何故自分はラブライブサンシャインに心惹かれなかったのか
ラブライブサンシャインを見終わった。
そして最後まで見た結果、別にこの作品に対して自分が怒っているわけではないことがわかった。嫌っているというわけでもないことも。
作品としての出来や筋書きに大した不満があるわけでもない。いや、やっぱり多少はあるかもしれない。しかし、概ねないと言っていい、本当に。それが何かの理由になるほどの感情でないことは確かだ。
ある程度の納得すら得られたと言ってもいいくらいだろう。
そうだ、アニメを最後まで見ることで、ラブライブサンシャインとAqoursに対して自分は確かに理解と納得を得られた。
しかしその上で、また改めてハッキリと理解(わか)った。
自分はこの作品とユニットにどうにもアツくなれないし、これから先アツくなることもないのだろう、と。
何故だろうか。正直自分の中のそういう気持ちは自分自身きっちり原因が理解出来ているようでもあり、ひどくふわふわした曖昧なものであるようにも思える。
そこで、今回血反吐を吐くような思いでそれを自分の中から引きずり出して言語化し、纏めてみることでより深い納得を得たいと考えた。そのために、今これを書いている。
何より、この作品に対してモヤモヤしたスタンスを取り続けるのも疲れたので、正直ハッキリとそういうものを示しておきたくもあった。
自分はラブライブが好きだ。μ'sが大好きだ。人生の中の大切なものを結構な量捧げ尽くしたと断言出来る程には。
しかし、だからと言ってそのままサンシャインをも受け入れ、愛せるわけではないのだ。
もしこんな長文クソポエムに興味を抱き読んでくれている方がこの向こうにいるのならば、世の中にはそういう人間もいるのだということも理解していただきたい。
そして、そうなってしまった理由と原因も。
しかし、出来と話に概ね文句はないと言ってしまった。
それに嘘はない。やれる限りの結果は尽くした作品だっただろう。
では一体何が自分の心の中で引っ掛かっているのだろうか。
正直、原因は自分でも既にわかっている。それはアニメが始まってすぐにわかったし、もしかしたらそれ以前から薄々感じていたことでもあった。
自分がサンシャインにアツくなれない一番の原因、それはこの作品がウソをついている作品だからである。
サンシャインはウソをついている。
いや、正確には『自分達が現実的に置かれている状況と作品内で描かれている立場に大きな乖離が生じている』と言った方がより正確だろう。
それを指してウソをついているとは少し強すぎる表現かもしれないが、ある種の真実ではあるので敢えてこの言葉を使わせてもらう。
ではそれはどういったウソなのかと言うと、別にそれは何ら複雑なことはない、拗れてもいないし、悪辣というわけでもない、内容は至ってシンプルだ。
上に一度書いた言葉で全て表されているが、よりわかりやすく言うならこうなる。
つまり、『サンシャインという作品――あるいはAqoursというユニットは現実において数万人規模のファン層を抱える圧倒的大人気アイドルグループでありながら、物語の中においては単なる片田舎の駆け出しスクールアイドルとして描かれており、両者の間には大きな隔たりが生じている』ということである。
それこそがサンシャインのついているウソであり、自分がサンシャインについてどうにも引っ掛かりを感じる原因であり、全ての問題における結論でもある。
では、一体それのどこが問題で、何故自分にとって全ての原因となり、自分の中のサンシャインへの印象に暗い影を落としているのか、以下から順を追って説明していこう。
とはいえ、それについて説明出来ることなど本当に言葉少なく済んでしまうのだ。
だってそうではないだろうか? 本当は全員が理解しているのではないのか?
