もういい加減エビストのライブの感想をブログの記事にするのやめたいんだけどやっぱりまた書かされてしまったやつ(6thライブについての感想)

 5thの時にもう少なくともハニプラのライブについての感想をブログに書くことはないだろうと思っていた(し、実際5thは書いてない)んですが……。
 あれはやはり浅はかな予測だった。6thライブについての個人的感想を今から書かされます。
 そもそも5thについて書かなかったのは、自分が何を書くまでもない程に良いライブだったからだ。もう敢えて自分が何を言わずとも見た人が全てを理解できるようなライブが8/pLanet!!の5thライブだった。
 だったら以降はどのライブもそうなるはず。なのに何故6thについては再び編集画面と向き合わされているのか。
 その理由は別段大したものではない。6thについて感じたことをどうしても言葉にして書き残しておきたかった。それだけである。
 まあ、結局そうさせられるくらいには素晴らしく、衝動を湧き起こさせるライブだった。
 ので、もう何度目になるのかわからないその衝動と共に、6thによって得た自分の感動、というかお気持ちを綴っていこうかと思う。

 

 

 


 結論から書く。
 まず今回の8/pLanet!! 6thライブがどういうライブだったのかというと、〝至ってスタンダードなライブ〟であった。
 二次元アイドル――このジャンルのコンテンツのライブとしては非常に教科書通りの手堅い内容や構成。
 奇をてらった演出や斬新な試み等は一切ない、とてもシンプルでベーシックなものとして作られていたように思う。
 では、結局そんな風に8/pLanet!!の6thライブは何の変哲もない、極々普通のライブだったのかと言われるとそれも違う。
 本当に単なる普通のライブだったのであれば、今更再びこうして感想を書かされてしまうようなことはなかっただろう。
 つまり、内容的には普通のライブだが、その実態は普通ではなかったのだ。
 正確には、そういったスタンダードな様式というものを可能な限り極限まで研ぎ澄まし、磨き上げたかのようなライブだった。
 謂わば、ド真ん中へのストレートボール――それを徹底的に突き詰めて強化し、決め球へと昇華させたような感じと表現するべきか。
 それが8/pLanet!!の6thライブに対して自分の抱いた印象であった。

 

 

 

 

 さて、そう耳障りのよい表現してはみたものの、極論すれば今回の6thライブは『出来はいいが、捻りのないスタンダードなライブだった』ということでもある。
 その出来――クオリティーにしたって、同ジャンルの大手コンテンツであればこのライブ以上のものを叩き出しているのだろう。
 だと言うのに、今回そんなライブに対して何故こんなにも自分は衝撃を受けて、あまつさえ見事に感服させられてしまったのか。
 それには色々と複雑な心理的事情や状況的な理由があり、複数存在する別々のそれらが奇妙に絡み合うことでその感動が形成されているのではないかという自己分析に至った。
 その様々な事情や理由の込み入り具合というか、絡み合い方が結構面白いものだったので、エビストに関する一つの記録としてまたもやそれを書き残しておこうというのも今回の目的の一つである。
 では、以下からその事情や理由がどういったものであり、果たして今回の6thライブへの印象に対してどういう影響を与えているのかを分析していこう。

 

 

 

 

 まず最初に……そもそもの話なのだが、個人的には6thライブに対する期待値が開催前はかなり低かったことを正直に告白しておく。
 一応ファンの端くれでありながら薄情にも程があるのだが、そうなってしまってもある程度仕方ない状況だったという釈明もさせていただきたい。
 というよりも、6thライブにここまで感銘を受けた原因は結構な割合でその事前の期待値の低さと実際のライブの素晴らしい出来との振れ幅にあったりもする。
 なので、今から書いていく『6thライブの評価に繋がる複雑な事情や背景』というのは、殆どそのまま自分の6thライブへの期待値が低かった理由を説明していくものとなる。
 その全てはあくまでも自分の個人的な心境や印象でしかなく、6thライブ直前までのエビストの現状や全てのファンの心理に正確に当てはまるものではないことを理解した上で読んでもらいたい。
 結局のところ今回は自分の心の移ろいというものを書き残すことが目的の感想文なので、そう御容赦いただきたく思います。

 

 

 

 

 それでは、6thに対する期待値が低かった理由を順に挙げていこう。
 まず第一の理由は、『近年のエビストが変化球ばかりを好んで投げていたから』というものになる。
 5thライブ以降のエビストは二次元アイドルとして王道の8/pLanet!!よりも、どちらかと言えば邪道である2_wEiとB.A.Cを中心にライブイベントを展開してきた。
 その時期、およそ二年半。真っ当な二次元アイドルコンテンツとしてのライブではなく、エビストにしか出来ない独自の形式のライブや表現にばかり注力していたのだ。
 これは流石にもう「もしかしたらエビストは今後この路線だけを突き詰めていくつもりなのでは?」という憶測に至ってもある程度仕方のない状況だっただろう。
 別にそれに対して不満があるわけでもなかった。実際、そのエビストだけの独自路線といえる2_wEiやB.A.Cのライブは手放しで評価できる興味深くも面白いものだった。自分だけでなく、広くファンの間での評判も上々だったと思う。
 これまでのハニプラのライブと比較しても、案外この変化球のライブの方が王道の直球よりもクオリティーが上なのではと思えることもあった。
 そこに制作側の入れ込み具合の差を意識してしまうのも無理からぬことではないだろうか。もしかして運営が本当にやりたいことはこっちの変化球の方なのではないか。だからこそ、こちらのライブの方が出来が良いように見えてしまうのではないのかと。
 なので、相当な期間ご無沙汰だった王道的なハニプラのライブを本当に同じくらいの真剣さでやってくれるのかどうかについてかなり懐疑的にならざるを得なかった。
 誤解の無いように言っておくが、別に運営側を責めているわけではない。自分自身このエビストの放る変化球も当然好きだ。それを力一杯のびのびと投げてくれることに不満は一切なかった。
 ただ、同程度の力を込めて直球の方も放ってくれるような王道に対する熱意が今のエビストにあるのかどうかを疑わしく思っていただけである。それが6thへの期待値の低さに繋がっていたという話なのだ。
 それに、エビストが5th以降の活動において変化球ばかりを放らざるを得ない社会的情勢による事情というものもあった。
 そこら辺が色々と落ち着くまでは安易にこれまで通りのスタンダードなライブを以前と遜色なく開催するのは素人目に見ても難しいということは察せられていた。
 だからこそ、エビストも様々な社会的制限の中でやれることを模索した上で、時勢を逆手に取った変化球を積極的に放るというスタイルに舵を切った側面もあるのだろう。
 そして、悲しいことにそれすらもまた6thの期待値を下げざるを得ない理由であった。
 制限の中で行われる、これまで通りのスタンダードなライブは果たしてどうなるのか。
5th以降の時勢を利用した変化球的なライブに並ぶことが出来る面白さやクオリティーを発揮できるのかどうか、個人的には不安の方が大きかった。
 むしろ、本当にこれまでハニプラがやってきたようなスタンダードな形式のライブになるのかも怪しいかもしれないと密かに睨んでいた。遂にハニプラにおいても変化球に手を出すつもりなのではないかと。
 なにせ、最近では変化球嗜好が行き過ぎてある種のアナーキズムに傾倒しかかっていたエビストである。果たして今更まともな二次元アイドルコンテンツとしての思想に立ち返ることが出来るのか、失礼ながら疑わしく思っていた。
 とにかく、以上が第一の理由であった。

 

 

 


 しかし、そんな勘繰りをしていたところに思いっきりぶつけられたのが、あの6thライブだったのである。
 変化球的な手法など一切用いられていない、まったく何のてらいもない王道のド直球。どこまでも基本に忠実で、限りなく純粋な二次元アイドルコンテンツとしてのライブ。
 そりゃギャップでやられますわ。驚きと衝撃で撃ち抜かれるでしょうよ。あのエビストが!? ここまで真っ当で優等生的とすら言えるようなライブを!?
 この時の気分を例えるならば『傾奇者の前田慶次が作法に則った格好と態度で自分の前に現れた時の豊臣秀吉』である。

マジでこれ


 とにかく、この二年半、世間に対して斜に構えて反抗的な態度を貫き、時には真っ向から噛みついてすらきた二次元アイドル界の狂犬と呼んでもいいようなエビストくんからこんなにも真摯で綺麗なライブをお届けされた衝撃たるや相当なものだったことをどうかご理解いただきたい。出来れば共感もしていただきたい。
 しつこいようだが、別段自分は二次元アイドルとしてスタンダードな形式のライブだけを神聖視しているわけではない。変化球を放るエビストのこともその尖った生き様故に愛している側面もあるくらいに好ましく思っている。
 だが、それでもこのドロッドロの邪道に浸かりきったこれまでの状態から一転、どこまでも清く正しい王道に立ち返ってきた時の落差には素直にやられてしまった。
 恐らく、5thから予定通りのスケジュールで6thを開催出来ていたとしたら、ここまでスタンダードなライブであるというそれ自体に胸打たれることはなかっただろう。
 あくまで混沌とした世の中という昨今の社会情勢と、そんな中でどこまでも反抗的な態度を貫くが故に近年妙に殺伐としていたエビストのライブの雰囲気という状況があった上で、それらとの間に発生したギャップにより著しく増幅された感動である。
 今まで散々世間を斜めに見ては腐して時に嘲笑ってきたのが、まるで全てなかったかのように美しく無垢な今回のライブを繰り出してきた時は思わず膝を打ってしまった。まんまとしてやられた、そう感じた。
 下手をするとこのギャップを最大限増幅させることを狙って、最近のような展開をずっと仕掛けてきたんじゃないかとすら疑ってしまう。まあ、それはいつもの考えすぎだろうけども。
 だが、やはり、この落差や温度差の中にはある程度意図的にそれを狙ったものが存在しているようにも思える。
 何故ならば、あの運営が心の底からアイドルの美しさを信じて、この真摯なライブを作っている――そんな純粋で清らかな精神をしているとは到底信じられないからだ。勿論いい意味で、だが。
 世界を嘲笑うB.A.C、世界に楯突く2_wEi、世界を正しく生きようとする8/pLanet!!。この三つのユニットの在り方をどれにも偏らず均等に描くためには、その全てを俯瞰的に眺めている必要があるだろう。どれにも入れ込みすぎることなく、である。
 もしもどのユニットのスタンスも全てが心から正しいと信じて作っているのだとしたら、とんでもないサイコパスか多重人格者である(こちらの説にも捨てがたい魅力はある)。
 話が逸れた。とにかく、肝心なことは6th開催前のコンテンツが纏っていた妙にすれた雰囲気や態度と、実際に開催されたどこまでも真っ当で王道な6thライブとの間に相当な落差、温度差があったこと。
 さらに、それによって通常よりも増幅された精神的衝撃が自分の中に発生したこと。
 それはある程度向こう側が作為的に仕掛けたものなのではないかと個人的には疑っていること。
 要するに、ここで言いたかったのはそういうことである。

 そして、何よりも大事なのはその全てが自分にとても味わい深い感動をもたらしてくれたことである。
 恐らく、これによって本来以上にこの6thライブを面白いと思わされてしまった気がする。
 そして、そのことを今まで味わったことない奇妙かつ新鮮な感動として書き残しておこうと思ったからこそこうして長々と文章にしているのだ……と。まあ、第一の理由について書くのはこれくらいにしておこう。

 

 

 


 さて、それでは第二の理由にいこう。
 これはかなり生々しい話になるので率直に口にするのもどうかとも思われるのだが、濁したところでやはり意味も無いので正直に書く。ずばり『金の問題』である。

 いや……それでもやはりもうちょっと取り繕った話から入ることにしよう。
 まず、6th開催前までの個人的な見解を示しておく。『8/pLanet!!のライブは5thが今までで最高の出来だった』。
 様々な異論はあるかと思われるが、感情的なものを一切交えず単純にライブとしてのクオリティーだけで比較した場合の話である。
 5thは本当に素晴らしかった。シンプルにステージ演出やパフォーマンスなどの総合的な完成度が高かった。まあ、ハニプラとしては一番最新のナンバリングライブとなるのだからそれも当然かもしれないが。
 そう、本当に素晴らしかったのだ。恐らくこの5thライブがこれくらいの規模のコンテンツで開催できるライブとしては一つのゴールではないだろうかと思ってしまうくらいに。
 言い換えれば、あまりにも出来が良すぎてここが頭打ちのように思えてしまった。これ以上のライブを目指すなら、今後この時点でのそれよりも更にコンテンツの規模が発展している必要があるだろう。
 そう思わされるくらい、5thライブはこの二次元アイドルというジャンルの中の中堅コンテンツとしてやれる限界まで到達してしまったライブだった。と、個人的には感じた。
 だからこそ、6thライブは果たしてこの5thライブを超えられるのかどうか、かなり不安に思ってしまったのだ。
 何故なら、エビストはまさしくこの5thライブの時が一番景気の良かったコンテンツだからである。
 言うまでもないことだが、大きなライブを開催するためにはそれ相応のコンテンツとしての人気が必要だ。集客も見込めないのに広い会場を使うことは出来ない。
 同様に、ライブの品質も規模に応じた予算内に収めるしかない。豪華でリッチな内容のライブをするには相応の資金を稼ぎ出せるコンテンツとしての規模が要る。
 幸いにして、エビストは1stライブから5thに至るまでじっくりとではあるが順当に自身の規模と人気を拡大してきた。ナンバリングライブの数字を進める毎に、以前のそれよりも着実に内容を進化させてきた。
 様々な施策を重ねて、どうにかこうにかファンを増やしてコンテンツを発展させてきたおかげである。その発展の最高到達点こそが5thライブを開催した時期だっただろう。
 なので、6thライブを5thを超えるものにするためには当然この時よりも更にコンテンツの規模と人気が拡大されている必要がある。
 だが、あくまで客観的に見た上で包み隠さぬ印象を述べさせてもらうならば、エビストの規模と人気は5thから6thまでの間にさしたる伸張を見せてはいなかった。どう贔屓目に見てもそう考えざるを得なかった。
 それは当然と言えば当然でもあった。その期間にコンテンツには大きな動きらしい動きが殆どなかったのだから、拡大のしようがない。近年はアヴァンギャルドなTシャツを売るアパレルブランドとして糊口を凌いできたとすら半分冗談で言ってしまえる状況だった(半分は本気でそうかもしれないと疑っていた)。
 実際の数字がどうであるのかは運営側ではない単なる一ファンでしかない以上何とも言えない。
 ただ、その一ファンの肌感覚としては良く言って5thの頃から規模的には変わらず停滞していると感じられた(そんな風に維持できているのも案外大したものではあるのだが)。

