輝きに心を打たれるから、その熱に感染するから何でもない、欠点だらけかもしれないパフォーマンスにも酔いしれ、次に繋がる可能性を感じるのである。

あるいは単純に努力した、頑張ったなどの言葉では言い表せないようなパフォーマンスの凄絶さ。その為に積んできた汗と練習の量。本職でないものを本職並に仕上げるために重ねられた狂気。

アイドルとしてパフォーマンスを行う者は言葉にしない、言葉に出来ない自分という個人の背景をステージ上での全ての行動で見せる。自分の腹を切り裂いて腸(はらわた)を見せつける。

その姿に圧倒され、言葉を失い、涙すら流すのである。

しかし、そこでナナシスには困ったことが発生する。

その何かが、どうもぼんやり覆い隠されているのである。

それはキャラを演じさせたままで個人を感じさせないMCのせいであったり、過剰なほど尺を取り曲と曲の間に十分に休養させるせいでどうにもお互い熱が上がりきらないせいであるかもしれない。

あるいはこんな言葉で片付けたくはないのだが、単純にナナシスは”本物”ではなかったのかもしれない。見た人を問答無用に熱狂させ、もっと、もっとこれを見たいという狂奔へ駆り立てるような力を持った本物ではなかった。

あるいは、自分がそんなことを思い込めるほどのレベルにナナシスへのめり込めていなかったのかもしれない。期待が過剰だったのかもしれない。ライブに入り込めていなかったからかもしれない。

原因はよくわからない。

ただ、好きな曲を聴けて盛り上がれて楽しいとは思えても、全てを忘れて飛び込みたいと思うほどの熱をナナシスのパフォーマンスに自分は感じられなかった。

あるいは感じられたかもしれないのを、上二つに書いたような理由で隠されてしまったように思った。

何よりどうも今回のライブを初めてのライブのように感じられなかった。

初めてで拙くても、失敗しても、一生懸命に輝こうとするライブであれば良かったのだ。

それが許されるのが1stライブなのである。

そこから始まる伝説を夢に見ていたのだ。

しかし、どうにも妙なところで上手くやろうとしているように見えてしまった。

最初から完璧を求めているように映ってしまった。

二回目、三回目で行くはずの到達点に最初から向かおうとしたせいで、どこか全体的にちぐはぐなところが生まれてしまっているように思えた。

その原因は後述する四つ目の悪かった点にもかかっているのだが、とにかくナナシス制作側はこういう部分にも初めから完璧を求めすぎるきらいが発動してしまったように思える。

アイドルとはある意味未完成のところにこそ最大の美しさが存在する。

成長していく可能性にこそファンは夢を見る。

そつのなさには感心出来ても、全てを捧げたくなる熱を感じることは出来ない。

本当にそこをわかっていたのだろうか。

 

 

 

 

 

その6:演出の問題点

さて四つ目、最後の悪い点は全体的に滑り気味のライブ演出にあった。

一つ最たる例を挙げよう。終盤に近いCocoro Majicalという曲の時の話である。

個人的に好きな曲なのでかなり楽しみにしていた。

777シスターズが並び、曲のイントロがかかり歌って踊り出す。自分もぐっと入り込む。

その瞬間である。

二階席の被さっていない前方の上側両サイドから巨大な風船ボールが客席へ降ってきた。

大きさは大玉転がしのそれをイメージして貰えるとわかりやすい。正確な数は覚えていないが、少なくとも五個以上はあっただろう。

自分は今回最後方で見ていた(とはいえ演者の動きもモニターも全然見える距離ではある)。

Cocoro Majicalに合わせて777シスターズが今日のために練習してきた踊りを踊っている。

自分は目をこらしてそれを見届けようとする。

その視線の先を大玉転がし大の風船がポンポコポンポコ前方の客に弾かれて舞っているわけである。

見えないのだ。大玉風船が舞っている隙間からしかシスターズの姿が見えないのだ。

時にはすっぽり演者の姿を覆い隠し、それどころかモニターで抜かれたショットにまでその風船が横切りブラックアウトさせるのだ。

自分は一体風船を見に来たのかシスターズを見に来たのかわからなくなるような光景がそこに広がっていた。

集中出来ないどころの話ではない。

何を考えてこんなことをやらかしたのか理解に苦しむ他なかった。

後方の迷惑だけならまだしも、前方ですら巨大な大玉風船が横切った時の視界の塞がれ方は相当なものだっただろう。時には自分の方へ降ってきた風船への対応でステージから目を離さなければならないこともあったかもしれない。