現実には彼女達は映画は興行収入28億、関連映像メディアの売上は数えるのも馬鹿らしく、数十万人を動員するようなライブを行えるようなコンテンツ。
その正統なる続編として、前作が築き上げてきたそんな基盤をそっくりそのまま受け継いでいる。
そんなユニットなのだ。そういうユニットのはずなのだ。
しかし、アニメや誌面の向こうの彼女達はまるでそんなことはなかったかのように駆け出しで、何も持たない新人アイドルのように振る舞っている。
自分にはこの両方の間に存在するギャップがどうしても受け入れがたかった。
現実と物語の差異が余りにも大きすぎるように思えたのだ。
いや、しかし、それを言うとそもそも何故現実と物語を混同して見ているのだという指摘が飛んでくるかもしれない。
「フィクションとリアルが同じじゃないのがイヤ!」とか、正直自分で今書いてても(頭大丈夫かこの人……)と思わないこともないほど荒唐無稽な論であることはわかっている。
だけれども、だ。
だけれども、その荒唐無稽をやってのけたからこそラブライブとμ'sはあの場所まで登り詰めることが出来たのではないのか。
勿論あんなものは一回こっきりの奇跡でしかないし、一度しか成し得ないことであるのはわかっている。
全く同じことはどんなユニットにも出来ないし、最初からしようと望むべきではないだろう。
しかしだからこそ、サンシャインとAqoursにはそんな自分達の置かれた特殊な状況、殆ど逆境と言っていいほどのものを自分は正直に描いて欲しかった。
逆にそんな環境や出自を利用して力に変えて、μ'sでも描けなかったAqours独自の物語を描けたはずだし、それをこそ期待していたのだ。
だが、現実は片方、二次元の方が現実に対して背いてしまった。
両方の描いていく物語が重なってこそ初めて奇跡が起こる可能性が出てくるのに、片方がウソをついてしまったらそれは達成されないだろう。
μ'sとは違う立場としてμ'sと同じ手法を用いないためとも言えるかもしれないが、その結果が一方をウソにしてしまうことというのなら、それはむしろ退化なのではないかと個人的には思うくらいである。
無論、そうしたラブライブとμ'sの手法こそが至高というわけでは勿論なく、全てがフィクションだと理解した上で楽しむ、楽しめる作品も数多く存在している。というよりは、むしろそっちの方が基本であろう。
先達であるアイドルマスターや同期であるアイカツなどはそういったあくまでもフィクションの中の世界を楽しむ作品である。
そういう作品達とこれからは同じやり方でやっていき、同じ土俵に立つことにしたと本気で言うのならば別にそれについては文句はない。
しかし、実際はどうだろうか、どうにも中途半端に以前からのラブライブとしての手法にも引き摺られてしまっており、どっちつかずなことになっているように個人的には思えるのだ。
それをやるならば徹底的にAqoursとしてやればよかった、いややるべきなのに、半端にμ'sと同じ軌跡を辿らせようとしているせいでどうもチグハグなことになっている気がする。
そして、そうなっている原因もなんとなく理解出来るような気もするのだ。
結局のところ要はアイドルものとして一番美しくておいしいパターンがその『何もないところから始めて、全力で走る』というものなので、失敗を許されない立場的にもそこから外れた新しい物語というものを描くという博打が打てなかったのではないだろうか。
あるいはラブライブとμ'sが作り上げてきたそんな物語が最早伝統と化していて、それに一番囚われてしまっているというのもあるかもしれない。
いずれにせよサンシャインのアニメにはシリーズとしての伝統や形のない御約束から本当は脱却したいと願いつつも、結局それに囚われざるをえないというパラドックスが全体に漂っていた。
そして、作中でサンシャインとAqoursが唯一叫ぶことの出来た自分達の真実こそがそれを最もよく表している。
私達は0だ。私達はまだ何も築き上げられていない0だから、1になりたい。
自分にとって完全なフィクションの中で唯一、現実と重なって見えた主張はそこだった。