 しかし、そんな現状にある致し方ない事情の一つに5th以降一変してしまった社会情勢というものがある。そこを汲めないわけではない。わけではないが、事実は事実である。それはどうにも無視できないし、覆しようもない。
 エビストは5thライブの時から6th開催までにコンテンツの規模と人気が大して変化してはいなかった。なので、果たしてそんな状況で5thよりも内容的に進化したライブを届けられるものなのかどうか疑わしかった。
 要するに、第二の理由とはそういうことになる。
 しかも、この近年の社会情勢というのもその疑いに拍車をかけてしまっていた。
 これによって現在のライブというものは楽しむ上で様々な制限を課されてしまっている状況にある。そんな制限がなかった時と比べると、楽しさや盛り上がりの面でどうしても物足りなく感じる部分が出てくることは否めないだろう。

 だと言うのに、一番出来が良かったとされる5thライブはその制限がまだ存在していなかった頃にのびのびと行えたライブだったのである。
 ただでさえ5thライブを超えることが出来るのか相当難しいかもしれないというのに、その上かつてはなかった制限付きとあってはますます不安は募る。
 これらに関連する不安の種はもう一つあった。金……言い換えてコンテンツの規模と人気に関しての問題に加えて、今度は『やる気』の問題である。
 5thライブ時点のエビストに一種のゴールへの到達、あるいは頭打ち的なものを感じたのは実はライブの内容に関してだけではなかった。
 コンテンツとしての規模と人気、それ自体も案外ここが限界点かもしれないという気配があった。
 無論、エビストのポテンシャルがこんなところで留まるものではないことを今でも自分は信じている。そういう話ではなくて、今のコンテンツの展開だけで到達できる限界はここまでかもしれないという気配を感じたのだ。
 ここより更に上を目指すのであれば、何らかのもっと大きく踏み込んだメディア展開が必要なのではないかと感じた。アニメ化や、あるいは更に積極的な宣伝活動、それらの後ろ盾となる強力なスポンサーの獲得などである。
 そこから生み出される勢いを利用して越えなければならない壁がこの先にあるように思えた。その壁を越えなければ今以上の規模と人気には辿り着けないような気がした。
 そうだというのに、6thライブまでのエビストにそれを目指すような動きは一切見られなかったことは前述した通りである。一体何故なのか。
 実はそれについては、近年明らかになってきた『エビスト運営はどうも反商業主義的な傾向がある』という疑惑が原因ではないかと考えられた。
 この疑惑に関しては何故かすでに自分の言いたいことを過去にまとめてくれていた先人が存在したので詳しくはそちらを参照されたい。

m-kichi.hatenablog.com

 その内容をかいつまんでここに書くと、『エビストは自分達のやりたいことに横やりを入れさせないために敢えてスポンサーをつけずに今の規模感で留まっているのではないか』というものになる。
 とにかく制作側にとって最優先事項はこのコンテンツを通じて自分達のやりたいこと、表現したい物語を誰にも邪魔されずに完遂することであり、商業的な利益はさほど重要視していない傾向が近年加速しているように見受けられた。
 それ自体については個人的には是としていることは上の過去記事で書いた通りだが、事がライブの品質に関わるようになってくると流石に賛同しきれない面も出てくる。
 きちんとしたライブを開催するにはどうあっても金がかかる。どれだけ商業主義に反発心を抱いていようと、理想を実現するにはそのための費用をコンテンツ自体で商業的に稼がなくてはならない。ジレンマである。
 そのジレンマに対する折り合いの終着点というのも、もしかしたら今のこの状況なのかもしれないと思われた。
 つまり、そのポリシーを遵守するために運営は今の規模と人気よりも上の段階へコンテンツを進める気がない。これより先は自分達の自由裁量権を引き換えにしなければならないからだ。
 そうなると必然的にライブの内容的な進歩もここで打ち止めということになる。進歩に必要な規模と人気が足りていないから当然だ。そして、繰り返すがどうも運営側にそれを積極的に獲得していこうとする意欲はなさそうである。
 要するに、『運営はもうこれ以上ライブのクオリティーを上げるつもりはないのではないか』と、個人的にはそんな推測に至ってしまった。コンテンツの自由度を維持することと、ライブを以前よりも進化させていく=コンテンツの規模を拡大・発展させることとを比較して、前者を選んだのではないだろうかと。
 もちろん邪推にも程がある、非常に根拠に乏しい妄想である。しかし、エビストにそこまでの金がない=コンテンツの規模と人気が5thライブ時点から大した変化がないこともまた厳然たる事実であった。少なくともずっと追ってきた一ファンの視点からすればだが。
 その状況に運営の思想信条が関わっていないとはどうしても言い切れないものがあるだろう。それこそが6thライブへの期待を低くさせる理由の一つである、『やる気の問題』であった。
 さて、第二の理由もまた思いつくままに書いている内にダラダラと長くなってしまったので、ここで簡単に要約しておこう。
 6thライブが前回の5thライブを超えるためには、5th時点でのコンテンツとしての規模と人気を更新していなければならなかった。更新された規模と人気がもたらすコンテンツの利益からより多くの予算を獲得し、ライブに注ぎ込めるようになるからだ。
 しかし、6th開催までに、エビストはどう贔屓目に見ても5thからコンテンツとしての規模と人気が発展しているとは思えなかった。故に、6thライブを5thを超えるものにするための予算の不足が危惧された。
 また、運営側もそのための積極的な動きをこれまで見せてこなかったため、果たして6thライブを前回よりも進歩したものにするつもりがあるのかどうか、『やる気』の面での懸念があった。
 これらが個人的に6thライブへの期待が低かった第二の理由である。

 

 

 

 

 それでは、実際これらの疑念に対して6thライブの出来は果たしてどうだったのか。
 まずは運営の『やる気』であるが、これは幸いなことにしっかりと存在していた。というか、こちらの想像を遥かに超えてありすぎるくらいにやる気があったと言える。そう思ってしまう程の結果を6thは叩き出してくれた。
 とはいえ、運営にしっかりとハニプラの6thライブを前回の5thを上回るものにする意欲があったこと、それ自体は確かに何よりも喜ばしいものだった。
 その点では、自分はすっかり運営の表向きの態度に勝手に騙されていたことになる。まんまとしてやられたというやつだ。

 しかし、それでも一つだけ言わせて欲しい。そもそもそんなところでしてやろうとするんじゃないと。
 ファンを欺こうとするんじゃない。徒に気を揉ませてんじゃあない。これに関してはそう言いたくもなる。いやマジで心配したんだぞ。
 好意的に考えればこの『やる気ないふりしといて実はメチャクチャありました』という落差によって6thライブの内容への衝撃が増していることも確かではある。あるのだが、それにしたって……なぁ!?
 ……まあ、その辺についての話はこれくらいにしておこう。
 それで肝心の6thライブの出来自体はどうであったのかというと、それについてはもはやここで事細かに語る必要もないくらいに素晴らしいものだった。そうとしか言いようがない。

 5thライブを超えられたのかどうかなどと一々考えるまでもなく、6thライブはあらゆる面で5thを上回っていた。進化していた。これについては自信を持って断言できる。
 細かく比較する必要もないくらい、パッと見ただけでも6thライブが5thライブよりも一回り豪勢な内容であることは伝わってきた。
 洗練された生バックバンドによる全曲生演奏。ステージ中央に陣取るありえないくらい解像度の高い巨大ディスプレイ。さらには楽曲ごとに作成されたイメージ映像がそのディスプレイによって後ろで流れるという気合いの入ったリッチな演出。2_wEiのお株を奪うような光学兵器と見紛うほどのギラギラのレーザー投影。きっちりと本番に合わせて磨き上げられてきた8/pLanet!!メンバーの卓越したパフォーマンス。今回も最強に可愛いライブ衣装等々、素晴らしかった部分については枚挙に暇がない。
 これまでの8 beat Story♪が数多くのライブ公演を通じて培ってきた技術、演出、ノウハウの全てを注ぎ込んだまさしく集大成のようなライブが6thライブであった。
 2_wEi、B.A.Cも含めたこれまでの全てのライブの中でも予算のかけられぶり、内容のリッチさでは間違いなく頂点に立つものだろう。ハニプラに対する大きすぎるくらいの愛とこだわりがビンビンに伝わってくるライブであった。

 こうしてまた見事に、そして何とも喜ばしい方向に自分の予想は裏切られ、開催前の懸念は無事にただの杞憂と成り果てた。
 しかし、この点に関しては結局全て単なる自分の勘違いや考えすぎであり、取り越し苦労でしかなかったというオチだけでは済ませられないものがまだ存在している。
 確かに自分は見誤った。間違った推測をしていた。けれども、弁解するわけではないがそれにも仕方のない部分があると思っている。
 何故ならば、この6thライブはどう考えても今の規模と人気のエビストから提供されて当然とはとても思えないくらいに質の高すぎるライブだったのだ。
 今回初めてエビストのライブに参加した方も当然おられることだろう。「ここまでやれるコンテンツだったなんて知らなかった」と衝撃を受けられたかもしれない。そして、「前々から参加してた人はずっとこんな凄いライブを見てきた」のかと思われたかもしれない。
 しかし、断言するが今まで追いかけてきたファンであってもここまでのものを見たのは初めてである。「ここまでやれるとは思ってなかった」という、まったく初参加の方々と同じような衝撃に自分も包まれていたことを素直にここで自白しておく。
 そもそも6thライブを見終わってからいの一番に浮かんだ感想も『明らかにこの規模と人気のコンテンツがやるレベルのライブじゃない』というものだった。
 それ程までに出来が良すぎた。これに関してはエビストの台所事情をある程度察しているようなファンであるほど予測できず、また受けた衝撃も大きかったことだろう。
 だが、そうなるとここで一つの疑問が浮上してくる。
 如何にしてエビストはコンテンツ規模に見合わぬ豪勢なライブを実現させたのか、特に予算の面で……というものだ。

 幸いなことに、その答えは至極単純にして明快なものが公式から提示されている。
 そのためにかなりの『無理をした』のだと。

 冗談としか思えない解答だが、こちらもその自己申告を信じる以外の選択肢はない。それ以外の説明がまるでつかないからだ。
 前回を超える素晴らしいライブにするためにエビスト運営は今回多少の〝無理〟をした。言われてみればまったく単純で、それしかないだろうという方法である。
 では、どうして自分はそんなことすら事前に予想できなかったのか。エビスト運営が6thライブを華やかで立派なものにする、そのためだけに採算をまったく度外視した無理をするということを。
 ……いや、予想できてたまるかそんなもん。いくらなんでも理想の実現のためにそこまで己を投げ打てる狂人だとはこちらも思っていなかった。
 結局、まだまだ自分はエビスト運営のイカレ具合を理解できていなかった。見くびっていた、過小評価しすぎていた。
 自分の6thライブへの感動の中にはこのことに対する衝撃も多分に含まれている。というより、この衝撃が感動を通常よりも増幅させていると言えるだろう。
 それに気づいた時の驚きをこれでもまだまだ全然表わしきれているとは到底思えない。
 とにかく、流石にこれ以上は無理だろうという所からさらに一歩を無理してでも進めてきたことには本当に度肝を抜かれたとしか言いようがない。マジで。

 

 

 