それどころかその風船は弾かれた方向によっては普通にステージまで飛んでいくのである。

必死に歌って踊っているキャストの所にである。

というより一度飛んでいった瞬間を目撃してしまった。

それでどうするのかというとダンスを中断して客席に弾き返しているのである。

客どころか演者にすら迷惑をかけるステージ演出を見たのは初めてであった。

重ねて言うが、本当に何を考えてこんなことをしでかしたのだろうか。

客席を舞う大玉風船という演出は、某ライブの5thライブでのそれが記憶には新しい。

だが状況はまったく違う。

向こうは3万人が入る大会場のアリーナ部分に限定して大玉風船を落としている。

数はメンバーの人数にちなんだ9個のみ、風船の跳ねる場所の広さは言うに及ばずである。

タイミングも、演者がメインステージで踊る曲ではなく、ゴンドラに乗って会場を一周する曲の時に合わせてある。

演者は会場中の観客に手を振って歌いながら、時には飛んできた風船を観客に向かって戻すように跳ね返す。

アリーナの観客はそうして風船を弾き弾かれされつつ、自分もライブに参加している気分をより強める。

外周部分の観客はそれらを俯瞰的に眺められるように配慮してあり、会場全体を使った大がかりなパフォーマンスを楽しむ。

それがこのような演出の意図であろう。基本的に大会場用のものなのだ。今回のナナシスのようにステージの固定された比較的小規模な会場で行うには適さないのである。

だのに、何故。

再三言うが、これも本質を理解せずに上っ面だけを掠めようとしたケースだったとしか考えられない。

客席に向かって何かしたいなら、この規模の会場ならば使い古された手ではあるが銀テープなり上から小さな風船をたくさん降らすなりすれば良かったのだ。

それも観客の集中を邪魔しない、動きの少ない曲の時を狙ってだ。

まあ、そういうことをちゃんと考えられるならこんなことにはなっていないので無駄な話ではあるが。

結局大玉風船は前方の客が渾身の力で出てきた方へ弾いて戻したり、ペンライトで牙突を繰り出して破裂させたりすることでようやく消失した。

一体これで誰に何をさせたかったのだろうか。

別の意味で泣ける演出ではある。

 

 

明確にダメだった演出はそれが最大のものであったが、他にも細かいものがこの後にも続く。

そうしたことがあった上で最後の曲であるKILL☆ER☆TUNE☆Rへとステージが進んだ時の話だ。

そこでキャストからのお願いが出された。「歌の一部分をみんなで合唱してください」というものであった。

別にそれ自体は構わない。全然構わない。

「みんなで歌おう!」なんてどこでもある形の演出である。

けれども何故だろう、自分はまるで「お前達はライブを成功させるためにここでこう動け」とでも指示されているように感じてしまった。

これは単に自分が捻くれているだけか? 歪んでいるせいか? 制作側への反感からくる邪推か?

