Tokyo 7th シスターズは本当にアイドルの新時代を創れるのか?
大仰なタイトルをつけてありますが、殆ど先日参加したTokyo 7th シスターズのライブに対する批評と愚痴になっております。あと少しゲームについても。
内容もアイドルという幻想にすがるしか生きる術のない男のみっともない妄執と、Tokyo 7th シスターズの行く末を真に憂う者である!みたいな感じの文言で構成されているので、(大半の人がそうだとは思いますが)アウトだと感じたらこの時点で読むことはオススメしません。
そもそも全部で2万2000文字あります。自分でも何でそんなに書いたのかわかりません。
狂人の書いた2万文字超の妄執を笑ってやりたい、そんな人が読んでください。
あと時間がない人やそんなに読めるかという人は最後のまとめだけ読んでも大体わかります。
序論
結論というより総評としては「いい”イベント”だった」のである。
少なくとも自分などよりも(大半の人がそうであるが)ナナシスのことを知っていて、ナナシスのことが好きな人達、ファン、支配人の皆が楽しかった、素晴らしかったと感じているならその時点でもうそれはいいものなのだ。
作品への知識量、入れ込み具合、好感度がそれ以下の人間が外野から(参加しているから半分内野みたいなものではあるが)ゴチャゴチャ言うことなど何もないのだ。自分自身も自分が入れ込んでいる作品でそんなことを積極的にされたいなどとは微塵も思わない。
無論イベント自体も大きな破綻もトラブルもなく、滞りなくきっちりと盛り上がって終わったということが前提でもある。その点でも一々細かいことをあげつらって水を差すほどのことは大してはなかった。
だからTokyo 7th シスターズのイベントはいいものだった。事実はそれだけでいい。
他に言うことは何もない。終わり。
と、まあ、そういう風に全てを割り切れるほど心が清らかならば今こうして筆を取っていないし、そもそもライブに参加などしていないのである。
無論ナナシスが好きな人からすれば傍迷惑もいいところだし、テメーなんかに言われたくねーんだよボケが!という気持ちになることだろう。その点本当に心苦しいし、自分が盛り上がっている場にわざわざアイスバケツを持って浴びせに突貫していくようなクソ野郎であることは重々自覚している。自覚していることを免罪符にするつもりも開き直るつもりもないので、ひたすら罵り蔑み晒し上げてくれても構わない。全ての反感を甘んじて受け入れる所存ではある。
だがそれでも言いたいことがある。あるのだ。
以下に記すのは一人の狂人のどこまでも個人的で主観的な偏見にまみれた、信頼性などは欠片もない雑言であるということで、内容の是非はどちらでもいいがそこだけをご理解賜りたい。
その1:ゲームとしての「Tokyo 7th シスターズ」について
元々自分はナナシスのゲーム自体にどうも、苦手を感じていた。
ゲームとしてのシステムどうこうとかではなく、キャラデザとか、設定とか、シナリオとかを諸々を引っくるめた作品全体の雰囲気みたいなものに、である。
それを「嫌いだ」とか「受け入れがたい」とまでは言わないが、「なんか苦手だなぁ」くらいのレベルに感じていた。
何故かはよくわからないし、単純に個人の好みと言われればそれまでの話である。それでも分析して言語化してみるならば、それはどことなく「鼻につくオシャレさ」が原因であるように思われた。
とにかくナナシスはスマートだった。
初期も初期から世界観やキャラの作り込みなどがきっちりしていて完成形に近く、無駄なところが少なかった。
作品全体の雰囲気がそうであった。
リリースから一年以上経つが、一度ゲームシステムを大幅に改新した以外に中身はそれほど最初から変化はしていないのではないだろうか。
堅固な砦のように、FSSでいうところのエンゲージのように全てのパーツが無駄なく組み合わさって、完成した存在としてナナシスは生まれ落ちた。かのように自分には見えた。今もそう感じている。
ナナシスは優等生だ。そつがない。近未来を舞台とした作品全体のデザインは無駄のない流線型を思わせ、ひたすらにオシャレだ。
他に惑わされない自分を持って、二次元アイドルという市場において全く独自の世界観を売り出してきた。
素晴らしいことである。中々出来るものではない。本当にそう思う。
他者に惑わされないということは、他者からの影響も受けず、また存在を意識することもないということでもある。他と比べてどうこうという寄り道などする気は全くなく、本当に自分の最初に決めた道を一歩も外れることなく歩いてここまで来た。ように自分には見えている。
あまりにも強固な自我である。一種のナルシシズムすら感じる。いや、それは確かに存在するのだ。
そう、ナナシスには全体的に制作側の強烈なナルシシズムが漂っていた。
これはあくまで個人的な見解であるし、マイナス的な意味だけを含むものではないことをご理解いただきたい。
無論コンテンツを立ち上げるにあたっては他の先人達を研究、分析し尽くして影響を受けたり意識したりはしたことだろう。だがそうした試行錯誤の果てに完成させてリリースまで漕ぎ着けたナナシスは、その後全く情勢に左右されたことがないと言うべきか、思い描いた道から全く外れたことがないと言うべきか、とにかく予想外の挙動をしていないのではないだろうか。
制作者が思い描いた理想を正確に反映させて実現させるためのツール。それがナナシスなのでは? とまで自分は思った。
それをしてナナシスのナルシシズムであり、そこから感じるのが「鼻につくオシャレさ」ではないかという話なのである。
自分達がスマートで洗練されていることを自分で理解しているが故の、である。
だからと言って、そんなものがナナシス本編の面白さに影響を及ぼすのかというとそんなことは殆どないわけなのである。
結局そこをどう思うか、感じるか、気づくかなどは個人の嗜好に収束していく。
要は料理にパクチーが入っているか入っていないか、パクチーが好きか苦手か程度の問題ではあるのだ。パクチー一つで料理の味が大きく左右される訳はない。
完成された近未来的でスマートなイメージは確かにユーザーを惹きつけ、ポップでキュートなキャラクター達は人気を得て、かっちりしたストーリーは好評を博している。好きな人は好きなのだ。当たり前の話だ。
自分もパクチーどうも苦手だわと思いつつも、料理自体は美味しく、興味深くいただかせてもらっている。ゲームはそれなりに進めたし、感心する部分も多かった。アルバムは発売日に購入させてもらったし、気に入っている楽曲もたくさんある。カジカちゃんは可愛いし、定期的に「晴海サワラ 流出」でグーグル検索している。最近は知名度もうなぎ登りで、確かな盛り上がり、ブームの兆しを感じる日々である。
だからこそ、その初めてのライブに期待を抱いた。
アイドルの新時代を作ると作品内外で喧伝するナナシスである。これを機に何かが一皮剥けて、自分の抱いているわだかまりも何もかもを超えた場所を見られるのではないだろうか……、と。
まあ、それが見えたのならばこんなことを書いてはいない。前置きばかりがクソ長くなったが、以降からようやく今回のライブに対する自分の胸の内である。
その2:ライブとしてのTokyo 7th シスターズの問題
前項において自分の感じた「鼻につくオシャレさ」や「制作者のナルシシズム」はナナシス本編の面白さにはそれほど関係ないと書いたが、少しだけ訂正させてもらう。
本編の面白さには確かに関係しないかもしれないが、作品をこれから広める上でこの小さなトゲはもしかすると致命的なところに食い込むのではないだろうか。
そう感じた原因こそが今回のライブである。