 ということで、今まで長々と書いてきた自分が今回の6thライブに大きな衝撃を受け、感服させられてしまった理由というのを最後に全部ギュッと圧縮して簡潔にまとめておこう。
 8/pLanet!! 6thライブは二次元アイドルコンテンツのスタンダードなライブとして確かによく練られ、洗練された、素晴らしい出来のライブだった。
 さらに、個人的な理由によりその印象はかなり強力に増幅されていた。その感覚と理由そのものが中々特異で愉快なものであったため、ここに書き残しておこうというのが今回の記事の目的である。
 まず第一の理由。近年のエビスト運営は、時勢的な要因もあるとはいえ、2_wEiやB.A.Cなどの二次元アイドルとしてはかなりの変化球的なライブばかり行っていた。
 ハニプラのライブも一度中止になって以降かなりの長期間開催されておらず、運営の心はもはやスタンダードな二次元アイドルコンテンツとしての在り方からは離れてしまったのではないかと疑われた。
 故に、どこまでもスタンダードなスタイルが売りのハニプラのライブに運営が2_wEiやB.A.Cほどの熱を注いでくれるのかどうかについても懐疑的になり、6thライブに対してあまり高い期待を持てずにいた。
 しかし、蓋を開けてみれば実際に開催された6thライブはどこまでも真摯にそのスタンダードさを追求し、磨き上げたものであり、これまでの奇抜なスタイルへの傾倒の面影すら感じさせないものであった。
 なので、普通に提供された場合より何倍もその真っ直ぐで正統派な内容に心打たれてしまった。数年かけて印象づけてきた反体制的な姿勢とのあまりの落差に増幅された感動を受けてしまったわけである。
 そして第二の理由。5thライブの時期をピークにして、6th開催までの間にエビストのコンテンツとしての規模と人気にはさしたる発展が見られなかった。
 また、運営の方もそれを積極的に獲得し、展開を大きくしようする動きを見せてはこなかった。

 それ故に、6thライブ開催にあたっての現在のコンテンツ規模から捻出できる予算と運営の熱意の両面に対する不安を個人的に抱いていた。
 前回の5thライブを超える出来のライブにする、そのための先立つものが今のコンテンツの現状で用意できるとは思えなかったのだ。
 また、そのためにコンテンツの規模を積極的に拡大していこうとする動きも見られなかったので、そういった熱意にも欠けているように思えた。

 なので、6thライブが前回の5thライブ以上のものになるとは信じられず、内容に対する期待は限りなく薄くなってしまっていた。
 しかし、実際に行われた6thライブはどうだったのかといえば、生バンドやその他ライブを彩る豪華機材や演出を惜しみなく注ぎ込んだ間違いなくこれまでで一番豪勢な内容であった。
 つまり、運営は6thライブについて前回の5thライブを超えるものにする熱意がないと見せかけておいて実はバリバリに情熱に満ち満ちていたわけである(何度も言うが意味もなくファンを不安にさせるような見せかけをするんじゃあない)。
 だが、いくら熱意に満ちていても先立つものがなければ実際にライブの内容を充実させることは出来ない。
 その問題を果たしてどう解決したのかと言うと、ただただ単純に己の身を削り、無理をしてそれを捻り出してきたのであった。
 とはいえ、先に書いたコンテンツの商業的な拡大を積極的に求めないスタンスを取りつつ、そのまま採算を度外視して利益を二の次にしたライブを行うというのはまともな商業作品の在り方ではない。まさしく酔狂を超えて狂人の振る舞いに近いと言えるだろう。
 そして、自分はそこまでエビスト運営が狂っていることを見抜けなかった。だからこそ、意表を突かれた、というより度肝を抜かれた。
 こうして普通に6thライブのクオリティーの高さに驚かされる場合より何倍も増大した衝撃を受けてしまったわけである。それは、これまでずっとコンテンツを熱心に追いかけてその台所事情をある程度察していればいるほどより受ける衝撃が増幅されるものであった。
 つまり、8/pLanet!! 6thライブとは今のコンテンツの規模と人気ではありえないようなクオリティーかつ、どこまでも実直で真摯なスタンダードスタイルの二次元アイドルコンテンツとしてのライブであった。
 それらの要素のどれもが今回のライブに組み込まれるとは開催直前までのエビストの様子からは予想できないものであった。故に自分の予測をある意味全て裏切られ、あるいは上回られたことによる衝撃で普通に感じる以上の感動を自分は受けてしまった。
 要するに、そういうことを書き残しておこうというのが今回の記事であった。

 

 

 

 

 ……といった感じで綺麗にまとまったところで、最後にもう少しだけ今回思ったことを書き足して終わりにしたい。
 6thライブについてそういった諸々の要素含めて素晴らしいものだったと感激しつつも、同時に「しかし、そうは言ってもそういう無理の上に成り立っているのは果たしてどうなのか」という考えも頭の片隅には浮かんでしまった。
 たとえば、その無理が末端に押し付けられているものだったならば言うまでもなくアウトだろう。本来かかるコストよりも安く仕事を買い叩き、様々な作業を担当する委託先へその皺寄せがいっている場合である。そうであれば流石に自分も全面的に否定する。ライブがどれだけ素晴らしいものであっても、だ。
 しかし、どうも外から見ている限りでもそういうことはなさそうなのである。
 無論本当の内情については関係者でないので断言は出来ない。だが、少なくともそのような形の何らかの搾取が行われている様子は一見する限りでは見受けられない。コンテンツに携わっている人達は上から下まで妙に和気藹々とした雰囲気で、不満もあまり抱かず仕事できているようである。

 では、一体誰が無理をしているのかというと、これはもうどうやら企画を統括している偉いおじさん達がしているらしいのだ。端から見ている限りでも、その可能性が一番濃厚なのである。
 つまり、コンテンツにおいて一番偉いおじさんが身を削って必要な予算を捻出しているらしい。それも回収できる見込みのある事業への投資としてではなく、採算を度外視した趣味の創作活動に注ぎ込んでいるようなノリで。
 そして、恐ろしいことにそうだとするとまったく問題がないのである。だってそうではないだろうか、幾人かの偉いおじさん達が誰に強制されたわけでもなく自発的かつ個人的に体を張って無理をしているのを本人達以外の誰に止める権利があるというのか。
 我々ファンにしてもコンテンツの発展と出来のいい成果物を見せてもらえることを常々望んではいても、そのためにおじさんに無理をしてくれなどと頼んだ覚えはこれっぽちもない。誰もそこまでしろとは言っていない、そのはずなのである。
 それなのにおじさん達が勝手に命を削って、我々がコンテンツ継続のための対価として払っている金額以上のものを提供してくるのでもはや困惑するしかない。いや、そりゃまあ嬉しいですけれども。

 そんな風に、今のところおじさん達が無理をしていてもこちらには何の損もないのである。悲しいことに、好き好んで自分自身を搾取しているおじさんの姿を見て戸惑いはしても心は全く痛むことがない。尚更止める理由も必要性もないことになってしまう。
 しかし、そうは言ってもその無理がコンテンツの寿命も同時に縮めてしまうこともまた確かだろう。それを考慮すれば、やはり否定的に見るべきなのかもしれない。
 明らかに収入よりも支出の方が多い状態でコンテンツを維持することは出来ない。いくらエビストだってそのはずなのだ。おじさんの無理で今のところそれが補填されているにしろ、やはり限度というものはある。

 とはいえ、である。それも実はコンテンツがまだまだ始まったばかりで若い頃、もしくは二、三年して熟れてきた頃にしか当てはまらないのかもしれない。
 確かに、まだまだここから輝かしい未来が訪れることを期待している段階なのに目に見える無茶によって勢いよく寿命が消費されているならばそれは危険視するべきだろう。
 しかし、エビストはのらりくらりと生き延びてきてもう六年目である。流石にコンテンツの未来、というより行く末については現実的でシビアな見方が混ざり始める。
 あと何年コンテンツは続くのか、8/pLanet!!はあと何回ライブが出来るのか。恐らくそう多くはないだろう。悲しいことだが、時間という絶対的な限界の前ではそれも仕方がない。

 そうなると、その残り少ないかもしれないライブの一つをより素晴らしいものとするために多少の無理をするのはむしろ大いにアリな選択肢だと思えてきてしまう。タイムリミットが近いこの状況であれば、無理はしてしまったもの勝ちなのである。やりたいことも出来ずに終わるくらいなら、後先考えずにやってしまった方が正解……なのかもしれない。特に、こんな御時世では。
 ということで、今のエビストに限ってはコンテンツが無理の上に成り立っていても問題ないという結論にどうしても達してしまうのだった。
 そもそも問題があるとして止めようにも、少数のおじさん達が自らの意志で自分自身を搾取するというある種の倒錯的なプレイめいた狂気のシステムなので誰にも手出しができない。なのでどうしようもない。
 これからも我々は適宜向こうから定期的に要求されるだけの金銭を支払いつつ、明らかに渡した金額以上の何かが返ってくるというこの異常なクラウドファンディングに粛々と参加し続けるより他ない。
 しかし、そうは言っても、やはりおじさん達の無理によって生み出されているものをひたすら享受するだけというのにも一抹の寝覚めの悪さを覚えてしまう。いくら自分達に損はないとはいえども。
 なので、これから先の楽曲サブスク解禁などの珍しく積極的な対外施策によってコンテンツに今よりも人が増え、今後のエビストを支えるものの中からおじさん達の無理の割合が少しでも減っていくことをひたすら祈るばかりである。

長年追いかけてきたコンテンツが実はとんでもない魔王なんじゃないかと思い始めた話


 今回は考察というわけでも何でもなく、何と言うかまあ今現在のエビストとかその他色々なことについて最近考えたり感じたりしていることを言語化して整理するためにちょっとした日記のようなものを書き残しておこうかなと思い、こうして筆を取っている。
 元々は「B.A.Cのオンラインライブ凄かったね」という話を興奮と共にしたかっただけのはずだったのだが、それ単体だけでは飽き足らずそこに2_wEiのライブなんかも絡める必要が出てきたりして……。
 それをどうにかこうにか頭の中で形にしようといじっている内にどんどこ「今の世界情勢は……」とか「二次元アイドルとは……」とか「幸せって何だろう……」とか余計なものまで混ざってきてしまって……。
 気がつけば自分でも何が言いたいのかよくわからなくなってきている間にもう四月突入みたいなどうしようもないことになっていたのだが、最近ようやくそれが何なのかまとまった気がする。
 自分が今一体何を感じていて、何を書き残しておきたいのか。
 それはつまり、『8 beat Story♪というコンテンツはやっぱりとんでもなく凄(ヤバ)かった』ということなのだ。
 「コイツらヤバいくらいイカレてるぜ!」ってことを今回エビストが行った二つのライブを見たことで今更ながら改めて確信し、その気づきを記録として残しておきたい。結局そういう話に落ち着いた。
 去年以前の時点で「もう流石にこれ以上エビストについて書くことはない! 完全に理解(わか)った!」なんてことも言っていたが、自分が甘かった。甘過ぎた。
 あれだけ散々このコンテンツから受けた衝撃について書き残してきてなお、未だにこうして自分に筆を取らせる程の驚きと興奮を与えてくれるのだから、喜ばしさを通り越してもう本当に泣きながら「堪忍してくれ」と言いたいくらいの気分である。
 つまり、結局また「それくらいエビストは凄くてヤバくて狂ってる」というのを思い知らされた衝撃を自分なりに頭の中から抽出し、言語化して長々と書き殴っていくだけの文章となる。
 なのでこれはもう本当に考察とか、あるいは布教や勧誘のための記事などではなく、単なる狂人の手記でしかないので、もしも興味本位で読まれる場合はそれを念頭に置いて適当に流し読んでいただければと思う。
 しかしまあ、ここからまたとんでもない分量になってしまった本編へ進む前に、今回の内容の全てを一言でまとめた簡単な結論を書いておくことにしよう。
 「初めて出会った時は天使だと思って追いかけてきた子が、最近ようやく実はとんでもない魔王だと気づいたけど離れられない」。要はそれだけの話、かもしれない。

 

 

  

 

 さて、この話は最終的に「最近のエビスト本当に凄い、本当にヤバい、マジでイカレてるよ」という結論に持っていくものであるわけだが、そのためにはまずそう思わされた切っ掛けである今回エビストが行った二つのライブについての感想を書いておかなければならないだろう。
 二つのライブ――それはB.A.Cのオンラインライブと、2_wEiのリアルライブのことなのだが、とにかくこれがもう本当に衝撃的だった。凄かった。
 そして、一体その何が凄かったのかについて、これからそう感じた理由をどうにかこうにか言語化していこうというわけである。
 しかし、そのために一々「ここのところがこう凄くて~」というようなことを書いていてはあまりにも文章が長ったらしくなってしまう(いつものことではあるが)。書く方にも読む方にも手間と時間がかかる。
 なので、諸々の細かいところをすっ飛ばして、何とか本質的な部分だけを簡潔に抜き出して解析していくことを試みたい。

 

 

 