確かにそうかもしれない。いや、実際そうだろう。

でもそこまでこの反感を、捻れた見方をさせる何かをここまでに積み上げてきたのは誰だ。

自分達の理想ばかりを追い求め、観客にそのツケを押しつけてきたのは誰だ。

確かにこの合唱が決まれば、さぞや美しい光景が広がるに違いない。

でもそれは誰の意図なのだろう。

今この場にいる誰の自発的意志から発生したものなのだろう。

誰にとっての美しい光景なのだろうか。

その時、その瞬間、自分の頭の中にはそんな考えばかりがぐるぐると巡っていた。

合唱はつつがなく実行され、ライブは一旦終了した。

確信を深めるに至ったのはその後であった。

お約束のアンコールタイムが始まるはずが、間髪を入れずにモニターで告知が始まったのだ。

ステージ上は暗いまま、モニターだけが明るく光っている。

キャストの誰も戻ってきていない中で、今後のナナシスの新たな動きを知らせる告知は終了してしまった。

そしてステージに光が戻る、すでに今日の出演者全員が並んでいた。

誰もアンコールを叫ばぬままアンコールタイムが始まってしまった。

出演者全員で並んで踊りながらStar☆Glitterを歌っていた。

そして途中あれだけ間延びした尺を取っていたはずが、最後だけは何故か全員の挨拶もそこそこに(というか全員でありがとうを言った以外になかった気がする)巻き気味でライブは終わってしまった。

そこで、何となく自分は気づいてしまった。

ああ、このライブの制作者は観客と何かをする気も、観客に自発的に何かをさせる気もないのだな、と。

観客のことを、自分達の思い描く理想のライブを実現させるための舞台装置の一つにしか思っていないのだな、と。

そしてそれは観客だけではなく演者もそうなのだろう。何故なら、そうでなくては説明がつかない。

どうして観客にアンコールを叫ばせてくれなかった。

そりゃ確かに形骸化した茶番的な側面はある。

どうせアンコールまでは公演の中に織り込み済みだし、音頭は目立ちたがりのアホが取ったりする。冷めた目でそれを見たり、早く出てきてくれと願ったりしている人もいるだろう。

だけど、全ての人が最初からそれを奪われていい道理はない。

自分だって真面目にアンコールを叫ぶ方ではない。時にはサボるし、早く出てきてよと思ったことだってある。

それでもアンコールを言いたくないと思ったことは一度もない。

それは素晴らしいステージを見せてくれた演者への、ある種の感謝と賞賛の形だからである。

もう一度と願うことが、舞台裏で控えている人達の心に何かを届けられるかもしれないと信じているから叫んでいるのである。

そりゃあ、都合のいい妄想ではある。気持ち悪い勝手な思い込みではある。

でも、それを信じているから観客は熱狂するのだ。

信じるために、自分を一時の空想へ入れ込むために叫ぶのだ。

告知の時間にしたってそうなのだ。

演者達と一緒に告知を見る。CD発売決定、アニメ化、次のライブの予定、内容は様々だ。

でも、どんなニュースだろうが要はそれを演者と一緒に見て、一緒に喜びたいのだ。

演者達自身がそのニュースに喜び、時には涙を流す様を見たいのだ。

そしてそれに対する言葉を聞きたいのだ。

それを見て、聞いた上で、ステージに向かって「おめでとう!」「良かったね!」と叫びたいのだ。

確かに茶番だよ。客観的に見ても、終わった後から思い返しても茶番ですよ。

だけど、その茶番を素晴らしくて美しい世界だと信じ込ませるのがアイドルであり、その世界を作るのがライブなのである。

別にただただ順番通りに流れていく音楽を黙って聴きたいだけなら家でプレイリストでも作って聴いているのである。

ただ垂れ流すだけの告知が見たいだけなら家で公式サイトでも眺めているのである。

そうじゃないから、そうじゃないものが見られるからこちとらライブに行ってるんだよ。少なくない額のお金と時間と体力を使って。

それなのに何だと言うのだこのライブの演出は。

観客の方を向かずにひたすら作る側が自分達だけで自分達だけが美しいと思うことを実現しようとしているだけで、観客へは届かずに全て上滑りしていっていた。

それでも、観客のボルテージが高ければ、熱に浮かされた頭があればこの演出を信じることも出来たかもしれない。

しかし、それだけの熱を、温度を今までのどこで与えてくれたのだろう。上がるかと思えば挫かれる、その点においては無駄に完成度の高かったこのライブで。

そもそも普通はこの演出も使って上げるものなのだから、それを他頼みにしていては本末転倒である。

とにかく、この制作側本位の自己満足的な演出の数々が、もうとにかく色々なものを醒めさせてくれた。

いくら考えても納得のいく擁護が思いつかない問題点であった。

 