μ'sと同じじゃない、μ'sとは違う、Aqoursとして私達は見られたい。
クライマックスに掲げられたそのテーマからは、そんな悲痛なほどの叫びが聴こえてくるようだった。
『0から1になりたい』というよりはむしろ、『自分達が0だということを認めてほしい』と叫んでいるようにすら感じた。
……確かにその主張には納得も理解も出来た。それこそ一つのAqoursの真実なのだろう。
だけど、それをよりにもよってμ'sが築いて、μ'sが遺していった基盤の上に立ちながら叫ぶのか。
無理なのだ。結局どうしたってそこは曲げられないのである。
μ'sと同じじゃダメなのだというのはわかる。
μ'sと違う自分達にならなくてはいけないということも、様々な重圧の中で感じていることだろう。
しかし、逆説的にはその時点ですでにμ'sと違う存在になることが出来ている、あるいはなってしまっているのじゃないのだろうか。
桁外れの基盤を引き継いでしまった上でどうしていくのか、どう藻掻いていくのかという姿の真実こそが彼女達のオリジナルスターだと自分は思っていた。
そんな中で、その事実に蓋をして覆い隠してしまい、そこから逃げ出すことで自分達になりたいと願う。
それもまた一つの方法であり、選ぶことの出来る道ではある。
しかし、結局は完全に逃げ出せてなどいない。抜け出せてなどいないのだ。
どれだけ否定したとしても、Aqoursは本当のゼロから走り出しているわけでも、走り出せるわけでもないのだ。
この規模の基盤の上に立ちながら、自分達には何もないと叫ぶのはハッキリ言って茶番だ。
他の同類に対して失礼ですらあると言える。
例えそうした欺きの上にゼロである自分達になったとしても、その上で目指す恐らくの理想像、理想のルートがμ'sのそれと大差ないと思われるのはあんまりにもあんまりではないだろうか。
元々AqoursにはAqoursだけの、まだ誰も走ったことのないルートを走れる権利と環境があった。
だが今回のアニメは結局それを全て捨て去って、μ'sが歩いてきた道をまたそのまま辿ると宣言したようなものではないだろうか。
μ'sになっちゃいけないと呪文のように唱えながらも前作の築いたスタイルにがんじがらめに縛られている様は喜劇を通り越していっそ悲劇的ですらあった。
そう考えみると、Aqoursが自ら築き上げられたものは何もなく、ゼロであるというのは確かに真実であろう。
そしてここから、今から、0から1になりたいという叫びの悲痛さも理解出来るところではある。
だが、そう叫びながらも結局そのフォーマットに乗り続けているのならば、それは真実ではなく単なるパラドックスでしかないのだ。
Aqoursが本当にただのAqoursとして見られたいのならば、本当のゼロから走り始めたいと願うのならば。
それならば何故、ラブライブという名前をつけてしまったのだ。
それは単なる肩書きに過ぎないなどという言い訳は通用しない。
六年をかけて築き上げられたパターンをそのまま踏襲し、その基盤の上にしっかりと乗りながら、それでもそれをなかったことにしてゼロからの存在として応援してくれというのは、ハッキリ言おうただのウソだ、ウソっぱちでしかない。
たとえ全てに目をつぶりそれに乗ってみたところで、結局その存在が辿る道と見ていく景色は以前のそれと恐らく大して変わりがないのである。
というよりは、あらゆる誰かが逸れようとする度に何度も舵を切り直してそのルートを辿らせようとするのだろう。
そうしてたとえ形だけは同じでも、明らかなウソが混ざって歪になってしまったその景色をどうして再び見たいと願うだろうか。
それをして結局、致命的な"ウソ"が根底にある作品ということであり、自分がサンシャインとAqoursにアツくなれない恐らく一番の理由であるのだ。
さて、ここまで散々にサンシャインとAqoursを悪し様に罵ってきてはしまったが、じゃあ全ての責任が彼女達にあるのかというと必ずしもそういうわけではない。
それなら誰が一番悪いのだろうか? 誰のせいでサンシャインとAqoursはそうなってしまったのか?