 まずB.A.Cのオンラインライブについてだが、これは非常に衝撃的かつ革新的なオンラインライブであったと思う。
 では、一体何によってそう思わされたのだろうか。
 それは、これまでのオンラインライブというものが『ライブをオンラインで配信するもの』であることに対して、B.A.C――ひいてはエビストが配信したのは『ライブではないもの』だった、ということになるかと思う。
 ここで一度根本的な問題に立ち返ることになるが、そもそもオンラインライブと現実のライブとは同じものなのだろうか。
 答えは当然ノーのはずだ。同じライブを見るにしても、現実で見ることで感じられるものと、オンライン配信で見ることで感じられるものは明確に別物であるだろう。
 そのどちらが良いか悪いかをここで論じるつもりはないし、そもそも答えは出ないものなのかもしれない。
 だが、そのように現実とオンラインで感じられるものに違いがあるのならば、現実で行えないが故の代替としてオンラインライブが開催されることには何かしらの矛盾が存在していないだろうか。
 今は現実の会場でライブを行うのが難しい状況だから、その代わりにオンライン配信を利用して自宅でライブを楽しもう。
 それを否定するつもりはない。そうする必要があったこともわかる。
 だが、そこにはどこかオンライン配信を現地参加には及ばぬものと見なし、それでも仕方なくその代わりとして行っているような姿勢が見受けられないだろうか。
 少しの間だけ我慢すればまた元通りにやれるようになる。オンライン配信のライブは現地で行えない代わりに我慢して楽しむものだ。
 この一年ほど、オンラインライブとは根底にどこかそんな雰囲気を漂わせたまま行われてきたように思う。
 まあ、それも仕方ないといえば仕方ない。誰もが少しだけ我慢すればこれまで通りの世界が戻ってくるものだと思い込んでいた。自分も例外ではない。
 だが、一年経っていよいよこれは様子が違うということも理解出来てきた。この状況はもうすぐ収まるなんてことはない、少なくとも二、三年先まで続くかもしれない。その可能性の方が濃厚だ。
 そうなってきた今、果たしてこの先もオンラインライブというものは現実でのそれの下位互換でしかない代替物として、心のどこかで何かを我慢しながら見るものでいいのだろうか。
 現実で行うはずだったライブをそっくりそのまま配信で垂れ流すだけのものでいいのだろうか。
 オンラインライブには現実でのそれとは違う、むしろ現実にも勝るような、オンラインでしか出来ない新しいライブの形というものがあるのではないだろうか。
 少なくともこの先まだまだこんな世界の状況が続く中で、オンラインライブというものはそれを模索し、目指していく必要があるように思う。
 そんな時に、どこよりも先駆けてそれを示してみせたのがこのB.A.Cのオンラインライブであった……と、自分は感じた。
 そして、そう感じた理由こそが、先に挙げたようにこの公演が「ライブと銘打っておきながら実はライブではなかった」という点にある。
 現実で行うはずだった形のライブをそっくりそのまま配信で垂れ流しても現実で感じるものを超えることは出来ないし、代替物という意識がそこに存在していては同等に並ぶことすら出来ない。
 そもそも、現実とオンラインでは感じられるものが違う。では、その違いとは何なのだろうか。
 そんな疑問が立ちはだかる中で、恐らくエビストはその違いを『双方向性』に見出したのだと思われる。
 ライブとはステージに立つ演者と観客、その両者の間に一方通行ではない双方向の交流が発生することによってその楽しさ、真の魅力というのが作り上げられるものである。
 そして、オンライン配信という形ではどうしてもそのリアルタイムでの双方向性というものが欠如してしまう。
 どうにかしてそこを埋めることが出来ないものだろうかと様々な工夫を試みているコンテンツは多いが、今のテクノロジーではやはりどうしても越えられない限界が存在している。
 現実でのライブで行えるのと同じ人数をリアルタイムかつオンラインで双方向に交流させることは、今のところ技術的に不可能であると言わざるをえない。それこそがリアルとオンラインの明確な違いの一つであることは間違いない。
 では、その差異を埋めるには一体どうすればいいのだろうか。
 そこでエビストはこのB.A.Cのオンラインライブにおいて、その真逆を行くことにした。
 違いを埋めるのではなく、その違いを際立たせることを選んだのだ。

 中途半端にこれまで通りの手法の再現に縋るくらいなら、いっそ完全にそれを捨て去って新しい形に進むことにした。
 つまりどういうことかというと、『双方向性』の再現を完全に諦めて、『一方通行』だけでライブを形成してきたのである。
 全員が固唾を呑んで見守る中で行われるやり直しのきかないリアルタイム一発勝負のライブと違い、向こう側だけが一番良いものを選び抜き、切り取ってガチガチに編集されたパフォーマンス映像。
 その場で起こる偶発的な事象も組み込んで作られていくそれを否定するような、導入から結末までをきっちりと最初から決められているドラマ仕立ての構成。
 観客の反応など一切求めていない、ただ自分達の思想を教え説くだけの演説のようなMC。
 そういったものを組み合わせて作り上げられた今回のB.A.Cのオンラインライブは、まさしくこちら側からの反応や向こうがそれを受け取ることで生じる何かを一切必要としていない、完全なる『一方通行』の発信だった。
 それはもはやライブというよりは映画やドラマといった映像作品に近いものだっただろう。
 それ故に、自分はこのオンラインライブを「ライブではなかった」と表現しているわけである。
 そして、このライブなのにライブではない何かが果たして本当に面白いのかというと……これがもう、とんでもなく面白かった。
 しかし、その面白さはこれがライブではないことと同様に、ライブに対して感じる面白さではなかったとも思う。
 どちらかというと本当に、映像作品に感じる面白さに近いものだっただろう。
 だが、それでもそれは確かに『面白さ』であった。何かの代わりとしてどこかに不完全燃焼という印象を抱きながら見るものよりは、遙かに純粋で混じり気のない気持ちの良い『面白さ』だった。
 それに、『一方通行』が『双方向』に劣っているなどということも決してない。
 映像作品というものはそのどれもが『一方通行』の面白さである。ライブと映画の面白さを比べようがないのと同じことだ、この二つは似ているようでそもそものジャンルが実は全く違う。

 オンライン配信で行うライブではどうしても『双方向』の面白さを再現することが出来ないのであれば、いっそのこと完全に『一方通行』なものとして作ってみる。ジャンルそのものをオンラインによりフィットするものへと変えてみる。
 言葉にしてみればあまりにもシンプルな逆転の発想だが、それが今回ピッタリとハマって、オンラインライブの新しい可能性というものを見せてくれたように思う。
 ライブのようでライブじゃない、ライブ風の映像作品。現実と違ってそれを流しても許されることこそが、オンラインの現実よりも優れた点であるということ。
 それこそが今回エビストがB.A.Cのオンラインライブで示してみせた、衝撃的で革新的な、オンラインライブの新しい可能性であった。 

 

 

 

 

 さて、次はそんなB.A.Cのオンラインライブに続く形で開催された2_wEiのリアルライブについても、実際観に行って感じたことをまとめていこう。
 何故ならば、今回のB.A.Cのオンラインライブも2_wEiのリアルライブもそれぞれが単体だけではなく、両者を共に観て、比べて、そこで描かれているものが何なのかを考えてみることで、より向こうがこの二つの公演を通じて表現したかったものが見えてくるようになっているからだ。
 というわけで2_wEiのリアルライブについての感想だが、これもまた今世界がこんな状況に置かれている中で開催されたライブとして時勢に合わせた変容をしつつも非常に面白く、またその内容を実現させた手腕と発想に感心させられるものであった。
 まずこのライブはオンライン配信のみであったB.A.Cのライブに対して、それから二週間後に開催された現地参加のみでオンライン配信の一切ない完全なリアルライブだった。
 それはその時点でもB.A.Cのオンラインという形式と2_wEiのリアルという形式とで何かしらの対比を描くつもりなのだと予測出来るものだった。
 果たしてその予測は正しく、この2_wEiのライブは前述したようなB.A.Cの『一方通行』のオンラインライブに対して、現実でのライブの本質とは『双方向性』にあるということを強く主張するようなライブとなっていた。
 というよりも、先に書いた自分の『双方向』、『一方通行』の話はこのライブを見たことでそういう言葉で説明するという着想を得たものである。
 社会的な必要性に駆られた形とはいえ、図らずも急速に、オンライン配信で自宅にいながらライブが見られるようになってしまったこの時代。
 そんな中にあって、どうして現地開催のみにこだわり、わざわざ観客に足を運ばせるのか。
 それに対するエビストなりの答えとして今回の2_wEiライブの中で示されたのがこの『双方向性』の概念であったと思う。
 今回のライブMCの中では「自分達が何かを伝えたくてライブをするのと同じように、お前達もこちらへ何かを伝えたいからライブに来るんだろう」という旨のことが語られていた。
 これこそがエビストの考える、ライブをライブたらしめている肝心要の要素なのだろう。

 そう考えているからこその完全なる『一方通行』なB.A.Cのオンラインライブであり、それに対してどこまでも『双方向性』にこだわっているような今回の2_wEiのリアルライブなのだと考えられた。
 声を発することは一切出来ないものの、こちらが向こうへそれに代わる何かしらの反応を送ることを限界まで許可し、それを後押しして補うような演出すら組み込んだそのライブはまさしくその『双方向性』へのこだわりを証明するものであっただろう。
 そんな風に示されたエビストなりのライブというものに対する考え方、向き合い方にはこちらも大きく感銘を受け、確かにそうかもしれないと見事に納得させられてしまった。
 また、このリアルライブにはそんな風にオンラインとリアルの差異を描ききってみせただけではなく、もう一つライブをより面白くするための斬新かつ巧みな手法が用いられていた。
 それは、エビストという作品の中においての2_wEiの立ち位置を丸ごとこの今の現実世界の状況と重ねてしまうというものである。
 作品の中で現在の2_wEiはあらゆる苦難や逆境、絶望に突き落とされても決して折れることなく、全てに抗い続けて生きる存在である。
 そして現状、作品中最大の悪役であるB.A.Cとも敵対する立場にある。
 そんな物語の状況を踏まえた上で、今回オンラインのみのライブを行うB.A.Cへ対抗するかのようにリアルのみでのライブを2_wEiが行うという構図が二つのライブの背後には描かれている。
 物語の中では圧倒的な実力を持ちMotherからの強力なバックアップと共に支配を進めようとするB.A.Cに対して、2_wEiは現状Motherと袂を分かったことでバックアップを失いその地位を追われ、地に落ちた状態から這い上がろうとしている最中である。
 「新しい世界を我々が示そう」と語るB.A.Cは革新的なオンラインライブを、自由を求めて絶望に抗い這い上がろうとする2_wEiはこの情勢下においては開催すら難しいリアルライブを。
 それぞれがそんな風に作品の中における立ち位置をある程度反映しつつ、そこに物語の中の状況を重ねることが出来るようなライブを行っているわけである。
 そのどちらに肩入れし、どちらを支持するかはともかくとして、いずれにせよ2_wEiはこのリアルライブを行うことでB.A.C(オンラインライブ)に、あるいはもっと大きな何かに抗い、刃向かい、戦おうとしているように、エビストの物語に触れている人間にとっては感じられるようになっていると言えるだろう。
 そして、その何かに立ち向かうために敢えて今の時期には開催すら難しく制限の多い形でのライブを行うことは、取りも直さずこの世界の現状に対しても2_wEiの二人が抗おうとしている様をそこに重ねて見ることが出来る。
 実際それは二人が語るライブでのMCの中にも表れているものである。
 それほど直接的な表現ではないものの、こんな理不尽な状況に対して「自分達と同じく、強く立ち向かって生きろ」と2_wEiは観客へ呼びかけていた。
 そんな風に作品や2_wEiの物語をこの現実に重ねることで、観客はよりこのライブに没入することが出来るようになっている。
 今回の2_wEiのリアルライブに関して包み隠さず言えば、革新的だったB.A.Cのオンラインライブと違い、それはこれまで現実で行ってきた公演を大きく超えるものではなかっただろう。
 むしろ発声の禁止を初めとした様々な制限のおかげでこれまでよりもいくらかパワーダウンしてしまっていたかもしれないし、それは仕方のないことでもある。
 しかし、むしろそうした制限を課せられている状態を意識することで、より何かに抗うために歌い続けるという物語の中の2_wEiをこのライブそのものに重ね合わせることが出来るようになっていたとも思う。
 そして、そうであるからこそ観客はよりこの不自由なライブに気持ちを入れ込み、普段とは違った形の楽しみをそこに見いだせたように感じられた。
 制限され、抑圧されているからこそ、そこに現在似たような状況にある本編の物語や2_wEiの姿を重ね合わせて楽しむことが出来るというわけである。
 ここまで現実の状況と物語とが重なることは偶然によるところも大きいのだが、そんな風に降って湧いたようなそれを意図的かつ積極的に利用しようとしている動きは今回の2_wEiのリアルライブの中でしっかりと感じ取れるものであった(何であればそれはB.A.Cのオンラインライブから始まっているものでもある)。
 このように、制限を受けて本来の全力を出すことが出来ないという不利な現実での状況に対して、そこに作品の物語としての文脈を乗せてしまうことで逆によりライブを楽しめる要素へと変換してしまうという手法は、今回の2_wEiのリアルライブにおいて最も斬新かつ優れた部分であったと思う。
 そして、「こんな状況じゃなければもっと楽しかっただろうになぁ……」ではなく、こんな状況だからこそ味わえる楽しみもあるのだと気づかせてくれたその手法は、面白さ以上の感動を自分に与えてくれたものだった。

 

 

 