 

 

 

 

 その7:全てのまとめ

さて、こうして四つの大きな悪かった点を並べてみたわけであるが、最後にそれらをまとめて、本当に悪いのは何だったのか、運営なのか、それとも自分の頭なのか、今後ナナシスはどうするのか、どうなるのかということを考えていきたい。

では、よろしくないと思った点を今一度簡潔に書き出してみよう。

 

 

  1. キャスト本人ではなくキャラにMCをさせた部分が多かったこと。
  2. そのキャラとしてのMCがライブにおけるストーリー性などを持っていなかったこと。
  3. 尺の取り方が滅茶苦茶で、観客に負担をかけていたこと。
  4. 上記三つのせいで演者個人への愛着が湧いたりすることや、ライブに対する入れ込み具合とテンションが上がるのが妨げられたこと。
  5. そのせいでパフォーマンスにもいまいち輝きを感じられなかったこと。
  6. 観客の目線に立たない、滑ったステージ演出ばかりだったこと。

 

 

簡単に言えばこういうことになる。

では、それぞれが何故、何が良くないのかも簡単にまとめていこう。あくまで個人的なライブ観に基づいたものであるが。

 

 

まず1の点で良くないのは、キャラとキャストはどこまで行っても別のものであることを理解出来ていないことにある。

キャラのネタをやるのはあくまで必要最小限でいいのだ。

完全になりきるミュージカルでもやるつもりならば別だが、それをしないのであれば観客がライブ中主に見るのはキャスト個人の顔であり体であり人格なのである。

それはそのままでは二次元のキャラクターとは決して重ならない。当たり前の話である。

じゃあどうすれば重なるのかというと、キャストがパフォーマンス等を通じて放つ個人としての輝きの先にトランス状態の観客が一瞬二次元と重なる線を見出すだけなのである。

そのためにもキャスト個人の魅力や輝きをMCなどでアピールしていかなくてはならないのであるが、それを変に担当キャラのなりきりをさせるせいで覆い隠してしまっているわけである。

キャラクターショーを見に来ているわけではないのだ。

その日まで名前も知らなかった女の子が自分の中で好きなキャラと重なるアイドルになるかもしれない瞬間を見に行っているのだ。

そこを履き違えないで欲しかっただけなのである。

 

 

次に2の点の良くなかった部分。

実はここさえもっとしっかりしていたならば1の部分の失敗を取り返せていたかもしれないと思っている。

ストーリー性のある展開、つまり更にミュージカルやキャラクターショーに近づけるわけである。系統としては某ホームズのものがわかりやすい。

それならばそういうものとして受け入れることも出来ただろう。

しかし、そこも中途半端だった。

キャラなりきりMCの部分がライブの展開に対して連続性を持ったストーリーを特には展開していなかったのである。

ライブについてキャラが話してはいるのだが、何だかよくわからないぶつ切りになっているのである。

世界観を作り切れていなかったわけである。

それこそ今度は半端に混ぜ込まれているキャスト個人としてのMCのせいである。

要は配分ミスがこのどっちつかずさの全ての原因になっているのだが、誰かそこに違和感を持つ人物はいなかったのであろうか。

もしくはあのライブに全く関係のなかったドラマCDパート。あれに使用されていたSDモデル。

それをあんなわけのわからない内容のドラマパートで消費せずに、キャストに代弁させていたキャラとしてのMC部分を再編した幕間ドラマに使えばよかったのではないだろうか。

その幕間ドラマにライブとしてのストーリー性を持たせて分割し、尺稼ぎの必要な部分で適宜流せば良かったのではないだろうか。

まあ、実際それは完全に某ライブの手法そのままなのであるが、それこそが二次元と三次元を一つのライブで上手く両立させる現在の最適手ではあるのだ。

中途半端に幕間ドラマを垂れ流すのを真似するくらいならば、いっそ思いっきり丸ごとパクってしまえばよかったのではないだろうか。

まあ、キャラとキャスト、どちらも見せる道を取りたいのであればの話である。

いずれにせよ、中途半端なコピーと意図不明の独自性が混ざったが故の悲劇はナナシスライブ全体に降りかかっており、これもその一つであった。

 