結論から言って、今回のライブに参加することで自分はこのトゲすら気にならなくなった場所に行けるということはなく、むしろこのトゲの存在ばかりが随所で目に入ることで目の前で展開される空間に入り込めないという結果に終わってしまった。
楽しめなかったとは言わない、むしろしっかり楽しんだ方だろう。ただ、これまでに参加した別の素晴らしいライブの数々で感じたことのある、楽しさを超えた先へ行くことはどうしても出来なかった。そこに到達するのが果たして良いのか悪いのか、自分だけなのかそうじゃないのかはまた長くなる話なので後で述べることとして、結局その風俗行ったけどイケずにフィニッシュみたいなことになった元凶を探ると間違いなくそのトゲに行き着くのだ。
ナナシスライブは、ライブではなかった。
一から十まで制作者のナルシシズムに基づいた理想を実現するために作られたイベントだった。
言い方は悪いが、いやまあどうしてもここだけは悪く言ってしまうのだが、そういうものであったのだ。
断っておきたいのだが、今回演者には全く一欠片の非もない。パフォーマンスそれ自体にでもある。
自分が違和感を覚えたこと、不満に思ったこと、やるせなさすら感じたことの全てはこのイベントの演出や構成、演者への指示にある。
そしてそれを考案した不特定多数の作り手、いやもうそこまで広く叩きたくないので少数の思惑、どころか誰か一人の黒幕がいるものと勝手に推測してそいつに向けて文句をぶつけていきたい。
このライブのために積まれた努力と当日必死に動いていた全ての人の働きに悪いところは一切ない。
ただ悪いのは上層部の構想と指示なのだ。
そうであって欲しい。
そして、そう、「演出・構成・指示」である。
今回のイベントの悪い部分は全てここに集約されている。
もちろん先の「オシャレさ」と「ナルシシズム」も全てここから滲み出ている。
今から行うのは醜い悪意に基づいた全くの邪推であるのだが、このイベントの制作者は今回においてもナナシスゲーム本体のように最初から完璧なエンターテインメントを目指したのではないだろうか。
元々ナナシスの制作者はどことなく完璧主義者的な雰囲気を纏っているなぁ、と個人的には思っていた。そして今回もその完璧主義に見合うところの隙のないライブを作ろうとしたのではないだろうか。
自分の理想通りのライブ。
だが、それは失敗しているぞ、と。
本人から見てどうなのか、思い入れのあるファンから見てどうなのかは知らない。だけど自分だけはこう感じたし、言いたい。
今回の”ライブ”は貴方の理想とする完璧には程遠いお粗末さであった、と。
恐らく、今回のために色々と先達のコンテンツが行ってきたライブを研究し、参考にしたところは多かったと思われる。
そして「ウチもこういうのがやりたいね」ではなく、「ウチでもこういうのはやれる」と考えたのではないだろうか。
その上で、そんな先人達の行いの成功したところなり素晴らしいと思うところをピックアップし、独自のアレンジを加えた上でとにかく考えなしに今回のライブに詰め込んだのではないだろうか。
それが行われている本質的な意図や、それが発生した背景などをよく知ろうともせずに、上っ面だけをなぞろうとしたのではないだろうか。
とにかく、悪意と共にそう思ってしまうような部分が、今回の”イベント”の随所に存在していたのである。
その3:キャストMCにおける問題点
その一つがキャストMCである。
二次元と三次元の融合、というのはこういう二次元アイドルコンテンツのライブを現実でやるにあたって実に重要なポイントであることはわかっている。
そこら辺のことは先達のコンテンツを参考にしたのも理解出来る。
というか、今のこういうコンテンツのライブの新しい雛形を作ったのは某ライブなので以降特筆しない限りはこの某ライブの方のものと対比させていると思って欲しい。某ライブの方が比べた時により優れているとかそういうことではなくとにかく本当に原型と派生の関係にあるので語る場合に避けて通れないだけである。
話を戻そう、だからキャラと声優のシンクロ率を上げるために実際キャラのセリフや持ちネタなんかをちょろっと担当声優がやって見せて、二次元と三次元の境界を曖昧にするわけである。そこまではいい。
だが今回のナナシスの場合は明らかに行き過ぎであった。
与えられたMCの時間、最初の777シスターズの自己紹介を例に取ってみると、一人が自己紹介するにあたって話すネタの内容はキャラなりきりパートが三分の二を占め、残り三分の一が担当声優個人の挨拶なのである。
これはいくら何でも配分ミスだ。
しかも777シスターズは12人いる。ジャーマネのコニーさんを入れて13人である。
その13人が殆どなりきりコントを自己紹介で延々やるのである。もう何が何だかわからない。
さっきは二次元と三次元の境界を曖昧にすると言ったが、それはやはり現実に存在する演者である声優達がいて、その生きて動いている姿の向こうに担当するキャラと重なるのを垣間見るものなのだ。
普通に話したり、動いたりした時の仕草や、パフォーマンスそれ自体の向こうにある一瞬をもってして「俺、○○ちゃんが見えた!」というトチ狂った幻想を発生させるのである。
最初から演じたまま来られるのは違うのだ。
それでは舞台の上にいるのが担当キャラとは名前も人格も違う一人の人間なのか、痛いキャラなりきりの人なのかわからないのだ。そういう境界の曖昧さを見たい訳ではないのだ。
名前も人格も違う個人が一瞬だけ見せる奇跡を目撃したいのである。
そして、このMCはここだけに限らず全編通してこうなのである。
12人程度ならその三分の一の個人パートをかき集められるかもしれないが、出演人数は総勢21人もいる。だから担当しているキャラの寸劇以外は、どの人がどんな性格をしていてどんな気持ちでここにいるのかまるでわからない。人によってはMCすらなしで歌って退場という場合もあった。
ふざけるなと言いたい。何を考えとるんだと言いたい。
声優達が恐山で修行したイタコでもない限り、恐らくこのふざけた寸劇の殆どはアドリブではなく制作側が事前に内容を考案してこれを演じる旨指示したものであろう。何がしたいんだと言う他ない。
自分はライブを見に来たのであって決してミュージカルを見に来たわけではないのだ。いや、むしろミュージカルをやるつもりならば最初からカッチリとキャラのコスプレをして芯の通った演技をし、メリハリのついたシナリオで二次元の世界を三次元に再現するはずである。けれどそんな域にはまるで達していない、ミュージカルと表現するなら本当にしっかりやっているミュージカルに対して失礼千万もいいところのミュージカルもどきなのである。
マジで、重ねてマジでそんなものを見に行ったわけではない。
それがライブに本当に必要なことならば我慢もしよう、受け入れもしよう。そうでないのは、ミュージカルにもなっていない原因はその寸劇がライブに入り込むことに対して何ら寄与していないからである。何か連続性のあるストーリーを表現しているわけでもない、ただの自己紹介、キャラがそこにいるということを示すためだけのものなのである。加えて内容も大して面白くもないのだ。
書いてて泣きたくなってきた。
何で、どうして、その時間をもっと短くして演者各人に自分達の言葉を語らせてくれなかったのだ。それこそがライブで一番大事なところなのに。
キャラクターだけが見たいのなら、別にこんなところに来ないでモニターに向かって己の性器を振り回すだけで満足出来るのである。
そうじゃないものが見たいから、そうじゃないものを見られると期待したからここまで来ているのだ。
本当に制作者はそこをしっかり理解しているのだろうか?