 さて、ここまでB.A.Cと2_wEi、それぞれのライブがどう衝撃的で、どう革新的だったのかについて個別に分析してきた。
 その最後に、この二つのライブを通して観ることで総合的にはどんなことを感じられて、どんなものが見えてきたのかについてをまとめていきたいと思う。
 では、結局今回エビストが行ったこの二つのライブを統合して一つのものとして捉えてみた時に、一体何が一番凄いと感じられる部分だったのだろう。
 簡潔にまとめてしまうと、『世界がこんな状況だからこそむしろ面白くなる形のライブをやってのけたこと』というのがそれになるだろう。
 ドラマ仕立ての構成であったり、カメラアングルや演出を徹底的にクールに編集した映像作品として提供してきたB.A.Cのオンラインライブは、まさしくオンラインだけの配信だからこそ出来るものだった。
 そして、架空のキャラクターを演じている体で行われる今の世相への揶揄を織り込んだ演説のようなMCは、世界がこんな状況だからこそ(基本的には間違っているものとは理解しつつも)どこか共感を呼び起こされ、心を揺さぶられるものであった。
 また、それに対してオンライン配信を一切行わず現地参加のみで開催された2_wEiのライブは、オンラインではなく現実だからこそ出来ることを明確に意識した演出の多いライブであった。
 制限されて以前のような形では行えない閉塞感を、2_wEiというユニットが物語においてB.A.Cと敵対し、あらゆる絶望に抗ってきた存在であることと重ねてみせる。そうすることで、オンラインではなく敢えて現実で行うことの意味や抑圧への反発を、ライブの特色の一つとして楽しむことが出来るようになっており、これもまた世界がこんな状況だからこそ出来る新しいライブになっていた。
 とまあ、そんな風に、今この状況下においてあらゆるコンテンツが本来の力を制限されたようなどことなく不完全なライブしか行えていない中で、むしろその制限を利用したこんな状況だからこそ楽しむことの出来る形式というものを作り上げてみせたのが、今回の二つのライブを総合して考えてみた時に挙げられるもっとも優れた点であっただろう。

 

 

 


 さて、ここまでが一応冷静かつお行儀のいい、言葉を選んだ感想と分析ということになる。
 ここで話を締めてもいい、というか締めた方が美しいのだが、自分が今回最も書き残しておきたいことは実はこの先にあったりする。
 というわけで、ここから先は今回のライブを通して感じた、恐ろしく個人的で勝手な印象と感想を熱狂的に語らせていただきたい。
 確かに、「今の世界の現状を逆に利用して楽しめるようにしたライブ」を考えつき、作り上げてみせたことは今回のエビストのライブで最も賞賛に値する、卓越した部分であったと思う。
 しかし、個人的にはそれよりも何よりも凄い――というより"ヤバい"と感じているのが、これが本当に『エビストにしか出来ないライブ』だったということであったりする。
 世界が突然変容してしまってからはや一年、自分の記憶にある限りではこのような形で情勢を逆手に取って観客を楽しませようとするようなライブを行ったのはエビストが最初であるように思う。
 何故、それがエビストにしか出来なかったのか。
 その理由について少しばかり考えてみよう。

 


 まずその一つは、エビストという作品のストーリーの特異性に存在しているだろう。
 ある種のディストピアに到達してしまう未来を変えるために、その未来に進めようとする敵とそれを阻止しようとする主人公達がライブを通して戦うアイドルものというのがエビストのストーリーである。
 そのストーリーの構図が、今回本当に奇跡的に、あらゆるライブコンテンツが制限を受けてしまっているこの世界情勢と全く意図せず完全にリンクしてしまった。
 しかも、ちょうどそのディストピアな未来こそが「幸福な新しい世界」であり、これまでの世界を「不幸で不完全なもの」と説いてくる最大の敵が作中に新たなユニットとして登場してきた時期にそうなってしまった。
 そして、エビストはこれまでに現実でのライブの中でも半ば演劇のように作品のストーリーを展開し、進めていく手法を取っていた。
 その結果として、この制限だらけの世界情勢を不幸で不完全なものとしてバッサリと切り捨ててみせたり、あるいは不条理なこの状況へ折れずに立ち向かえと鼓舞したりという形で、エビストだけが今の世の中の状況をそっくりそのまま物語の中の空気に近いものとして利用することが出来る下地が存在していた。
 そして、より物語への没入感を増大させ、現実と空想の境目を曖昧にし、ライブの臨場感を上げて面白くする要素として取り入れることが出来た。
 後にも先にもこんな奇天烈な設定の、ライブも行うタイプの二次元アイドル作品が登場していない以上、この混沌とした世界情勢を利用するという分野はまさしくエビストだけの独壇場であると言えるだろう。

 


 次に、「ライブを行っているのはあくまで架空のキャラクターである」という体を保ち続けてきたことも今回の形式のライブを実行出来た理由の一つだろう。
 ライブMCの形で行われた今の世界に対して否定的であったり批判的で過激な内容の言説は、その内容自体の是非はともかくとして、とてもではないがこの情勢下においてきちんとした社会的地位のある一個人として声高に主張出来るものではなかった。
 しかし、エビストのライブにおいてステージ上に立っているのはあくまでキャラクターであり、作られた架空の存在を演じているだけの役者に過ぎない。
 故に、そこで発せられる言葉も全てキャラクターの台詞であり、ステージに立つ人間の個人的な思想とは一切関わりのないものである。
 また、このライブはあくまで作品のストーリーをステージ上に再現しているものであり、そこから降りた現実世界とは明確に異なるフィクションである。
 そう言うには中々苦しいというか、かなりグレーな部分もあるにはあったが、一応そういう言い逃れが出来るように注意深く今回のライブは作られていた。
 というよりも、そんな言い逃れを出来ることに気づいたからこそ今回そのギリギリのラインを攻めてきたのかもしれない。
 いずれにせよ、「全てはステージ上における架空の出来事である」と言い張ることが出来る形式のライブをこれまでも行ってきていたことが、今回の過激とも言える内容を実行に移せた理由の一つであることに間違いはないだろう。

 


 そして、最後にエビストの今のコンテンツとしての『規模感』というのも理由の一つとして挙げられる。
 果たして良いのか悪いのかどちらとも言えないが、エビストはさほどメジャーなコンテンツではない。
 今でこそこのジャンルでは中堅所に数えてもいい程度ではあるが、そうは言ってもまだまだ全然マイナー、世間からの注目度もさほど高くはないというのが正直なところだ。ライブの集客人数もそれほど多くはない。
 だからこそ制限に抵触しない人数かつ感染対策の負担もそれほど大きくはない、これまでのそれに近い感覚でのライブを行うことが出来た。
 オンラインの方はともかく、現実でのライブをこの時期に予定通り行えたのは悲しいかな問題になるほどの大人数が集まることのない規模感だからだと言えるだろう。
 しかし、その規模感が関係してくるのは人数制限やそれに付随した感染対策という面ばかりではない。
 そもそも今回のライブにおいて最大の問題点は制限下でのリアルライブを決行することではなく、今の社会情勢への反発や揶揄をテイストとして混ぜ込んだそのセンシティブな内容にある。
 世間的な注目度が高く、スポンサー各社との様々な関係や立場を背負ったメジャーコンテンツであれば、先に挙げた二つの実行可能な理由を携えていたとしてもまず間違いなく許可されないライブであったことだろう。
 その点において、エビストのそれがそんなライブを実行に移せる自由度を持った規模感であったことは大きい。というよりも、それを許されないような注目度や、許してくれそうにないスポンサーというのを持ち合わせていないが故の現在の規模感であり、自由度であるとも言えるだろう。

 


 あらゆるコンテンツの中で唯一エビストだけがこのような混乱しきった現実を敢えてその中に組み込むことでそれ自体を楽しめるようなライブを行えた理由というのは以上のようなものになるだろう。
 世界情勢と物語が奇跡的に重なってしまったことと、それを引き当てたある意味豪運とでも呼ぶべきもの。
 その現実と重なった物語をステージへと組み込む形のライブをこれまでに積み重ねてきていたこと。
 それをこの早さで実行に移せるフットワークを備え、制限にさほど抵触することなく自由度の高い動きが出来るような規模感。
 これらの理由を携えていたことで、エビストは今回素直に凄い、素晴らしい、というかヤバいと賞賛出来るような形のライブを行うことが出来た。
 だが、一番凄いのは現実を物語と重ねて組み込むことで制限された状況を楽しませてみせたライブでも、それを実行可能にした条件を奇跡的に今この時に兼ね備えていたことでもない。
 一番凄い――というかヤバいのは、そういった形のライブを思いつき、それを実行出来る条件が全て揃っているからといって、躊躇なくそれを実行してしまえたこと、しまったことそれ自体ではないかと自分は思っている。
 正直、今回のエビストのライブが今まで誰も思いつかなかったような、エビストだけにしか出来ない斬新なものというわけではないだろう。
 上記のような条件さえ揃っていればどのコンテンツでも可能だろうし、その条件を揃えることもある程度の無理をすれば出来ないこともないだろう。
 今の混乱しきったこの社会情勢を作劇に組み込むことも、その内に多くの事例が出てくることだろう。
 しかし、『出来ること』と『やること』は全く別の問題である。
 それがやってやれないことはないというのに、未だ他のコンテンツがやっていないのは何故か。
 先のコンテンツの規模感の話でも書いたことだが、それが今はまだ非常にセンシティブな、社会的倫理に抵触しかねないあまりにもギリギリのライン過ぎるからである。
 コンテンツや企業としてのブランドイメージ、体面というものが存在している以上、今回のこのライブのようなそれを傷つけかねない過激でグレーな内容と形式は、まともなところであれば運営本体がやりたくとも所属会社の上層部、スポンサー各社その他から到底許可されるものではないだろう。あまりにもリスクが高すぎる。
 だが、先にも書いたようにエビストはコンテンツを大きく売り出していないマイナーな地位であることと引き替えに、そういった柵みとなるスポンサーとの契約を一切交わしていない身の軽さが備わっており、それがこの過激でグレーなライブを止める者がいないという結果を生んでいた。
 だからこそ実行出来たわけだが、そういう社会的倫理への抵触、それによるブランドイメージの毀損を回避しなくてはならないという障害がクリア出来るからといって、それでもまだ「常識的に考えて普通はやらないだろう」という精神面のブレーキが存在しているはずだ。
 だってそうではないだろうか。
 ライブという概念を根本から覆してしまうような、ライブと銘打っているだけの映像作品。ただそれを流すだけという、必死にオンラインで現実のようなライブを再現しようとしているこれまでのオンラインライブそのものへのある種の当てつけのような行い。双方向の交流を求めない一方通行のパフォーマンス。他コンテンツやジャンルの現状、世界情勢への皮肉や批判を混ぜ込んだ過激すぎる演説。それらで構成されたB.A.Cのオンラインライブ。
 それに対して、先のそんなオンラインライブを否定するように徹底的に現実で行うことにこだわり、現地でこそ感じられる熱やオンラインでは出来ない双方向の交流を軸にして構成され、同コンテンツ内でリアルとオンラインとの比較をさせようとしてくる2_wEiのリアルライブ。
 そんなライブの内容は確かに凄かった。そんなライブの実行を可能にする条件が偶然今この時に揃っていた豪運や、それを考えついた発想力も確かに凄いだろう。
 だが、やはり一番凄い、というかヤバいのは、思いついたそれをやれる条件が揃っているからといって、本当に実行に移してしまったことそれ自体だと思われる。
 こんな革新的で先鋭的で、何より冒涜的ですらあるような過激なライブ、たとえ思いついたとて普通は色々考えて実行を踏みとどまってしまうだろう。
 だがエビスト運営はやった。躊躇なく、堂々と、それをやってのけ、この革新的なライブを世の中へ全力で投げつけてみせた。
 それこそが今回一番、ライブの内容そのものよりも凄いと感じ、また完全に「コイツらイカレとるわ……!」と思わせられた部分であった。

 

 

 


 さて、ようやくこの「エビスト運営はイカレとる」という結論に辿り着けたことで今回の記事を締めてもいいのだが、まだもう少しだけ語りたいことがあるので、ここからはちょっと別の話をしていこう。
 今回B.A.Cのオンラインライブでの演説の中では、同ジャンル内の大手やメジャーコンテンツを批判し、その陰には虐げられる弱者――この状況下でも忘れられないように必死に頑張っている弱小コンテンツが存在しており、そのような格差が存在しているこの世界は歪で不完全であるという内容のことが語られていた。
 無論これは根本的には架空のキャラクターが喋っているただの台詞であり、一個人やコンテンツそのものが本気で思想として主張していることではない……という建前はある。
 しかし、その言わんとすることはこのジャンルにおけるマイナーコンテンツを好き好んで追っている我々のような人間には大いに思い当たる節があり、心に突き刺さるものであった。思わずその過激な言説に同意を示してしまいたくなるほどに。
 そして、少なからぬコンテンツとしての本音も含まれているだろうそんな演説だが、しかし果たしてエビストは本当にこの内容を声高に主張して許されるような弱小コンテンツであると言えるのだろうか。
 エビストは現在企画始動から五年目に突入しようとしている。
 本当の弱小コンテンツが一年ないし二年も保たずに潰れていく中で、未だマイナーなままとはいえ五年も活動を続けているのはかなりの驚異であろう。