 

3に移ろう。

ライブと直接関係あるのかないのかわからないような微妙なMCを長時間取ってみたり、ライブと何ら関係のないドラマパートを長時間垂れ流してみたり、そんなこんなで三時間半も引き延ばした挙げ句何故かライブの最後は巻き気味で終わったりと散々なことをしてくれたわけである。

これによって観客はまず、ずっと立ち続けるという肉体的苦痛を被っている。

好きでライブを見に行って、好きで立ってんだろと言われたらそうなのではあるが、かといって本当に必要かどうかもわからない時間をずっと立たされるために行っているわけでもないのだ。

観客へ一方的に押しつけた、ひたすら立たせるだけの時間が本当に必要なものだったのか甚だ疑問である。

制作側はこれがオールスタンディングの公演であることを本当にわかっていたのだろうか。

立ったままの観客の立場を考えていたのだろうか。

そしてこれによって引き起こされる弊害は肉体的苦痛だけに止まらない。

謎の尺によってぶつ切りにされた時間は、それだけ観客のテンションを下げるのである。

観客のテンションが一番上がるのはやはり演者が歌い踊る曲の時間がそうなのであり、それが間断なく続くことにより一時だけではない平均的なボルテージも上げていくのである。

そして如何にそのボルテージを下げることなく維持させつつMCや小休止を挟み込むのかがライブの構成で重要な部分なのだ。

それが何だろう、この曲と曲の間にスッカスカのMCがのんびり挟まったこの構成は……。

これでは上がるものも上がらない、上がりようがない。

一曲聴いて上がったテンションはその間ひたすら理解しがたいほど長くそのクセ中身のないMCと立ったままそれを聴く肉体的苦痛によってそりゃもうずんどこ下がっていくのだ。

これでどうライブに入れ込めというのだろうか。

思い出す度に途方に暮れる時間であった。

 

 

さて、4の点でよろしくないところである。

上記三つでそれぞれ触れているが、演者達への愛着、そしてライブ自体の滞りのない右肩上がりの盛り上がりを以て我々はトランス状態を目指しているわけである。

MCやパフォーマンスを通じて個人の魅力を知り愛着を持てなければその先の輝きを見出すことは出来ない。

間断なく上昇するボルテージがなければライブの中の茶番を芯から信じ込むことは出来ない。

その二つが揃って初めて舞台の上で起こる全てが輝きに満ち溢れて見えるという中毒性を持った陶酔状態へ到達出来るのである。

まあ実際そこまで危ない状態へ至ることは稀であるし、そこまでを求める必要が全ての人にはなくとも、だ。

少なくともその陶酔をある程度観客へ提供出来なくては、ステージを見る目は何となく醒めていってしまうものなのだ。

 

 

そうしたことを踏まえた上での弊害が5である。

演者のパフォーマンスを輝かせるものは二つある。

パフォーマンスそのもののレベルの高さか、そうでないならば愛着から生じる贔屓目である。

歌もダンスも下手なアイドルが何故存在出来るのかというと、それ以外の要素で補っているから、観客を惹きつけているからである。

それは例えばルックス。笑顔。一生懸命さ、ひたむきさを感じる姿勢。様々ではあるが、究極的にはその個人の魅力ということになる。

その魅力を以て、何でもないパフォーマンスを輝かせているし、輝いているように見せかけるのである。

盛り上がっているライブの真っ只中にいるという場酔いもそれを大きく手伝うだろう。

しかし、今回のナナシスでは演者達へ愛着を覚えるためのルートはことごとく狭められ、また観客を錯覚させるためのボルテージに関しては言うまでもない。

そうなるとどことなく醒めた目でステージを見てしまう。

そして、そんな気持ちで見るステージは輝きを剥がされた、どこにでもある、どこかの真似のようなそれに見えてしまう。

パフォーマンスが悪かったとは言わない。

これを行うためにレッスンを重ねてきた演者の汗も努力も否定はしない。

ただそれを素直に感じて酔える場所を、雰囲気を、演者の上の制作側が上手く提供出来ていなかった。それだけなのである。

 