某ライブのコールアンドレスポンスの上っ面だけしか見ていないのでは?
ひたすらに疑問が尽きない。
その4:尺の取り方における問題点
第二の問題点は尺の使い方であった。
一つ目でキャスト自身のMCが極端に少なかったことを批判したのだが、それは別にMCが短かったというわけではない。
むしろMCは長かった。アホみたいに長かったのである。
そしてそれは全く必要性のない長さだったのだ。
最たるものがNI+CORAのそれである。777シスターズが歌い終わり、自己紹介を終えた後の各ユニットが歌っていくコーナーのトップバッターが彼女達であった。
曲のイントロと共に登場して一曲歌い、そこからMCパートへ移行、その流れまでは良かった。
ここからこの二人のMCが実に15分近く続く。
メンバー全員ならまだしもたった二人である。混乱でしかない。
内容も特にライブにあたってどうこうなどは触る程度で、後は殆どもう内容も覚えていないような妙ちきりんなトークが前述の如く微妙なキャラなりきりを交えて15分である。
ハッキリ言って唯々苦痛だった。
指定席ならまだしも、ぎゅうぎゅう詰めのオールスタンディングの会場である。
ずっと次の曲はまだかまだかと思いながら立たされ続けるのだ。
五分なら我慢もしよう、10分なら寛大な心で許しもしよう、しかし明らかにライブに不必要な内容を15分である。その15分すら正確に計ったわけではなく全てが終わった今あれは体感で20分はあったけどいくら何でもそんなはずはないから暫定的に15分にしているだけである。現地では永遠のように長かった。
トップバッターのNI+CORAが一番酷かったのだが、他のユニットのMCも大なり小なり似たようなものだったと思ってくれて構わないというか実際そうであった。
これは一体誰が悪いのか?
ライブに不慣れでトークを制御出来なかったキャスト達のせいか?
多少はそういう部分もあるかもしれないが、実際これも制作側が八割方悪い。
何故ならトークが長すぎるならば、タイムキーパー等の役割を持った人間が巻けだの終われだのを指示するはずなのである。
MCの内容にしたって、今回ポロリとキャストがこぼしたところによると内容の指示は事細かに制作側から出ていたようなのである。
つまり、今回のこの中身の殆どない伸びきったラーメンのようなMCはまさしく制作側が意図して仕掛けたものに他ならないのである。
おまっ……、お前ら……、もうこれから何回も言うけども何を、何を考えてそんなことをしやがった。
本当にライブMCの役割を理解しているのかと。
観客を楽しませるため?
楽しんでねーよ馬鹿か! 足は痛いわ内容は面白くないわハッキリ苦痛でしかなかったわ!
ぎゅうぎゅう詰めの会場で立ったまま見続ける観客のことを本当に考えていたのならばこんなことはしないだろう。
つまりはこれも制作者の自己満足的な演出に他ならないわけである。
そこら辺完全に履き違えているわけである。
では何が正解だったのか?
それも難しいところはあるのだ。MCの意味は人によって千差万別ではあるのだから。
だが今回のそれではないと自分は断言するし、取り敢えずではあるが個人的なMCの見解を述べさせてもらう。
まずは尺稼ぎとしての意味。歌っている本人なり、後続の演者なりを休ませるために行うMC。
しかしこれは必要以上に演者を休ませて、その分の負担を観客側へ押しつけるものでは決してない。
全力のパフォーマンスをした後で、息を切らしながらステージ裏へ戻り、急いで衣装を着替え化粧を直すその間が必要なことを知っているから、観客はそれを稼ぐための素人漫才のようなMCにも我慢して付き合うのだ。
かといって演ずる側もそれに甘えっぱなしではなく、観客の興奮を冷まさぬ最小単位の時間で準備をするために時には十分でない休息でもステージへ戻ってきてくれる、実際そうであることを期待しているから待つのである。
翻って、今回のナナシスのMCは何だ?
本当にその尺を観客に押しつけなければいけないほど余裕がなかったのか?
NI+CORAには活動限界時間を超えたら15分休まないといけないとかいう設定でもあったのか?