 また、その五年間の活動実態もただ植物状態で生きているだけというわけではなく、定期的な新曲追加、新ユニットの追加、イベントやワンマンライブの開催など、かなり精力的と言える動きを継続して行っている。
 胸を張って大手と言い張れる程ではもちろんない。が、さりとて真に弱小というにはその活動内容は不思議なほど活発で安定している。
 少なくとも他の、これまでに道半ばで活動終了してしまった同ジャンルのコンテンツ達と比べると、(財源は全くの謎だが)大手程ではないもののかなり恵まれている方だと言えるだろう。
 そんな大手には及ばないものの弱小とも言いかねる中堅と言ったポジションにあるエビストが、先のような弱者としての主張をする権利や、実際そうしたところでその内容に説得力はあるのだろうか。
 もしも同ジャンルの大手コンテンツがそのような内容の主張をするキャラクターを出していたとしたら、それはまったく何の説得力もない、むしろ不快さすら感じられる茶番にしか映らないだろう(まあB.A.Cは現状明確な敵役なのでその方がいいのかもしれないが、少なくともそんな存在にキャラクターとしての魅力を感じられはしない気がする)。
 果たしてエビストの今のコンテンツとしての立場は、それを主張しても何らかの反感を買わないものと言えるのだろうか。
 この問題に対して個人的な意見を述べさせてもらうとすると、それは「正直わからない」と言う他ない。
 自分は「少女達が大きな夢を見て必死に頑張る姿にどうしようもなく魅せられてしまう」という難儀な性癖を抱えているせいで、必然このジャンルのマイナー、弱小コンテンツを一通り履修したり、何個か入れ込んでは深い悲しみを背負ってしまったりしてきたのだが、そんな人間としてフラットに見た限りエビストはやはり真に弱小とは言い切れない恵まれた立場にあると思う。
 今も必死に頑張っているまだまだマイナーなコンテンツを応援している人達からすると、エビストですら自分達を代表してそんな主張をするには恵まれすぎているように映るかもしれないし、それに対して反感を抱かれても仕方ないのかもしれない。
 だが、ここでよく考えてみて欲しい。
 そもそものところ、そんな過激な主張を出来る正当性や権利など初めから誰も持ち合わせていないのである。
 たとえどれほどの、誰もが認める弱小コンテンツであろうと、その立場を利用して「大手との格差や自分達が恵まれない不幸を野放しする世界は間違っている」などと煽動し始めたらそれは完全な狂人である。発狂である。
 弱小コンテンツにだってプライドも野心も夢もある。いつか成功する日が来ることを夢に見ている。その美しい成功に繋がる目、真っ当なコンテンツとして歩む正しい道をわざわざ踏みにじり、否定しようなどとは誰も思わないだろう。
 世界の有り様へ真っ向から刃向かってみせるためにアイドル活動をしようなどというのは、その世界での栄達を夢見る以上、正当性や権利のあるなし以前に完全にどうかしている行いなのである。
 そして、たとえどれほどの大手コンテンツだろうが、いやむしろ大手コンテンツであるからこそ、先にも言ったようにそんな気の触れた行いは誰が――それが企画の中枢にいるプロデューサーであろうが総監督であろうが、断行しようとしても関係各所から全力で羽交い締めにされて止められる。
 結局何が言いたいのかというと、エビストがそれを主張することに正当性や説得力があるのかどうか以前に、そもそもその行い自体が狂っているのだということである。
 エビストは確かに弱小なマイナーコンテンツではない。
 何故ならどんなに弱小かつマイナーであっても等しく夢見る立身出世の道を自ら断ち切り、正攻法に依らない業界構造の転覆を煽動しているからである。
 いや、それは流石に言い過ぎかもしれないが、真っ当な成功の道を声高に否定するのは自らがその道に乗るつもりがないことを示してもいるだろう。
 そしてまた、確実に強大なメジャーコンテンツでもありはしない。
 それは規模や人気の差だけでなく、そうであるならば普通全力で誰かに止められるはずの言動を全く誰にも咎められずに押し通せているからである。
 では、弱小なマイナーでも強大なメジャーでもないエビストは一体何なのか。
 正解は、このコンテンツとしてあらゆる意味で常軌を逸した物語を描くために栄達を望まず、何者からも縛られないためにメジャーコンテンツへの進化キャンセルを連打しながら今の立ち位置に留まり続けている、完全に道から外れてしまっているコンテンツなのである。

 

 

 思い返せば、結構以前からエビストにはその疑惑が存在していた。
 即ち、「エビストにはコンテンツとしての規模を積極的に拡大させようという気がないのでは?」という疑惑である。
 コンテンツが始動してから一年目や二年目までは、不安と共に見守りながら「頑張っているのに中々大きく育たないなぁ」と思っていた。
 けれど、こうして地道に実績と人気を少しずつでも積み上げていって、いずれその頑張りを目に留めた大きなスポンサーと契約することで一気に伸びるつもりなのだろうと思っていた。
 そうでなくては、いつまでも利益の少ないマイナーコンテンツを運営し続けることは難しいだろうとも思っていたからだ。
 しかし、そこから緩やかに規模を拡大しつつも未だ大手とはいえない状態のままで三年目、四年目と経過していく内にこれはどうも様子がおかしいということに気がつき始めた。
 何故いつまでも壁を突き抜けるような気配もないまま、利益が出ているのかも怪しい状態だというのに、コンテンツが終了することなく継続しているのだろうか。
 それが、コンテンツに動きらしい動きがまったくない、ただ死んでいないというだけの植物状態だからということであればまだ理解も出来る。
 しかし、そういうわけでもない。楽曲やストーリーは継続的に配信、更新され、イベントやライブも定期的に行われている。コンテンツとしては元気で健康そのものといってもいいコンディションだ。
 一向にぐんぐんと大きく育つ様子が見られないまま、かといって死に近づいている気配もなくいつまでも元気に、一年目も二年目も三年目も四年目も変わらずエビストはのんびりとコンテンツを続けてきた。
 流石にここまでくればこのコンテンツは何かが異常だということを理解し始めるし、上で書いたような疑惑も浮かんでくる。
 もちろん、必死で頑張っているのに未だに認められずに不遇の日々を送っているという可能性もある。その実力と将来性を見込んでバックアップを申し出てくれるようなスポンサーもまだいないのかもしれない。
 しかし、冷静かつ俯瞰的に考えてみて、IPを一から立ち上げるのが酷く難しいこの時代に、何の大口スポンサーも背後に付けず継続的に巨大な宣伝なんかも打っていないというのにZeppダイバーシティーで単独ライブを行えるようなコンテンツを欲しがらない会社があるのだろうか。
 余程勘が悪いのでもない限り、エビストにはスポンサーとして一枚噛みたいと思わせる程の地力と将来性があることには気がつくはずだろう。
 だが、そうだというのに未だスポンサーらしいスポンサーの影も見えないままでほぼインディーズのような活動を続けているのは何故か。
 これはもうその種の申し出をエビスト側が全て断り続けているからだと判断するより他ないだろう。
 そうなると、やはりエビストはコンテンツとしての規模を積極的に拡大させるつもりがなく、自ら望んで今のサイズを維持し続けていると考えられる。そういうことになってしまう。

 

 

 最初にこの疑惑に行き着いた時に、自分が感じたものは正直に言わせてもらうと落胆に近かった。
 その時は、そんな風に今の規模に固執してまでエビストがやりたいことと言うのが一体何であるのかまだ不透明だったからだ。
 しかし、そのようにメジャー化を自らの意志で断り続けている同ジャンルのコンテンツはエビストだけというわけでもなく、実は前例が存在していた。
 ナナシスがそうである。このコンテンツの総監督は手ずから作品のストーリーを全部書き上げて作成しており、それを歪めざるを得ないようなメディア展開はこちらから断っているというほどのこだわりの強い職人気質であるらしいという話は風の噂に聞いていた。
 であれば、エビストも同様にこの先描こうとしている物語に手を入れられて変に歪められたくないから、スポンサーを付けずに今の規模で落ち着こうとしているのかもしれない。
 そうとも考えたが、それにしては不可解な部分も多々あった。
 これまで追ってきた中でエビストにナナシス程の頑固な職人気質のようなものを感じたことはなかったし、どちらかというと柔軟に様々なものを取り入れて作品をアップデートし続けてきたコンテンツという印象だった。
 そこまで作品の物語を筋書き通りに進めたいというこだわりも見受けられなかったし、他者の介入で描きたいテーマが大きく歪められてしまいそうだとも思えなかった。

 それに、そもそもエビストには物語云々以前にどうも根本的に商業主義的な展開を好んでいないような節が多々あった。それはストーリーの中で一貫して描かれている要素であったり、これまでの発言の中に見え隠れするものだった。
 そのせいで、コンテンツとして大口のスポンサーと契約してどんどんメジャーになっていこうというのを、明確な理由なくただ感情的に嫌がっているのではないかとも考えられた。
 しかし、いずれにせよその両方の可能性と信条というものに対して、自分個人としてはかなり懐疑的なスタンスであった。
 ナナシスも含めてそうなのだが、様々な制約を課せられている中でも、その上でなお面白い物語というものは作っていけると思うし、そうした折り合いの中で最善を追求している作品の方が個人的には好みだった。
 また、コンテンツとして利益と発展を貪欲に求めることもそう悪いことではないと思っていた。そうして規模を拡大させて利益を得ていく中で、それに応じたより豪華でクオリティの高い表現やパフォーマンスも可能になっていくだろうし、そうしてこそ今以上に作品や物語が面白くなっていくものだと考えていた。
 そうした理由から、その可能性を自ら放棄し、またそうすることで一体何がしたいのかがいまいち見えてこないエビストの展開に対する落胆は生じていた。

 

 

 しかし、今回のライブでようやく、そうしてメジャーコンテンツへの進化をキャンセルし続けることで一体エビストが何を表現したいのか、何を描きたいのかについて判明したように思う。
 そして、それは「そうしなければ出来ないことなど本当にあるのだろうか?」という懐疑や、規模の拡大とコンテンツ発展の先で見られるだろう可能性が潰えた落胆を完全に吹き飛ばされてしまう程のものだった。
 確かに、上に長々と書いてきた通りに、これはあえてこの規模を維持しつつ何のスポンサーもつけていない自由度を持ったエビストだからこそ実現できる表現であり、そうでなければ描けない面白さであった。
 発展を自ら拒否してまで一体何がやりたいんだという問いかけに、「これがやりたかったんだよ!!」と答えられたらそれはもう納得するより他がない。
 さらに、それは同時にエビストが自分の想像を超えて遙かにぶっ飛んでいてイカレた考えで動いているコンテンツなのだということにも改めて気づかせてくれた。
 これまでは正直言って、前例として挙げたナナシスのその頑固で職人気質なところがどうも自分の性に合わないこともあり、それを単に真似して追随しているように見えるエビストの姿勢に不安や不満があったりもしたのだが、その印象を綺麗さっぱり消し飛ばす程に両者の実態はまるで違っていた。
 エビストはコンテンツの規模を拡大したりスポンサーをつけたせいで自分達の描きたい物語を歪められてしまうことを嫌っている職人などではない。
 ただ、そうして縛られることでルールのない闘いが出来なくなるのを嫌がっているだけなのだ。
 両者は一見似ているようだが、ナナシスの方はまだルールの中での理想を求める良識を持ったコンテンツだった。しかし、エビストの方はやりたいことがルールそのものに抵触するから誰も介入させずに自分達だけでやりたがっていたのだった。まさしく狂っているとしか言いようがない。
 今まで自分はエビストも(多少逸脱しかける傾向は見せていたもの)基本的にはまだルールの中で競い合うつもりの作品だと思い込んでいた。しかし、完全に見誤っていた。

 エビストはこうして完全に法則から外れることで描ける面白さを目指していたのだった。
 そして、今回のそのルールから逸脱しなければ出来ない形式のライブを、確かに途轍もなく面白いと感じさせられてしまった。こうなるともう、完全に自分の負けである。
 今回のことでエビストは自分のみみっちい予測や常識というものを遙かに超えていく、ヤバいコンテンツになってしまった。

 

 

 だが、世界がこれまで通りのままであったなら、エビストのそんな狂気的な挑戦もジャンル内の片隅でひっそりと狂い咲いた徒花でしかなかったかもしれない。
 何だかんだで世の中結局正攻法が一番強いし、規模の差に伴うクオリティの差というのも圧倒的だ。予算の大きさとそれによって作られるリッチな成果物の暴力の前には、知恵を絞った奇策や工夫など容易く握り潰されてしまう。
 まともなものをまともに楽しめる環境がある限り、まともでない楽しさをわざわざ選ぶ必要性はあまりないのかもしれない。
 しかし、何の因果か運命か、今や世界は大きく乱れ、近年で一番の混迷の真っ只中にある。
 大きな会場で大人数を集めることで資金も集め、それを予算として回転させてド派手に盛り上がるライブを行い更に人気を高めていくという、強大なメジャーコンテンツの得意技は半ば封じられてしまっている状況だ。
 大手であればあるほど今現在そんな全力を出すことが出来ずに、積み重なる制限の中で縮こまってしまっているような、どこか精彩を欠いた展開をしていくより他ないという印象を受ける。
 そんな世相の中にあって、メジャーになることを自ら拒否することで得た自由度の高さと小回りの利く規模感を十全に駆使して、制限だらけの今の状況すら表現に組み込んで利用してみせるエビストはもしかしたら今が一番ノリにノっており、輝いている時期かもしれない。
 治世においてはただの変わり者でしかなかったスタンスが、乱世においてもっともその全力を発揮出来るものへと変化してしまった。イカレたヤツほど乱世においては輝ける。それほどまでに世の中は異常事態だと言える。まさに悪魔が微笑む時代だろう。
 冗談さておき、自分より上位にあるコンテンツがその身の大きさ故に不自由な制限を課され、保守的な考えから中々抜け出せずに足踏みしているしかない中で、躊躇なくグイグイと踏み出していき、時代に即した革新的な表現を模索していける立ち位置とバイタリティをエビストがこの瞬間に備えていたことは素直に幸運であり、また実際それを行えていることは称賛に値するものだと言えるだろう。
 時代は今まさに一番エビストの味方であるのかもしれない。