 

そして最後の6の点。

ここに上記全ての点の悪い部分がのし掛かってきている。

それらを解消出来ていたならば、観客をライブに酔わせることが出来ていたならば、クライマックスで行われた数々の演出も好意的に受け止められたかもしれない(視界を遮る大玉風船はどう頑張っても厳しいが)。

しかし、それが出来ていなかった。

出来ていないとどうなるのかと言うと、その演出に白けるわけである。どことなく胡散臭さすら覚えてしまうのである。

特に今回は観客から自発的に何かを起こす機会がまるでなかった。

観客は指定された通りの行動をし、指定された通りの感動を得るだけだったように思う。

作られた感動。

無論、感動とはある程度は作られて発生するものである。

その作り物っぽさを如何に臭わせないか、如何に素晴らしい空間の存在を信じ込ませるかは制作する側の手腕にかかっている。

ではナナシスライブにおけるその手管がどうだったかというと、まあ、ここでまた長々と改めて書くまでもないだろう。

何より、これは経験談になるが、本当に美しいものとは作られずとも自然に、演者と観客が本当に一体になった瞬間に生まれるのである。

そして、それは観客の自発的行動を排除していては決して生まれはしない。

少なくない数のライブへ行って、色々な素晴らしい瞬間を目撃してきたが、伝説のように語り継がれるものはいつだって観客が行動し、演者がそれを受け止めることで成り立っていた。

まあ自発的行動を許しすぎた挙げ句の迷惑行為やら色々難しいこともあるが……それもあるが……。

しかし色々あっても、やはり観客がいてこそのライブなのである。

生きた観客がいるからこそのライブなのである。

その観客の生きた意志を完全に排除してしまっては、本物の何かなど生まれ出るはずもない。

作り物であることを誤魔化すことも出来ない、本物を生み出すことも出来ない。

だから、ナナシスライブは制作者の自己満足の産物でしかないと自分は感じたのだ。

別にお前らのつまらんオナニーショーをわざわざ安くない金を払って見に行ってるわけやないんやで。

生きているアイドルの輝きを見て、自分も生きていることを感じたいからライブに行っているのだ。

制作者は割とそこら辺を本当に理解出来ていない気がする。

 

 

以上、ダラダラと問題点を書き連ねてきたわけであるが、結局一言で纏めてみると「観客と演者の意志不在で作られた制作者の意図通りに動く操り人形達によるライブのような何かでしかなかったこと」となるように思う。

そう考えてみると色々と辻褄は合ってくる。

制作者の意図通りのことをしなくてはならないので演者個人の発言の場が与えられないのは当然である。

意図した通りの行動をさせるにはキャラクターを演じさせるのが一番である。

制作者の意図通りの反応だけを求めるならば、観客の負担を気遣う必要も、水を差さずに盛り上がらせ続ける構成も必要ないのである。

ある意味ライブという状況を使った一本の映画でも作っているようなつもりだったのではないだろうか。Tokyo 7th シスターズのライブという一つの作品を。

それならそうと最初から言っておいて欲しい、そんなオナニー映画なら絶対に見に来なかったから。

ライブというのは一つの作品である、か。

確かにそうかもしれない。素晴らしいライブは一個の作品のように美しく完結している。

でも、それは演者と、観客と、そのライブに関わった全ての人で血と汗と涙を流して、その上で偶発的に作り上げられる作品なのだ。

誰かの考えるシナリオ通りに全てが運んで作られるものでは決してない。

ライブは生き物だ。生きているから”Live”なのである。いや上手いこと言ってるわけではなく。

今回のライブで本当に生きているものがどれだけあっただろうか。

だから自分はこれをライブとは認められない。

ただのよく出来た”イベント”であった。

実際よく出来たの部分ですら懐疑的ではある。

 

 