甚だ疑問である。
しかし、MCにはもう一つの意味としてライブに引き込むためのものというのもある。
時には歌うよりMCの方が面白いということもある。
しかし、それにしたって自分の話術の中へ、MC含めたライブの中へ引き込む腕があり、そのために行っているのである。
身も蓋もない話ではあるが、楽しければ、面白ければ許されることもある。ナナシスのそれも楽しいから、面白いからと許した人も多いかもしれない。
しかし、相応たる実力で、本当に観客を楽しませようと考えられたMCであり取られた時間だったのか。
その基準に照らすと、自分としてはそこも引っかかり続けている。
尺の使い方がアレだった部分はもう一つある。
ドラマCD垂れ流しパートである。
デフォルメされたキャラの絵を使って流すライブの幕間劇、これも発祥を某ライブに求めることが出来る演出である。
けれどここでも、その本質を理解することのない上っ面だけのコピーが発動してしまっていた。
別にドラマの内容の優劣どうこうというわけではなく、何のためにこのドラマCDパートを取るのかという話である。
某ライブの方はこれを尺稼ぎとライブに入り込ませるために行っている。
演者と観客双方に大きな休息が必要な部分で、大体三回に分けてそれぞれが10分ほどの尺で流される。
内容はグループのメンバーが今行っているライブに向けて、あるいはライブの途中の控え室でわちゃわちゃするものになっており、それを見ることで二次元の方のグループもこのライブにこうして関わっていることを知り、観客もよりライブの世界に入り込む。
これが大きく幕間ドラマパートをやる目的であろう。
今回ナナシスも先人に倣ってそれをやった。
”こっち側だけの尺稼ぎ”のために”ライブと何の関係もない”ドラマパートを”一切分割せずに”流すという最悪の形で、である。
かくして六つのユニットが各々持ち曲を披露していく途中の三つ目が終わった所という果たして本当にそこまでの長尺が必要だったのか不明である謎のポイントで突如として20分強のドラマパートが立ったままの観客達に対して一切の分割なく流されるという凶行が発生した。
それも777シスターズが河原でそれぞれの考えるBBQをするという、その時その場所において心の底から、心の底から、心の底からどうでもいい内容のドラマパートが、だ。
この行いの是非を深く語る必要はないだろう。
あっちがやっていたからこっちもやろう、それも何も考えずに安易に、観客のためではなく自分達の都合と満足のために。そんな邪推しか出来ないこの尺の使い方であった。
それでいて、ライブの総時間は17時に始まり20時30分くらいに終わるという実に三時間半もの長丁場である。
中を覗けばそれに見合うボリュームはなく間延びしたスカスカの構成がライブにのめり込む意識をことごとく挫いてくれる素敵なものに仕上がっていた。
そう、ライブに入り込めなかった原因の一つは確かにこの間延びした、曲を聴いてパフォーマンスを見てそこで上がったボルテージに一々冷や水をぶっかけてくれるような構成に存在していた。
その5:パフォーマンスの問題点
三つ目はどこかで見たようなレベルから脱しきれないパフォーマンスにあった。
ここら辺は個人の好みや尺度に基づく優劣の付け方に関わってくるのであまり声を大きくして言いたくはないのだが、敢えて言おう。
だからこれは絶対的なものではまるでなく、あくまで本当に個人的な評価として聞き流して欲しい。
さて、その肝心なナナシスのライブパフォーマンスだが、他と比べてそれ程優れているわけではなかった。
しかし、それはそれで全然構わないのである。
本職のアイドルではないし、これが初めてのライブなのだから。
そんなことは当たり前だし、そんなことを乗り越える何かで観客は惹きつけられるのである。
その何かとは例えば演者の熱であり、腸(はらわた)であり、命そのものであったりする。
拙い踊りだろうが汗をかき全力で、振りを間違えても一心不乱に打ち込み、下手な歌でも顔を真っ赤にし息を切らせて声を枯れさせながら叫ぶ。涙をこらえて、時には我慢できずに流しながらも自分の思いを観客に向かって語りかける。
そんなアイドルの生きている姿に、自分の全力をぶつけてくる命の輝きに心を打たれるから、その熱に感染するから何でもない、欠点だらけかもしれないパフォーマンスにも酔いしれ、次に繋がる可能性を感じるのである。
あるいは単純に努力した、頑張ったなどの言葉では言い表せないようなパフォーマンスの凄絶さ。その為に積んできた汗と練習の量。本職でないものを本職並に仕上げるために重ねられた狂気。
アイドルとしてパフォーマンスを行う者は言葉にしない、言葉に出来ない自分という個人の背景をステージ上での全ての行動で見せる。自分の腹を切り裂いて腸(はらわた)を見せつける。
その姿に圧倒され、言葉を失い、涙すら流すのである。
しかし、そこでナナシスには困ったことが発生する。
その何かが、どうもぼんやり覆い隠されているのである。
それはキャラを演じさせたままで個人を感じさせないMCのせいであったり、過剰なほど尺を取り曲と曲の間に十分に休養させるせいでどうにもお互い熱が上がりきらないせいであるかもしれない。
あるいはこんな言葉で片付けたくはないのだが、単純にナナシスは”本物”ではなかったのかもしれない。見た人を問答無用に熱狂させ、もっと、もっとこれを見たいという狂奔へ駆り立てるような力を持った本物ではなかった。
あるいは、自分がそんなことを思い込めるほどのレベルにナナシスへのめり込めていなかったのかもしれない。期待が過剰だったのかもしれない。ライブに入り込めていなかったからかもしれない。
原因はよくわからない。
ただ、好きな曲を聴けて盛り上がれて楽しいとは思えても、全てを忘れて飛び込みたいと思うほどの熱をナナシスのパフォーマンスに自分は感じられなかった。
あるいは感じられたかもしれないのを、上二つに書いたような理由で隠されてしまったように思った。
何よりどうも今回のライブを初めてのライブのように感じられなかった。
初めてで拙くても、失敗しても、一生懸命に輝こうとするライブであれば良かったのだ。
それが許されるのが1stライブなのである。
そこから始まる伝説を夢に見ていたのだ。
しかし、どうにも妙なところで上手くやろうとしているように見えてしまった。
最初から完璧を求めているように映ってしまった。
二回目、三回目で行くはずの到達点に最初から向かおうとしたせいで、どこか全体的にちぐはぐなところが生まれてしまっているように思えた。
その原因は後述する四つ目の悪かった点にもかかっているのだが、とにかくナナシス制作側はこういう部分にも初めから完璧を求めすぎるきらいが発動してしまったように思える。
アイドルとはある意味未完成のところにこそ最大の美しさが存在する。
成長していく可能性にこそファンは夢を見る。
そつのなさには感心出来ても、全てを捧げたくなる熱を感じることは出来ない。
本当にそこをわかっていたのだろうか。
その6:演出の問題点
さて四つ目、最後の悪い点は全体的に滑り気味のライブ演出にあった。
一つ最たる例を挙げよう。終盤に近いCocoro Majicalという曲の時の話である。
個人的に好きな曲なのでかなり楽しみにしていた。
777シスターズが並び、曲のイントロがかかり歌って踊り出す。自分もぐっと入り込む。