実はアツくなれないその原因がわかった後で、さらにそうなってしまった元凶を考え続けていると、これはどうも結局ラブライブとμ'sのせいなのではないだろうかという結論にどうしても辿り着いてしまうのだ。
Aqoursがμ'sの作り上げた基盤を引き継ぎ、維持するための存在であるという切り離しきれない自分達の真実を、真っ当で綺麗な物語にするためには結局のところμ'sの協力、あるいは御墨付きを与えるような何かが必要不可欠だった。
実際Aqoursはアイマスやアイカツにおいて描かれたような輝きのバトンを繋ぐ物語においてこそ、最も自分達の魅力を発揮出来るように作られた存在であるのだ。
しかし、そんなアイドルもの恒例の輝きの継承をμ'sは劇場版――あるいは自分達の終わりにおいて断固として拒否してしまった。
それは今までのアイドルもので誰もなし得なかった新しい形であり、また素晴らしい思想だったと個人的には信じているのだが、結局ことAqoursにおいては自分達の存在を歪めさせる原因となってしまったのではないかと今にして思う。
μ'sは、自分達の築き上げたものを誰にも受け継がせることなくこの世を去ることに決めた。
というよりは、その築き上げたものを己の地位ではなくスクールアイドルという存在全ての向上に転換させて、それが正しく伝わることを願って幕を引いた。
そんな物語の後で、それはそれとして次はこの子達が作品の名前を背負って活動しますので、と言われても「いやちょっと待ってくださいよ」とならざるをえないだろう。
後継者を指名しなかったからこその美しさの後で、明言はせずとも実質的後継者が存在してしまったら、それは矛盾としか言いようがない。
構造的な歪みだ。ウソである。
つまり、サンシャインとAqoursのウソはそこから始まってしまっていると言っていいだろう。
その上で更に不幸なことは、サンシャインとAqoursが恐らくそんなμ'sの描いた理想を誰よりも理解しており、尊重しようとしてくれていることであろう。
その輝きは誰しもに平等に配られた、だからこそ自分達は後継者を名乗らないし名乗れない。独立した存在であるべきだ。
不自然なほど互いに触れ合わない現実でのμ'sメンバーとAqoursメンバーというのも、そんなラブライブが描き出した理念を守るための努力なのだろう。
その意味では、サンシャインとAqoursに関わる全ての人間は最大級の努力をしてくれていた。
最後まで見ることでアニメ本編に対してもそう感じることが出来た。
同じものを守ろうとしてくれていたことは、本当に感謝して然るべきだろう。
そして全てがフィクションの中のものとして許される世界であったなら、サンシャインとAqoursは続編としてこの上なく正しく、美しいものだっただろう。
しかしもう一つ重ねて不幸なことに、同じ名前を抱く以上この作品はラブライブとしての特色をも果たさなければならなかった。
則ち、現実でのユニットもまた物語の中のユニットと歩みを同じくするというものである。
だが、現実では物語と同じくまっさらな駆け出しであることも、輝きを継がない独自の存在であることも許されない。
許されないし、なれるはずもなかった。
何もない場所から駆け上がろうとする物語の方のAqoursに対して、現実の方は結局駆け上がりきった後のレールを維持するAqoursなのだ。
そうしてここに致命的なウソがどうしても発生してしまうのだ。
けれど、そんなものは結局作品を楽しむ上では全く大した欠点ではないのかもしれない。
大多数の人にとってもそのはずだ。それはわかる。
だけど自分が大好きなアイドルは、大好きだったアイドルは、大好きだった作品は、二次元の向こうの存在と現実でのこちらの存在が手を取り交わっていたからこそ好きだったのだ。
真実と虚構の境界が混ざって曖昧になったその中で、一緒に一時の夢を見ることが出来たからこそ好きだったのだ。