……最後のまとめに入ろう。

こうして長々とナナシスライブを執拗に、悪し様に叩いてきたわけではあるが、自分は別にナナシス憎しの感情でこういうことをしているわけではないことをわかって欲しい。いや、ここまでやっといて信じて貰えないかもしれんけども。

ただ、そう、期待していただけなのだ。

期待し過ぎていただけなのだ……。

ナナシスはアイドルの新時代を創ると標榜している。

それは取りも直さず、かつての王者である某マスやら現在の頂点である某ライブやらを古い時代として超えるという宣言でもあると思う。

実際その気概は買う、というより、これからのアイドルものでそれを目指さずして真の成功はありえないだろう。

そして、ライブ直前のナナシスには果てしない目標であるそれをもしかしたらと思わせる勢いがあった。

波が来ていた。

リリース初期からの熱心なファンが作品を広め、その熱がナナシスを知らない層にも拡がりを見せ始めていた。

ライブに向けてこれまで作品内でしか聴けなかった楽曲が配信で購入出来るようにもなり、待望の1stアルバムは素晴らしい出来の曲をたくさん詰め込んだ、確かな力を感じる逸品だった。

今までどこに潜んでいたんだという数のファンが数字にも立ち現れるようになり、まるでかつての伝説の再来を思わせるような状況だった。

自分もいけるかもしれないと思った。

もしかするとナナシスならやれるのかもしれないと思った。

それは今ではないだろうけども、いつかは己の牙を突き立てて頂点に立つ者を引きずり下ろせるのではないだろうか、と。

その片鱗が、無限の可能性がこの初めてのライブで見られるかもしれない、と。

それまでライブのラの字も知らなかったような男が貯金を切り崩して往復1000kmの距離を移動してでももう一度それを見たいと願うほどに、人を狂わせる何かがもう一度見られるのではないかと、そう期待した。

結果は言わずもがなである。

自分の期待が過剰すぎたのだろうか。

勝手な期待を押しつけて、勝手に失望して、その責任を取れと喚いているだけなのだろうか。

そうかもしれない。

しかし、新時代と豪語するからには、何か一つでも新しいものを見せてくれても良かったのではないだろうか。

それなのに、出てきたものがどこにでもよくある感じのやつ、しかも一部劣化コピーではあんまりなのではないか。

結局このライブに、自分は現行の王者に届きうるような、一つでも突出したもの、新しい何か、大きな可能性などは欠片も見出せなかった。

新時代と言うなら、むしろこのライブが大ウケするような状況が来るならそれこそ新時代であろう。

 

 

でも、もしかしたら本当にそんな新時代が来ているのかもしれない。

何故なら行った大半の人は満足しているし、楽しかった、素晴らしかったと思っているし言っている。

やるせなさに喚いているのは俺ばかりである。

そもそもだ。ナナシスをちゃんと好きな人が行って、それでしっかり楽しめたし感動出来たのならば、それだけでもういいんじゃないのという話である。いいライブだったんじゃないのという話である。

自分が不満に思ったキャラクターショー的な側面も、作品が好きな人にはちゃんと楽しめるし興奮する部分だったのだろう。

滑っていると思った演出も、しっかり興奮しているファン達には素晴らしいものに映ったのだろう。

結局のところ、自分がナナシスをそれほど好きでなかったのが全ての原因なのではないだろうか。

風俗行ったけどもどうしても勃たなくて挙げ句それを嬢のテクに責任転嫁して説教しているという限りなくみっともない姿が今の自分なのでは。

色々考えているとそこに行き着いてしまう。

俺がナナシスを信じ切れていなかった。溺れていなかった。

それだけの話である。

好きな人がちゃんと楽しめて、突き詰めれば作品を好きな人のためだけのファン感謝祭的なイベント。

それはそれでいいものなのだ。

一つのビジネスモデルとしても成り立つものなのである。

それ以外の部分でファンというお客を集められるならば、十分有用な戦略であろう。

あのゲームの内容で爆発的なファン人口が獲得出来るならばの話だけど。

どこかの親切なスタジオが自分達の誇りをかけて、技術を注ぎ込んだ素晴らしいアニメを作ってくれるならばの話だけど。

CDをコンスタントに発売して、いい曲を届け続けてくれるならばの話だけど。

それらが実現したならばナナシスはプロジェクトとして成功するだろうし、それらに魅了されたナナシスファンはこのイベントに来て皆満足出来るだろうし、アイドル新時代が来たと言えるだろう。