その瞬間である。
二階席の被さっていない前方の上側両サイドから巨大な風船ボールが客席へ降ってきた。
大きさは大玉転がしのそれをイメージして貰えるとわかりやすい。正確な数は覚えていないが、少なくとも五個以上はあっただろう。
自分は今回最後方で見ていた(とはいえ演者の動きもモニターも全然見える距離ではある)。
Cocoro Majicalに合わせて777シスターズが今日のために練習してきた踊りを踊っている。
自分は目をこらしてそれを見届けようとする。
その視線の先を大玉転がし大の風船がポンポコポンポコ前方の客に弾かれて舞っているわけである。
見えないのだ。大玉風船が舞っている隙間からしかシスターズの姿が見えないのだ。
時にはすっぽり演者の姿を覆い隠し、それどころかモニターで抜かれたショットにまでその風船が横切りブラックアウトさせるのだ。
自分は一体風船を見に来たのかシスターズを見に来たのかわからなくなるような光景がそこに広がっていた。
集中出来ないどころの話ではない。
何を考えてこんなことをやらかしたのか理解に苦しむ他なかった。
後方の迷惑だけならまだしも、前方ですら巨大な大玉風船が横切った時の視界の塞がれ方は相当なものだっただろう。時には自分の方へ降ってきた風船への対応でステージから目を離さなければならないこともあったかもしれない。
それどころかその風船は弾かれた方向によっては普通にステージまで飛んでいくのである。
必死に歌って踊っているキャストの所にである。
というより一度飛んでいった瞬間を目撃してしまった。
それでどうするのかというとダンスを中断して客席に弾き返しているのである。
客どころか演者にすら迷惑をかけるステージ演出を見たのは初めてであった。
重ねて言うが、本当に何を考えてこんなことをしでかしたのだろうか。
客席を舞う大玉風船という演出は、某ライブの5thライブでのそれが記憶には新しい。
だが状況はまったく違う。
向こうは3万人が入る大会場のアリーナ部分に限定して大玉風船を落としている。
数はメンバーの人数にちなんだ9個のみ、風船の跳ねる場所の広さは言うに及ばずである。
タイミングも、演者がメインステージで踊る曲ではなく、ゴンドラに乗って会場を一周する曲の時に合わせてある。
演者は会場中の観客に手を振って歌いながら、時には飛んできた風船を観客に向かって戻すように跳ね返す。
アリーナの観客はそうして風船を弾き弾かれされつつ、自分もライブに参加している気分をより強める。
外周部分の観客はそれらを俯瞰的に眺められるように配慮してあり、会場全体を使った大がかりなパフォーマンスを楽しむ。
それがこのような演出の意図であろう。基本的に大会場用のものなのだ。今回のナナシスのようにステージの固定された比較的小規模な会場で行うには適さないのである。
だのに、何故。
再三言うが、これも本質を理解せずに上っ面だけを掠めようとしたケースだったとしか考えられない。
客席に向かって何かしたいなら、この規模の会場ならば使い古された手ではあるが銀テープなり上から小さな風船をたくさん降らすなりすれば良かったのだ。
それも観客の集中を邪魔しない、動きの少ない曲の時を狙ってだ。
まあ、そういうことをちゃんと考えられるならこんなことにはなっていないので無駄な話ではあるが。
結局大玉風船は前方の客が渾身の力で出てきた方へ弾いて戻したり、ペンライトで牙突を繰り出して破裂させたりすることでようやく消失した。
一体これで誰に何をさせたかったのだろうか。
別の意味で泣ける演出ではある。
明確にダメだった演出はそれが最大のものであったが、他にも細かいものがこの後にも続く。
そうしたことがあった上で最後の曲であるKILL☆ER☆TUNE☆Rへとステージが進んだ時の話だ。
そこでキャストからのお願いが出された。「歌の一部分をみんなで合唱してください」というものであった。
別にそれ自体は構わない。全然構わない。
「みんなで歌おう!」なんてどこでもある形の演出である。
けれども何故だろう、自分はまるで「お前達はライブを成功させるためにここでこう動け」とでも指示されているように感じてしまった。
これは単に自分が捻くれているだけか? 歪んでいるせいか? 制作側への反感からくる邪推か?
確かにそうかもしれない。いや、実際そうだろう。
でもそこまでこの反感を、捻れた見方をさせる何かをここまでに積み上げてきたのは誰だ。
自分達の理想ばかりを追い求め、観客にそのツケを押しつけてきたのは誰だ。
確かにこの合唱が決まれば、さぞや美しい光景が広がるに違いない。
でもそれは誰の意図なのだろう。
今この場にいる誰の自発的意志から発生したものなのだろう。
誰にとっての美しい光景なのだろうか。
その時、その瞬間、自分の頭の中にはそんな考えばかりがぐるぐると巡っていた。
合唱はつつがなく実行され、ライブは一旦終了した。
確信を深めるに至ったのはその後であった。
お約束のアンコールタイムが始まるはずが、間髪を入れずにモニターで告知が始まったのだ。
ステージ上は暗いまま、モニターだけが明るく光っている。
キャストの誰も戻ってきていない中で、今後のナナシスの新たな動きを知らせる告知は終了してしまった。
そしてステージに光が戻る、すでに今日の出演者全員が並んでいた。
誰もアンコールを叫ばぬままアンコールタイムが始まってしまった。
出演者全員で並んで踊りながらStar☆Glitterを歌っていた。
そして途中あれだけ間延びした尺を取っていたはずが、最後だけは何故か全員の挨拶もそこそこに(というか全員でありがとうを言った以外になかった気がする)巻き気味でライブは終わってしまった。
そこで、何となく自分は気づいてしまった。
ああ、このライブの制作者は観客と何かをする気も、観客に自発的に何かをさせる気もないのだな、と。
観客のことを、自分達の思い描く理想のライブを実現させるための舞台装置の一つにしか思っていないのだな、と。
そしてそれは観客だけではなく演者もそうなのだろう。何故なら、そうでなくては説明がつかない。
どうして観客にアンコールを叫ばせてくれなかった。
そりゃ確かに形骸化した茶番的な側面はある。
どうせアンコールまでは公演の中に織り込み済みだし、音頭は目立ちたがりのアホが取ったりする。冷めた目でそれを見たり、早く出てきてくれと願ったりしている人もいるだろう。
だけど、全ての人が最初からそれを奪われていい道理はない。
自分だって真面目にアンコールを叫ぶ方ではない。時にはサボるし、早く出てきてよと思ったことだってある。
それでもアンコールを言いたくないと思ったことは一度もない。
それは素晴らしいステージを見せてくれた演者への、ある種の感謝と賞賛の形だからである。
もう一度と願うことが、舞台裏で控えている人達の心に何かを届けられるかもしれないと信じているから叫んでいるのである。
そりゃあ、都合のいい妄想ではある。気持ち悪い勝手な思い込みではある。
でも、それを信じているから観客は熱狂するのだ。
信じるために、自分を一時の空想へ入れ込むために叫ぶのだ。
告知の時間にしたってそうなのだ。
演者達と一緒に告知を見る。CD発売決定、アニメ化、次のライブの予定、内容は様々だ。
でも、どんなニュースだろうが要はそれを演者と一緒に見て、一緒に喜びたいのだ。