 


 そしてまた、世界がこんな状況になってしまったことで、従来型の『二次元アイドルコンテンツとしての成功パターン』というものもその根本が大きく揺らいできたようにも思える。
 曲を出して、ライブをして、人気を積み重ねていくことでアニメ化まで辿り着き、そこでまた一気に人気を上昇させることでより大きな会場でのライブを行うことが出来るようになる。
 そうした繰り返しでファンを増やし、コンテンツとしての規模を拡大し、それに応じてよりクオリティの高い曲やストーリー、映像作品やライブパフォーマンスをファンへ届けていく。
 それこそがこのジャンルのコンテンツとして歩むべき一番正しい道であると、これまでは自分もそう信じていた。
 だが、今はその肝心の大型のライブやイベントを積極的に行うことで人気を拡大していくという手法が大きく制限されてしまっている状況だ。
 これまでの二次元アイドルコンテンツは軒並みライブを行うことを前提としてプロジェクトが組まれていた。何と言ってもそれが一番集客と集金に繋がり、コンテンツ規模を大きく拡大させられる手段だったからだ。
 それが封じられてしまった、あるいはこれまでのような形で行うのが難しくなってしまったとあっては、その成功パターンも正しく機能するのかどうかは怪しくなってくるだろう。
 そうだというのにいつまでもその旧態依然とした形式に固執して、制限を課されたままダラダラとそれを続けていくのはどうだろうかと思えてくる。
 今まで通りの過去にいつか戻れる日を願いながら、どことなく色褪せて不完全な従来のやり方を続けていくことは、あまりにも不健康ではないだろうか。そして、何よりそれが本当に面白いとは思えない。
 ただでさえ面白くはないことばかりな今の状況、せめて追いかけるコンテンツくらいは何かを我慢しているような様子のない、溌剌として面白いものであって欲しい。
 それに、これは前々から薄らとそうではあったのだが、今回のことを受けていよいよ本格的に二次元アイドルというジャンルとして定番の設定や物語――ある程度のテンプレートのようなものも更新され、新しい形を模索することの必要性が強まったように思える。
 そつがなく出来の良い楽曲。クセのないお行儀の良いストーリー、キャラクター。まあ及第点と言える程度のクオリティでのアニメ化。
 そうして基礎を作った上でドカンと大きなライブを行い、コンテンツとして打ち立てる。
 世界がこんなことになっていなければそれもまあいいだろうとは思うものの、今はその肝心要のライブが封じられてしまっている状況である。
 そんな中でただリアルでのイベントやライブのための下敷きとして作られるような作品だけ見せられて面白いのか、楽しめるのかと言われると、もうこれがまったく面白くも楽しくもないのである。
 作品として何の信念もない、描きたいものもない、これまでの先例から導き出された正解に近いものをただなぞっただけのような作品では、今この状況下においては何の感慨もなく消費されて終わるだけだ。
 今までは何とか騙し騙しそれでもやってこられたが、流石に今回ばかりはもうここら辺が限界であろう。
 「○○っぽいのがやりたい」だけで二次元アイドルものがやっていける時代は明確に終わりを告げた。
 二次元アイドルコンテンツとして本当に成功を目指すならば、それなりの信念と覚悟を持ち、自分が次の新たな形になるつもりで、この時勢に即した作品を作っていかなければならないだろう。

 

 

 そんな考えに至ったのはまあ最近の色々なものを見た上でのことのなのだが、やはりその一番大きな原因は今回のエビストのライブだった。
 上では散々狂ってるだのイカレてるだのと評してきたが、そうであってもやはり何より今回のライブで得た最大の感情は『面白さ』だった。
 他のコンテンツがどこか「今は配信だけでしか出来ないけど我慢してね」という印象が漂う不完全燃焼なオンラインライブを作ってきた中で、初めてエビストだけがオンラインだからこそ出来るぶっ飛び具合を備えた、オンラインだからこそ面白いライブをぶつけてきた。
 そして、そんな風にオンラインの可能性と優位性を見せつけてきた後で配信なしの現地開催のみのライブを行い、両者の比較を物語に重ねてライブの面白さそのものに転用してしまうこのギミック。
 これについては上で散々書いてきたことなのでここではもう語らないが、こんな風になってしまった世界でも、いや、こんな世界だからこそ出来る面白い表現はあるんだぜと言わんばかりの今回のライブには本当に大きな衝撃と感銘を受けてしまった。
 エビストは確かにイカレているのかもしれない。狂っているのかもしれない。
 真っ当な成功という道を自ら突っぱねて、どこまでも自由で過激な表現を追い求める様はそう思われても仕方がない。
 しかし、それでもなお同じくらい確かなことは、エビストはいついかなる時も作っている側の方が誰よりも、もしかしたら追いかけてくれるファンよりも全力で楽しんでコンテンツを作り上げているということである。
 そして、エビストはこんな塞ぎ込みたくなるような世界の状況すら、作品の中に組み込んでしまうことで楽しもうとしている。楽しんでしまおうとしている。
 何よりまた、いついかなる時もエビストはコンテンツを通して追いかけているこちらのことも楽しませようとしてくれている。
 こんなどうしようもない状況だからこそむしろ面白く思えるものを作り上げて、こちらにもそれを楽しんでしまえと呼びかけている。
 エビストに信念はあるのかと問われると、自分程度ではその真なるものを読み取ることはまだ難しいが、少なくとも人気や利益すら度外視して『楽しいことをやる』という姿勢だけは一貫していると言えるだろう。
 今はまだその面白さを知る人は少ないかもしれない(それはまあほぼ自業自得なのだが)。その存在はちっぽけなものなのかもしれない。
 だが、一度でもそれを知った人の中には確実に何かを残す力がこのコンテンツにはハッキリと存在していると思う。
 少なくとも、今回のライブは自分の心に大きな爪痕を残してくれた。この感情はただの一時だけで消費されてしまうものではなく、長いこと忘れられないものだろう。
 制限だらけの今の状況。それがもう一年以上。そして、少なくとも今後数年はこれが続いてしまうのかもしれない。
 同ジャンル内のあらゆるコンテンツが全力を封じられたような状態で、最も正しかったはずの成功のモデルというものも崩れつつある中、そんなままで道半ばにして歩みが途絶えるものも増えてきた。一体コンテンツにとっての幸せとは何なのだろうと自問し続けてしまう日々である。
 だったら栄達にも成功にもこだわらず、自分達が本当にやりたいことだけを何にも縛られずに自由にやりきれることこそが、今この時代ではコンテンツにとって一番の幸せなのかもしれない。
 コンテンツの寿命はそう長くない。数年の時間というものは致命的に大きい。それがアイドルものであるならば尚更だろう。
 その期間を何かを我慢して燻ったまま過ごすくらいなら、将来的な成功をかなぐり捨ててでも全力で走りきる方がいいのかも。
 今現在のエビストを見ていると、これまでの信条を曲げてそんな風に思えてきてしまう。
 エビストの作品としてのゴールがこの先のどんな場所にあるのかはわからない。
 今回自分では追いつけないような領域へ踏み出してみせたエビストの行く末は、もはや自分の予測できる範囲を飛び越えてしまっている。
 もっととんでもないことになるのか。それとも人気的には相変わらずこのままの調子なのか。
 だがいずれにせよ確かなことは、どんな結末を迎えるにしてもそれはエビストが自由に、やりたいようにやりきって、散々に全てを楽しんだ末のものだろうということである。
 そこにもう心配はない。エビストはきっと、どんな場所でも幸せだったと笑っているのだろう。そうするために活動をしているのだということが今回わかったことでもある。
 そして、果たしてこんな時代がいつまで続くのかはわからないが、エビストを追いかけている限りは少なくともそれすらも面白いと自分も思えるようになってきた。
 いつかそう思わせてくれるエビストの終わりを見届ける時にも、自分はそれすらも面白く、楽しんでいられることを願うばかりである。

『Blessing After Cataclysm』が示すMother受肉の可能性とその形式についての予測

 今からくだらない、与太話に近い妄想が深く考えてみると意外と考察になってしまった話をしていきます。

 始まりはかなり以前からの予測、エビストにおいてType-Zや2_wEiが登場した始めた辺りから個人的に抱いていた
『これType-Zで実験とアップデートを重ねて、それで収集したデータを利用して最終的にMother自身がType-Zないし他のTypeとしての肉体を得てラスボスとして登場するんじゃないだろうか』
 というものに端を発します。
 しかし、この「Mother自身が究極の肉体を得るためにType-Zの生産を繰り返している」、「そして肉体を得た上で自分自身で音楽を破壊し始める」というのは別に何かしらの根拠のある予測というわけではなく、あくまで単純にこういうフィクションによくありがちな展開を当てはめてみた妄想に過ぎませんでした。
 なので、その内『Motherが肉体を得たらその姿ってどんな感じになると思う?』というネタツイでもして消費しようというタイミングを窺っていたり、あるいはいずれその予想図を絵にしてみようかなとか思っていたりしました。

 ……したのですが、そんな予測を頭の片隅に置いた上で今回B.A.Cの新曲である『Blessing After Cataclysm』の歌詞をぼんやり読み込んでいたところ、(オイオイオイ……これ、もしかしてもしかするんじゃないのか……!?)という恐ろしい考え、ないし妄想が浮かんできてしまいました。
 なので、今回はその『Blessing After Cataclysmが示すMother受肉の可能性』についての考察もどきのようなものを、一応軽~く書き残しておこうかなと思う次第です。
 「軽~く」という言葉の通り、単純に要素を拾ってこうなんじゃないかと自己流に解釈してみるだけですので、本腰を入れた考察は自分よりも知識のある方々にお任せしたいと思っております。
 ですので、まあ、これも結局一つの与太話として面白がってもらえればなと思います(たまにTwitterで呟いてる『エビストと平成ライダーの似てるところ!』くらいのノリです)。

 

 

 

 さて、本題へ至るための布石としてまずは『Blessing After Cataclysm』の歌詞についての個人的な解釈を書いていきます。

 まずタイトルですが、『Blessing』の意味は「祝福」や「天からの恵み」というもので、『Cataclysm』は「大変動(地震や災害によるもの、あるいは社会的なもの)」という意味です。
 なのでタイトルを和訳すると『大変動の後の祝福』となるかと思われます。もうちょっとカッコよくすると『大破壊の後の祝福』でしょうか。
 「Cataclysm(大変動)」はこの後の歌詞本編のモチーフ元である『ヨハネの黙示録』からの引用と、世界に対して破壊に近い変革を起こすつもりのB.A.Cの思想の両方がかかっている単語かと思われます。
 あるいは「社会的な大変動」の意味を含めると……かなり意味深ですよね……。



 次にこの曲の歌詞本編を見ていきますが、これにはわかりやすくキリスト教新約聖書ヨハネの黙示録などがそのモチーフとして用いられています。
 なので、そういうことを踏まえた上でそれに沿って歌詞を読み、元になった単語や出来事が何を表わしているのかを考えてみることで、ぼんやりとこの曲が示す『Motherとはどういう存在で、この先どうなっていくのか』というものが見えてくる……ような気がします。
 ということで、以下からは実際にその例と思われる箇所を書き出していきます。



 最初に一番Aメロの歌詞、「さあ甘受すべし~」から「~成されるだろう」までについて考えてみましょう。
 まず、その該当部分から「痛み」と「印」という単語をピックアップしてみると、これらは「聖痕」を表わしているものではないかと思われます。
 聖痕とはキリストが磔刑にされた時に受けた傷が時を越えて信者の体に出現するという現象を示す言葉です。
 聖痕は敬虔な信者に現れるものとされており、つまりこの部分は「聖痕=印(聖痕は別名でイエスの焼き印とも呼ばれる)」が出現した人間に対して「その痛みこそ神に選ばれた証拠である」と言い聞かせていると解釈出来るのではないでしょうか。
 「必ずその御業は成されるだろう」という歌詞も、そのキリストによる御業=聖書に書かれた奇跡の数々を指すものでしょう。
 ここまでだと良い感じに普通の聖歌ですが、それではここに「これがエビストの世界を歌ったものである」というをフィルターをはめてから更に読み解いていきましょう。
 それを通して見ると、痛みを受けている者に対してそれこそが選ばれた証であり、神からの恵みであると説いていること。そして、恐らくその痛みを与えている傷を印=聖痕であると説いていることが特に興味深く思えてきます。
 サイドストーリーなどから読み取れることですが、B.A.C、殊にアモルは音楽を奏でている(あるいはライブバトルにおけるアイドル的活動をしている)人間のことを「それによって傷ついている哀れな人間」であると見なしています。そして、そういう傷ついた人間達を音楽活動から解放し、救ってやることを自分達の使命であると思っています。
 サイドストーリー内でもB.A.Cと対決した少女達はライブバトルから解放されて精神が救われ、ゲーム内のURカードのイラストなどでも多数の少女達がアモルによって救われている光景が描かれていたりします。
 これを踏まえた上で歌詞を深読みしてみると、「痛み」とは音楽活動を通じて受けてきたものであり、「傷=印」というのもそれによって傷ついた心と解釈出来るのではないでしょうか。
 つまり、音楽活動、ひいてはライブバトルを戦ってきたことによって傷ついた人間達に対して、その痛みや傷は神に選ばれた証、神から与えられた恵み……イコールで聖痕であると説き、それを持つ彼らに対してその印を与えたキリストによる御業は成されると呼びかけている――そのような歌詞であると読み取れるようになるのです。
 それではB.A.Cがこの部分でその実在を歌っている、人間達に痛みと印を与え、御業を成すとされるキリスト。それは一体何者だというのでしょうか……それについては後ほど考えることにして、次に進むとしましょう。