ナナシスのライブはそういうライブであった。

作品のことをよく知らない人が、少し囓った程度の知識の人が、興味本位で足を運んでステージを見た瞬間に一発で魅了されてしまうような。よくわからないけども、何か凄いことをしているということだけはわかるような。見た後で何週間も興奮が抜けずに、それをどうしても吐き出したくて触ったこともないSNSのアカウントを作らせるような。誰かの人生を大きく狂わせてしまうような。

そんなライブではなかっただけの話である。

ナナシスの目指す新時代がファンのための内輪ウケだけのそれであり、自分達のことを知らない誰かすら魅了するようなものではないのなら。

それならそれで文句は別にないのである。

自分だって何もかも楽しめなかったとは言わないし。楽しかったよ、ナナシスのイベント。好きな曲も聴けたし、それで盛り上がれたし。楽しいだけでいいなら十分楽しかったのだ。

楽しければそれでいいじゃないか。

世の中そんなもんかもしれないしね。

難しいこと言って理屈こねて感動してくれるファンこそが善良なファンというわけでは決してないことは自分を見ればよく理解してもらえるだろう。

純粋にライブ行って「あー、楽しかったねー」だけで終わってくれるファンの方がよっぽどいいファンだし金払いもいいだろう。

自分だって何もそういう付き合い方が出来ないわけじゃない。

好きな曲を歌ってくれるのを聴いて、騒いで、笑って、盛り上がって、楽しかった。

それだけでもいいのかもしれない。

ただし、それだけでいいのなら、別に選択肢をナナシスに限る必要はないけれど。

そういうアイドルコンテンツは今や飽和状態というほどに溢れかえっている。

そしてどれも等しく楽しい。

ライブという方面では、結局ナナシスはそれらと同一だった。

特に突き抜けたところはないものとして、今後は無数の選択肢の中に埋もれていくだろう、自分の中では。

楽しいことはいいことだ。

だが、楽しいだけならそこに夢は見ない。

夢がないなら、他の選択肢を切り捨ててまで、何かを犠牲にしてまで足を運ぶつもりはない。

自分はTokyo 7th シスターズに夢を見たかった。

だが、自分には見えなかった。

だからもう、疲れた。

これからそれを探し続ける体力も気力ももうないと悟った。

ナナシスに関しては降りる。

あの日、自分が見えなかった夢をナナシスに見た人達が今後は支えていってくれればいい。そもそも支えた時のない自分が言うのもおこがましい話であるが。

おっさんは疲れた。

あの日ライブを見ながら自分がアイドルに疲れていることを心底実感してしまった。

還る場所などどこにもない。どこにもないのである。

 

 

それでも、ナナシスライブに関しては一つだけ救いがある。

それはこれが初めてのライブだということである。

二回、三回と重ねていく内に悪いところは改善され、もしかしたら素晴らしい、本物の輝きが生まれるかもしれない可能性はまだまだ十分に残っているのだ。

自分がここまで延々とくだを巻いてきたことの八割は益体もない雑言であるが、二割、いや一割……五分くらいは本当にこれはどうかと思う問題点を指摘してある、と、思う。

全部が全部自分の理想通りになればいいなどとは思わない。それはそれで単なるどこかのコピーでしかない。

ただ今後多少なりとも観客には配慮してあげて欲しい。

ライブを肯定している人の中にも、つらい思いをした人はいるかもしれないわけであるし。

そうして観客と演者と一緒に改善を重ねて進化していって、自分が乗り損ねたことを後悔しながら遠巻きに眺めるような素晴らしいコンテンツになってくれればいい。

それだけが今後のTokyo 7th シスターズと、それが創る新時代に自分が望むことである。