演者達自身がそのニュースに喜び、時には涙を流す様を見たいのだ。
そしてそれに対する言葉を聞きたいのだ。
それを見て、聞いた上で、ステージに向かって「おめでとう!」「良かったね!」と叫びたいのだ。
確かに茶番だよ。客観的に見ても、終わった後から思い返しても茶番ですよ。
だけど、その茶番を素晴らしくて美しい世界だと信じ込ませるのがアイドルであり、その世界を作るのがライブなのである。
別にただただ順番通りに流れていく音楽を黙って聴きたいだけなら家でプレイリストでも作って聴いているのである。
ただ垂れ流すだけの告知が見たいだけなら家で公式サイトでも眺めているのである。
そうじゃないから、そうじゃないものが見られるからこちとらライブに行ってるんだよ。少なくない額のお金と時間と体力を使って。
それなのに何だと言うのだこのライブの演出は。
観客の方を向かずにひたすら作る側が自分達だけで自分達だけが美しいと思うことを実現しようとしているだけで、観客へは届かずに全て上滑りしていっていた。
それでも、観客のボルテージが高ければ、熱に浮かされた頭があればこの演出を信じることも出来たかもしれない。
しかし、それだけの熱を、温度を今までのどこで与えてくれたのだろう。上がるかと思えば挫かれる、その点においては無駄に完成度の高かったこのライブで。
そもそも普通はこの演出も使って上げるものなのだから、それを他頼みにしていては本末転倒である。
とにかく、この制作側本位の自己満足的な演出の数々が、もうとにかく色々なものを醒めさせてくれた。
いくら考えても納得のいく擁護が思いつかない問題点であった。
その7:全てのまとめ
さて、こうして四つの大きな悪かった点を並べてみたわけであるが、最後にそれらをまとめて、本当に悪いのは何だったのか、運営なのか、それとも自分の頭なのか、今後ナナシスはどうするのか、どうなるのかということを考えていきたい。
では、よろしくないと思った点を今一度簡潔に書き出してみよう。
- キャスト本人ではなくキャラにMCをさせた部分が多かったこと。
- そのキャラとしてのMCがライブにおけるストーリー性などを持っていなかったこと。
- 尺の取り方が滅茶苦茶で、観客に負担をかけていたこと。
- 上記三つのせいで演者個人への愛着が湧いたりすることや、ライブに対する入れ込み具合とテンションが上がるのが妨げられたこと。
- そのせいでパフォーマンスにもいまいち輝きを感じられなかったこと。
- 観客の目線に立たない、滑ったステージ演出ばかりだったこと。
簡単に言えばこういうことになる。
では、それぞれが何故、何が良くないのかも簡単にまとめていこう。あくまで個人的なライブ観に基づいたものであるが。
まず1の点で良くないのは、キャラとキャストはどこまで行っても別のものであることを理解出来ていないことにある。
キャラのネタをやるのはあくまで必要最小限でいいのだ。
完全になりきるミュージカルでもやるつもりならば別だが、それをしないのであれば観客がライブ中主に見るのはキャスト個人の顔であり体であり人格なのである。
それはそのままでは二次元のキャラクターとは決して重ならない。当たり前の話である。
じゃあどうすれば重なるのかというと、キャストがパフォーマンス等を通じて放つ個人としての輝きの先にトランス状態の観客が一瞬二次元と重なる線を見出すだけなのである。
そのためにもキャスト個人の魅力や輝きをMCなどでアピールしていかなくてはならないのであるが、それを変に担当キャラのなりきりをさせるせいで覆い隠してしまっているわけである。
キャラクターショーを見に来ているわけではないのだ。
その日まで名前も知らなかった女の子が自分の中で好きなキャラと重なるアイドルになるかもしれない瞬間を見に行っているのだ。
そこを履き違えないで欲しかっただけなのである。
次に2の点の良くなかった部分。
実はここさえもっとしっかりしていたならば1の部分の失敗を取り返せていたかもしれないと思っている。
ストーリー性のある展開、つまり更にミュージカルやキャラクターショーに近づけるわけである。系統としては某ホームズのものがわかりやすい。
それならばそういうものとして受け入れることも出来ただろう。
しかし、そこも中途半端だった。
キャラなりきりMCの部分がライブの展開に対して連続性を持ったストーリーを特には展開していなかったのである。
ライブについてキャラが話してはいるのだが、何だかよくわからないぶつ切りになっているのである。
世界観を作り切れていなかったわけである。
それこそ今度は半端に混ぜ込まれているキャスト個人としてのMCのせいである。
要は配分ミスがこのどっちつかずさの全ての原因になっているのだが、誰かそこに違和感を持つ人物はいなかったのであろうか。
もしくはあのライブに全く関係のなかったドラマCDパート。あれに使用されていたSDモデル。
それをあんなわけのわからない内容のドラマパートで消費せずに、キャストに代弁させていたキャラとしてのMC部分を再編した幕間ドラマに使えばよかったのではないだろうか。
その幕間ドラマにライブとしてのストーリー性を持たせて分割し、尺稼ぎの必要な部分で適宜流せば良かったのではないだろうか。
まあ、実際それは完全に某ライブの手法そのままなのであるが、それこそが二次元と三次元を一つのライブで上手く両立させる現在の最適手ではあるのだ。
中途半端に幕間ドラマを垂れ流すのを真似するくらいならば、いっそ思いっきり丸ごとパクってしまえばよかったのではないだろうか。
まあ、キャラとキャスト、どちらも見せる道を取りたいのであればの話である。
いずれにせよ、中途半端なコピーと意図不明の独自性が混ざったが故の悲劇はナナシスライブ全体に降りかかっており、これもその一つであった。
3に移ろう。
ライブと直接関係あるのかないのかわからないような微妙なMCを長時間取ってみたり、ライブと何ら関係のないドラマパートを長時間垂れ流してみたり、そんなこんなで三時間半も引き延ばした挙げ句何故かライブの最後は巻き気味で終わったりと散々なことをしてくれたわけである。
これによって観客はまず、ずっと立ち続けるという肉体的苦痛を被っている。
好きでライブを見に行って、好きで立ってんだろと言われたらそうなのではあるが、かといって本当に必要かどうかもわからない時間をずっと立たされるために行っているわけでもないのだ。
観客へ一方的に押しつけた、ひたすら立たせるだけの時間が本当に必要なものだったのか甚だ疑問である。
制作側はこれがオールスタンディングの公演であることを本当にわかっていたのだろうか。
立ったままの観客の立場を考えていたのだろうか。
そしてこれによって引き起こされる弊害は肉体的苦痛だけに止まらない。
謎の尺によってぶつ切りにされた時間は、それだけ観客のテンションを下げるのである。
観客のテンションが一番上がるのはやはり演者が歌い踊る曲の時間がそうなのであり、それが間断なく続くことにより一時だけではない平均的なボルテージも上げていくのである。
そして如何にそのボルテージを下げることなく維持させつつMCや小休止を挟み込むのかがライブの構成で重要な部分なのだ。
それが何だろう、この曲と曲の間にスッカスカのMCがのんびり挟まったこの構成は……。