そして、それはやはりどちらかが片方に対して明確なウソをついてしまっていては成り立たない類いの奇跡なのだ。
それなのに、その幻影にすがるように無理矢理それを目指そうとするところを見ると、やはりどうしようもなく冷めてしまうのだ。
Aqoursには、真実のAqoursとしてそうすることの出来るきっと理想的な形があった。
だがそうさせなかったのは他でもないμ'sだ。
μ'sが自分達の理想を実現させたがために、そのツケを全部Aqoursが被ることになったのだ。
どうにも、何度考えてもそういう結論に至ってしまう。そして恐らくそれは何より正しい。
そして、正しいが故に、人間の小さい自分にはどうしても認め難いものがあった。
自分はμ'sが終わり際に描いたあの理想を何よりも美しいと思ってしまった。
そして、そうすることの出来たμ'sが大好きだった。
しかし、それが結局はサンシャインとAqoursという存在に尻拭いを押しつけたが故のものだと自覚することはあまりにも残酷すぎた。
自分はとどのつまりそんなAqoursを生け贄として捧げる行為に自ら荷担した上での感動にどっしりと身を置いていたわけなのである。
それを思うと非常に心苦しくある。
罪悪感も責任感も重すぎるほどに覚えてしまう。
そんな理由から、Aqoursを真っ直ぐ見ることが出来なくなってしまっている自分というのもいるのだ。
しかし、そうは言ってもそれは流石に自分の考えすぎや思い詰めすぎという側面の方が多分にあるだろう。
サンシャインとAqoursにしても、これまでのアイドルものの類型としての輝きの継承というストーリーが本当に彼女達にとって理想的な形だったのかも誰にもわからないところではある。
また、ウソがあるからといってじゃあ今の形が美しくないのかというとそんなわけは勿論ない。
そして、必ずしも物語の中と現実との二つのAqoursの間にウソしか存在していないというわけでもない。
その最たるものが、クライマックス付近に持ち上がった作品テーマとしての『0から1へ』なのである。
きっと様々な重圧やしがらみ、制約を背に、それでもその一つだけは中と外で重ねて進んでいく物語なのだろう。
大きすぎる何かの去った後で、必死に藻掻く者達の物語。
それがサンシャインとAqoursなのかもしれないと、アニメを最後まで見てから色々考え続けてようやくそういう結論に至ることが出来た。
そして、それもまたラブライブとμ'sのそれとは違う、彼女達のオリジナルスターとして面白く思えるようになっていくのかもしれない。
いずれにせよ、頑張って欲しいと思うことは確かである。
しかし、そうは思えても、結局自分にとってどこまでいってもその感情は同情からのそれでしかないのだ。
今では本当に、サンシャインとAqoursが嫌いなわけではない。
かといって、やはり心からアツくもなれないのだ。
苦境や逆境に立たされる中で健気に頑張る姿に同情はすれども、心を掴まれ、魅了されての応援という段階には至れなかった。
そして、同情だけでしかない応援を理由に入れ込むことは、確実にどちらにも悪い結果をしか残さないだろう。
だからこそ、もう静かに手を引く。
アニメの放映中はさんざっぱら振り回されダークサイドに堕ちかけたりもしたが、ようやくまたこの結論に戻ってくることが出来た。
ラブライブサンシャイン、今こそ言おう……アニメ面白かったし好きだったよ。本当に。
だからこそ、身を引いてクールに去るぜ。
これからサンシャインとAqoursの歩いていく道が何かの1となれることを本当に願っている。
その輝きを遠くから眺められる日が来ることを祈って、年に二枚くらいのハガキならキャッチするくらいの距離で過ごそう。
それがようやく辿り着けた、サンシャインへの自分の立ち位置である。
つまり一言で纏めると『クソめんどくせえオタクがごちゃごちゃ絡んできたけど何か勝手に納得して立ち去っていった』ということになる。
それでいい。それでよかったのだ。
そういうことにしておいて欲しい。