これでは上がるものも上がらない、上がりようがない。
一曲聴いて上がったテンションはその間ひたすら理解しがたいほど長くそのクセ中身のないMCと立ったままそれを聴く肉体的苦痛によってそりゃもうずんどこ下がっていくのだ。
これでどうライブに入れ込めというのだろうか。
思い出す度に途方に暮れる時間であった。
さて、4の点でよろしくないところである。
上記三つでそれぞれ触れているが、演者達への愛着、そしてライブ自体の滞りのない右肩上がりの盛り上がりを以て我々はトランス状態を目指しているわけである。
MCやパフォーマンスを通じて個人の魅力を知り愛着を持てなければその先の輝きを見出すことは出来ない。
間断なく上昇するボルテージがなければライブの中の茶番を芯から信じ込むことは出来ない。
その二つが揃って初めて舞台の上で起こる全てが輝きに満ち溢れて見えるという中毒性を持った陶酔状態へ到達出来るのである。
まあ実際そこまで危ない状態へ至ることは稀であるし、そこまでを求める必要が全ての人にはなくとも、だ。
少なくともその陶酔をある程度観客へ提供出来なくては、ステージを見る目は何となく醒めていってしまうものなのだ。
そうしたことを踏まえた上での弊害が5である。
演者のパフォーマンスを輝かせるものは二つある。
パフォーマンスそのもののレベルの高さか、そうでないならば愛着から生じる贔屓目である。
歌もダンスも下手なアイドルが何故存在出来るのかというと、それ以外の要素で補っているから、観客を惹きつけているからである。
それは例えばルックス。笑顔。一生懸命さ、ひたむきさを感じる姿勢。様々ではあるが、究極的にはその個人の魅力ということになる。
その魅力を以て、何でもないパフォーマンスを輝かせているし、輝いているように見せかけるのである。
盛り上がっているライブの真っ只中にいるという場酔いもそれを大きく手伝うだろう。
しかし、今回のナナシスでは演者達へ愛着を覚えるためのルートはことごとく狭められ、また観客を錯覚させるためのボルテージに関しては言うまでもない。
そうなるとどことなく醒めた目でステージを見てしまう。
そして、そんな気持ちで見るステージは輝きを剥がされた、どこにでもある、どこかの真似のようなそれに見えてしまう。
パフォーマンスが悪かったとは言わない。
これを行うためにレッスンを重ねてきた演者の汗も努力も否定はしない。
ただそれを素直に感じて酔える場所を、雰囲気を、演者の上の制作側が上手く提供出来ていなかった。それだけなのである。
そして最後の6の点。
ここに上記全ての点の悪い部分がのし掛かってきている。
それらを解消出来ていたならば、観客をライブに酔わせることが出来ていたならば、クライマックスで行われた数々の演出も好意的に受け止められたかもしれない(視界を遮る大玉風船はどう頑張っても厳しいが)。
しかし、それが出来ていなかった。
出来ていないとどうなるのかと言うと、その演出に白けるわけである。どことなく胡散臭さすら覚えてしまうのである。
特に今回は観客から自発的に何かを起こす機会がまるでなかった。
観客は指定された通りの行動をし、指定された通りの感動を得るだけだったように思う。
作られた感動。
無論、感動とはある程度は作られて発生するものである。
その作り物っぽさを如何に臭わせないか、如何に素晴らしい空間の存在を信じ込ませるかは制作する側の手腕にかかっている。
ではナナシスライブにおけるその手管がどうだったかというと、まあ、ここでまた長々と改めて書くまでもないだろう。
何より、これは経験談になるが、本当に美しいものとは作られずとも自然に、演者と観客が本当に一体になった瞬間に生まれるのである。
そして、それは観客の自発的行動を排除していては決して生まれはしない。
少なくない数のライブへ行って、色々な素晴らしい瞬間を目撃してきたが、伝説のように語り継がれるものはいつだって観客が行動し、演者がそれを受け止めることで成り立っていた。
まあ自発的行動を許しすぎた挙げ句の迷惑行為やら色々難しいこともあるが……それもあるが……。
しかし色々あっても、やはり観客がいてこそのライブなのである。
生きた観客がいるからこそのライブなのである。
その観客の生きた意志を完全に排除してしまっては、本物の何かなど生まれ出るはずもない。
作り物であることを誤魔化すことも出来ない、本物を生み出すことも出来ない。
だから、ナナシスライブは制作者の自己満足の産物でしかないと自分は感じたのだ。
別にお前らのつまらんオナニーショーをわざわざ安くない金を払って見に行ってるわけやないんやで。
生きているアイドルの輝きを見て、自分も生きていることを感じたいからライブに行っているのだ。
制作者は割とそこら辺を本当に理解出来ていない気がする。
以上、ダラダラと問題点を書き連ねてきたわけであるが、結局一言で纏めてみると「観客と演者の意志不在で作られた制作者の意図通りに動く操り人形達によるライブのような何かでしかなかったこと」となるように思う。
そう考えてみると色々と辻褄は合ってくる。
制作者の意図通りのことをしなくてはならないので演者個人の発言の場が与えられないのは当然である。
意図した通りの行動をさせるにはキャラクターを演じさせるのが一番である。
制作者の意図通りの反応だけを求めるならば、観客の負担を気遣う必要も、水を差さずに盛り上がらせ続ける構成も必要ないのである。
ある意味ライブという状況を使った一本の映画でも作っているようなつもりだったのではないだろうか。Tokyo 7th シスターズのライブという一つの作品を。
それならそうと最初から言っておいて欲しい、そんなオナニー映画なら絶対に見に来なかったから。
ライブというのは一つの作品である、か。
確かにそうかもしれない。素晴らしいライブは一個の作品のように美しく完結している。
でも、それは演者と、観客と、そのライブに関わった全ての人で血と汗と涙を流して、その上で偶発的に作り上げられる作品なのだ。
誰かの考えるシナリオ通りに全てが運んで作られるものでは決してない。
ライブは生き物だ。生きているから”Live”なのである。いや上手いこと言ってるわけではなく。
今回のライブで本当に生きているものがどれだけあっただろうか。
だから自分はこれをライブとは認められない。
ただのよく出来た”イベント”であった。
実際よく出来たの部分ですら懐疑的ではある。
……最後のまとめに入ろう。
こうして長々とナナシスライブを執拗に、悪し様に叩いてきたわけではあるが、自分は別にナナシス憎しの感情でこういうことをしているわけではないことをわかって欲しい。いや、ここまでやっといて信じて貰えないかもしれんけども。
ただ、そう、期待していただけなのだ。
期待し過ぎていただけなのだ……。
ナナシスはアイドルの新時代を創ると標榜している。
それは取りも直さず、かつての王者である某マスやら現在の頂点である某ライブやらを古い時代として超えるという宣言でもあると思う。
実際その気概は買う、というより、これからのアイドルものでそれを目指さずして真の成功はありえないだろう。
そして、ライブ直前のナナシスには果てしない目標であるそれをもしかしたらと思わせる勢いがあった。
波が来ていた。
リリース初期からの熱心なファンが作品を広め、その熱がナナシスを知らない層にも拡がりを見せ始めていた。
ライブに向けてこれまで作品内でしか聴けなかった楽曲が配信で購入出来るようにもなり、待望の1stアルバムは素晴らしい出来の曲をたくさん詰め込んだ、確かな力を感じる逸品だった。
今までどこに潜んでいたんだという数のファンが数字にも立ち現れるようになり、まるでかつての伝説の再来を思わせるような状況だった。
自分もいけるかもしれないと思った。
もしかするとナナシスならやれるのかもしれないと思った。
それは今ではないだろうけども、いつかは己の牙を突き立てて頂点に立つ者を引きずり下ろせるのではないだろうか、と。
その片鱗が、無限の可能性がこの初めてのライブで見られるかもしれない、と。
それまでライブのラの字も知らなかったような男が貯金を切り崩して往復1000kmの距離を移動してでももう一度それを見たいと願うほどに、人を狂わせる何かがもう一度見られるのではないかと、そう期待した。
結果は言わずもがなである。
自分の期待が過剰すぎたのだろうか。
勝手な期待を押しつけて、勝手に失望して、その責任を取れと喚いているだけなのだろうか。
そうかもしれない。
しかし、新時代と豪語するからには、何か一つでも新しいものを見せてくれても良かったのではないだろうか。
それなのに、出てきたものがどこにでもよくある感じのやつ、しかも一部劣化コピーではあんまりなのではないか。
結局このライブに、自分は現行の王者に届きうるような、一つでも突出したもの、新しい何か、大きな可能性などは欠片も見出せなかった。
新時代と言うなら、むしろこのライブが大ウケするような状況が来るならそれこそ新時代であろう。
でも、もしかしたら本当にそんな新時代が来ているのかもしれない。
何故なら行った大半の人は満足しているし、楽しかった、素晴らしかったと思っているし言っている。
やるせなさに喚いているのは俺ばかりである。
そもそもだ。ナナシスをちゃんと好きな人が行って、それでしっかり楽しめたし感動出来たのならば、それだけでもういいんじゃないのという話である。いいライブだったんじゃないのという話である。
自分が不満に思ったキャラクターショー的な側面も、作品が好きな人にはちゃんと楽しめるし興奮する部分だったのだろう。
滑っていると思った演出も、しっかり興奮しているファン達には素晴らしいものに映ったのだろう。
結局のところ、自分がナナシスをそれほど好きでなかったのが全ての原因なのではないだろうか。
風俗行ったけどもどうしても勃たなくて挙げ句それを嬢のテクに責任転嫁して説教しているという限りなくみっともない姿が今の自分なのでは。
色々考えているとそこに行き着いてしまう。
俺がナナシスを信じ切れていなかった。溺れていなかった。
それだけの話である。
好きな人がちゃんと楽しめて、突き詰めれば作品を好きな人のためだけのファン感謝祭的なイベント。
それはそれでいいものなのだ。
一つのビジネスモデルとしても成り立つものなのである。
それ以外の部分でファンというお客を集められるならば、十分有用な戦略であろう。
あのゲームの内容で爆発的なファン人口が獲得出来るならばの話だけど。
どこかの親切なスタジオが自分達の誇りをかけて、技術を注ぎ込んだ素晴らしいアニメを作ってくれるならばの話だけど。
CDをコンスタントに発売して、いい曲を届け続けてくれるならばの話だけど。
それらが実現したならばナナシスはプロジェクトとして成功するだろうし、それらに魅了されたナナシスファンはこのイベントに来て皆満足出来るだろうし、アイドル新時代が来たと言えるだろう。
ナナシスのライブはそういうライブであった。
作品のことをよく知らない人が、少し囓った程度の知識の人が、興味本位で足を運んでステージを見た瞬間に一発で魅了されてしまうような。よくわからないけども、何か凄いことをしているということだけはわかるような。見た後で何週間も興奮が抜けずに、それをどうしても吐き出したくて触ったこともないSNSのアカウントを作らせるような。誰かの人生を大きく狂わせてしまうような。
そんなライブではなかっただけの話である。
ナナシスの目指す新時代がファンのための内輪ウケだけのそれであり、自分達のことを知らない誰かすら魅了するようなものではないのなら。
それならそれで文句は別にないのである。
自分だって何もかも楽しめなかったとは言わないし。楽しかったよ、ナナシスのイベント。好きな曲も聴けたし、それで盛り上がれたし。楽しいだけでいいなら十分楽しかったのだ。
楽しければそれでいいじゃないか。
世の中そんなもんかもしれないしね。
難しいこと言って理屈こねて感動してくれるファンこそが善良なファンというわけでは決してないことは自分を見ればよく理解してもらえるだろう。
純粋にライブ行って「あー、楽しかったねー」だけで終わってくれるファンの方がよっぽどいいファンだし金払いもいいだろう。
自分だって何もそういう付き合い方が出来ないわけじゃない。
好きな曲を歌ってくれるのを聴いて、騒いで、笑って、盛り上がって、楽しかった。
それだけでもいいのかもしれない。
ただし、それだけでいいのなら、別に選択肢をナナシスに限る必要はないけれど。
そういうアイドルコンテンツは今や飽和状態というほどに溢れかえっている。
そしてどれも等しく楽しい。
ライブという方面では、結局ナナシスはそれらと同一だった。
特に突き抜けたところはないものとして、今後は無数の選択肢の中に埋もれていくだろう、自分の中では。
楽しいことはいいことだ。
だが、楽しいだけならそこに夢は見ない。
夢がないなら、他の選択肢を切り捨ててまで、何かを犠牲にしてまで足を運ぶつもりはない。
自分はTokyo 7th シスターズに夢を見たかった。
だが、自分には見えなかった。
だからもう、疲れた。
これからそれを探し続ける体力も気力ももうないと悟った。
ナナシスに関しては降りる。
あの日、自分が見えなかった夢をナナシスに見た人達が今後は支えていってくれればいい。そもそも支えた時のない自分が言うのもおこがましい話であるが。
おっさんは疲れた。
あの日ライブを見ながら自分がアイドルに疲れていることを心底実感してしまった。
還る場所などどこにもない。どこにもないのである。
それでも、ナナシスライブに関しては一つだけ救いがある。
それはこれが初めてのライブだということである。
二回、三回と重ねていく内に悪いところは改善され、もしかしたら素晴らしい、本物の輝きが生まれるかもしれない可能性はまだまだ十分に残っているのだ。
自分がここまで延々とくだを巻いてきたことの八割は益体もない雑言であるが、二割、いや一割……五分くらいは本当にこれはどうかと思う問題点を指摘してある、と、思う。
全部が全部自分の理想通りになればいいなどとは思わない。それはそれで単なるどこかのコピーでしかない。
ただ今後多少なりとも観客には配慮してあげて欲しい。
ライブを肯定している人の中にも、つらい思いをした人はいるかもしれないわけであるし。
そうして観客と演者と一緒に改善を重ねて進化していって、自分が乗り損ねたことを後悔しながら遠巻きに眺めるような素晴らしいコンテンツになってくれればいい。
それだけが今後のTokyo 7th シスターズと、それが創る新時代に自分が望むことである。