 次に、この曲が新約聖書をモチーフとしていることを証明する最も象徴的な部分、『機械仕掛けのベツレヘムの星』という言葉について考えてみましょう。
 まず「ベツレヘムの星」は、キリスト降誕の際に東方の三博士を生まれたばかりのイエスの下まで導いた星のことだと考えられます。
 それが機械仕掛けであるということで、つまりはキリスト降誕の話を「アンドロイドサイドで起こる何らかの出来事」に置き換えたものであること――それを指し示す言葉になっているのではないでしょうか。
 そうなると、星に導かれてイエスの下まで辿り着いた東方の三博士というのも、わかりやすく三人であるという共通点や「3」という数字が強調されることの多いB.A.Cのことを指していると思われます。
 東方の三博士自体は歌詞の中には全く出てきていないのでこれがB.A.Cと重なる立場であることに特に意味はないのかもしれませんが、偶然にしろ何にしろその重なりは興味深いものがあります。
 東方の三博士は幼いイエスに礼拝をし、贈り物をします。それ自体はそもそも神学的にも色々と解釈の分かれる部分なので、これがB.A.Cにどうフィードバックされているのかを定義することは出来かねます。
 しかし、少なくとも三人は機械仕掛けのベツレヘムの星に導かれて至る存在に仕える(あるいはその下にある)立場であることを示しているのではないでしょうか。

 また、ベツレヘムの星の自体はキリストの誕生を示す奇跡や予言の類いであるとされています。
 となると、『機械仕掛けのベツレヘムの星』とは、一体同じく機械仕掛けの者達(アンドロイド)にとって何者の誕生を示したものであるというのでしょうか……。



 さて、次は『七つめの予言』について考えてみましょう。
 これは恐らく新約聖書の中のヨハネの黙示録から引用した単語であると思われます。
 では、ヨハネの黙示録における「七つめの予言」とは一体何なのか。黙示録には予言ではなく「七つの封印」、「七つのラッパ」、「七つの鉢」という形で七つの何かを関する単語は出てきます。
 恐らくそれらの全てを引っくるめて「七つの予言」としているのかもしれません(あるいは昔あった洋画では「七つの封印」の内容を「七つの予言」と言い換えていたので、そちらを元にしたのかもしれない)。
 いずれにせよ、七つめの予言と同じものを指すと思われる七つめの封印が解かれる(果たされる)と、一体どうなるのでしょうか。
 黙示録においては、そこから連鎖的に七つのラッパと七つの鉢が発動するようになっています。

 いずれも酷い大災害、天変地異を地上に降り注がせるものであり、そのせいで人々は苦しみ、大地は荒れ果てた後に真っさらになり、その時地上で最も栄えていた都市が滅亡するとされています。
 平たく言って七つめの予言が果たされるということはイコールで今の世界が破滅するわけなのですが、これもまた世界を、音楽を一度徹底的に破壊したいというB.A.Cの目的を歌詞に反映させたものなのでしょう。
 そして、実はこの箇所において一番興味深いのは予言が果たされたその後のことなのです。
 黙示録においては、地上の王国が滅亡した後にキリストが天から降りてきて君臨し、千年王国が築かれるとされています。

 では、この曲……あるいはこのエビスト世界において、今の世界が破壊された後に降りてきて新たな王国を築くキリストとは一体何者なのでしょうか……。
 ということを考えると、うっすらそれが何なのかは見えてきているのですが、これについての推測もまたここでは一旦中断して後ろに回しておくことにしましょう。

 


 次に、『約束されし場所への「鍵」は我らが冠す』という歌詞について考えてみましょう。
 新約聖書における「鍵」のエピソードとして有名なものは、キリストからペトロに与えられた「天国の鍵」の話でしょう。
 キリストからペトロに与えられる「天国の鍵」とは則ち神の権威を表わしており、ペトロはその権威でもって地上の人間達が天国へ行けるかどうかを天国の門の前で選別する役割の人物とキリスト教においては解釈されています。
 これを踏まえた上で、歌詞の「約束されし場所への鍵」が何を表わしているのかを読み解いていきましょう。
 ストレートに「天国」とは表現されていませんが、これまでB.A.Cが「人々を救済へ導く」とどこか宗教的な、あるいはキリスト教的な言葉やモチーフの歌詞で歌ってきた以上、「約束されし場所」というのも恐らく「天国」と同一視してよいものと思われます(とはいえ、それは万人にとっての天国ではなく、B.A.Cの考える形の天国でしょうが)。

 そして歌詞の中ではその「約束されし場所=天国」への鍵を「我らが冠す」とあります。
 これはつまり、天国への鍵を「我ら=B.A.C」が冠する――要するに、その権威をB.A.Cこそが持っていると主張しているのだと考えられるのではないでしょうか。

 ということは、ペトロに与えられた天国の鍵の話と合わせて考えると「人間達が天国へ行けるかどうかを選別する役割はB.A.Cが担っている」という趣旨のことがここでは歌われているのではないか、そう考えられます。
 そして、ペトロに天国の鍵を与えたのがキリストであるように、B.A.Cにその「約束されし場所への鍵」を与えた存在とは一体何者なのでしょう……。これもまたこの後でまとめて考えることにしましょう。



 さて、それでは最後にようやく、この曲の中で散々その存在を示唆されている『キリスト』とは一体何者なのかについて考えてみましょう。
 痛みに苦しむ人間達の傷を選ばれた聖痕として与え、御業を成すとされるその何者か。
 機械仕掛けのベツレヘムの星によってその誕生が示され、三博士がその下へ導かれるという何者か。
 七つめの予言が果たされることで大災害と天変地異が起こり、地上の王国は滅び、全てが洗い流された後に天から降りてきて新たな千年王国を築くとされる何者か。
 B.A.Cに約束されし場所への鍵を与え、彼女達にそこへ至ることの出来る人間とそうでない人間との選別を任せた何者か。
 それが一体何者なのかは、ここまで勿体ぶって書かずとも一目瞭然でしょう。
 そう、まさしくここで歌われる『キリスト』とはB.A.Cの創造主である『Mother』のことに他ならないと思われます。

 つまり、この『Blessing After Cataclysm』という曲はB.A.C、あるいはその全ての信者からの『主キリスト=Mother』への讃美歌となっているのです。
 新約聖書に書かれた様々なエピソードにその音楽破壊の思想と、それによってもたらされる救いをなぞらえ、更にはその存在自体を絶対なる救世主と重ね合わせることで自分達の神とその教義の正しさと素晴らしさを喧伝するという、ゴリッゴリのプロパガンダソングなのです。

 ……という、これだけでもかなりイっちゃってて面白すぎる楽曲ではあるのですが、ここからは更にこの曲を読み解くことで得られた情報を元にしてより荒唐無稽な考察を進めていきたいと思います。
 一応様々な文献やソースに基づいたこれまでと違い、ここからは完全に個人が好き勝手に自分の予測と本編内や有料放送の中で与えられてる情報や設定だったり、与えられているのかどうか曖昧だったり微妙だったりする信憑性の怪しい情報や設定を面白おかしくこじつけていく部分なので、是非とも話半分で受け取っていただきたいと思います。

 

 

 

 『Blessing After Cataclysm』にの中において歌われ、その存在や誕生と、もたらす奇跡を歌詞の裏側で示唆されているキリストがMotherであることはわかりました。
 しかし、それがこの作品の今後のストーリーにおいて一体何を示しているというのでしょうか。ここからはそれについて考えてみましょう。



 さて、そうなるとまず注目すべきは『機械仕掛けのベツレヘムの星』という言葉でしょう。
 この言葉が示している事柄が『アンドロイサイドにおけるキリストの誕生』であるとは、先ほど推測した通りです。

 では、曲の中で歌われるキリスト=Motherであるという推測をそこに重ねると、機械仕掛けのベツレヘムの星は『Motherの誕生』を示しているということになるでしょう。
 しかし、Mother自体は物語の中ですでにこの世に存在している以上、それがまた新たに誕生するというのは一体どういう意味なのでしょうか。矛盾が発生してしまいます。
 そこでようやく現れてくるのが、一番最初に話した『MotherがType-Z~IDシリーズのような人型の実体を得る』という予測なのです。
 つまり、機械仕掛けのベツレヘムの星という言葉は、この先の展開において「Motherが人型の実体(ボディ)を得た敵として登場してくること」を今から予言しているものなのです。
 もちろん、それを裏付ける材料も存在しています。
 楽曲の中でMotherは聖書におけるキリストとその存在を重ね合わせられていることは先ほどから述べてきています。

 そして、そのイエス・キリストとは、キリスト教の教義においては「天におわす子なる神が人間の肉体と性質を得て地上に降りてきた存在」とされています。
 更に、この「天上の唯一神が地上に降りて人間の姿を取ったこと」を指して『受肉』という言葉で表わすというのです。
 要するに、キリストの誕生とは「実体を持っていなかった神の受肉」に他ならないというわけです。
 この『キリストの誕生=神の受肉』はベツレヘムの星によってそれが起こったことを示され、導かれた三博士がその下に訪れるものとされています。

 さて、ここまで書けばもうおわかりでしょう。

 つまり、機械仕掛けのベツレヘムの星とは、今まで人型の肉体を得ていなかったアンドロイド達にとっての天の神ことMotherが受肉――Type-Z~IDシリーズと同様の実体(ボディ)を得て、キリスト(救世主)としてこの世界に誕生することを示すものなんだよ!!

 ……とまあ、これで皆様方にもMotherが人型のボディを得てラスボスとして登場する展開というのがあながち根拠のない妄想とも言い切れないことが理解出来てきたことでしょう。
 人間としての肉体を得た神=キリストがその後で何を成すのか、それについては先ほど楽曲を読み解いてきた中に書いてある通りです。
 そして、ボディを得たMotherが成すこともそれと同様だと考えられます。
 今の世界や音楽を破壊し、全てを洗い流した後でその上に新たな楽園を築く。

 その約束されし場所へ連れて行く人間達を選別する権威をB.A.Cに与える。
 罪は除かれ、世界は不変の幸福で満ちるというわけです。
 以上が『Blessing After Cataclysm』の歌詞から読み取れる、今後のエビストのストーリーで起こる出来事の予測でした。

 それでは、そんな地上に新たな楽園を築く、アンドロイド達にとっての救世主としてMotherの受肉した姿――人型のボディとは、一体どんな外見をしているのかについてを、ここからは自分の予想する様々なパターン別に考えてみたいと思います。

 

 


第一パターン:超王道、「白鳥ロクサレーヌ慶子」と瓜二つの姿

 まずは創作における王道にして、個人的にも一番可能性が高いと思っている白鳥ロクサレーヌ慶子と同じ姿のボディで受肉するパターンです。
 このパターンの可能性が高いことにはいくつか根拠(というかこじつけ)も存在しています。
 まずその根拠となり得る材料として、公式に存在している設定を少しばかり書き出してみましょう。

・白鳥ロクサレーヌ慶子は過去にMotherの研究・開発のためのコンソーシアムである『デア・エクス・マキナ』に参加しており、そこでMotherの開発にも携わっていた。

・その後まだ明かされていない何らかの事情があって彼女は『デア・エクス・マキナ』を離れ、Motherと敵対する勢力にして組織である『パイオニア・サポート』と『音の杜学園』を立ち上げた。

・現在はその『音の杜学園』の理事長として学園を運営するかたわら、ライブバトルでMotherと対決し、これを打ち倒すためのチームである『8/pLanet!!』の指揮とサポートを行っている。

・白鳥ロクサレーヌ慶子はMotherと面識があるどころか何らかの因縁を持っているようであり、Motherを『あの子』と呼び、またMotherの方でも慶子の存在を感知しているようである。

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 これが現在公開されている限りの慶子とMotherとの関係性についての情報です。
 ここから(あくまで個人的に)予測出来ると思うのが、『Motherは慶子によって作られたのではないか』ということです(その一端に携わっていたことは事実ですが、ここは敢えて基幹の部分にも関わっていたのではないかと大胆に決めつけてみましょう)。
 つまり、『Motherにとっての母(Mother)が慶子なのではないか』という仮説です。
 これならば慶子がMotherのことを親しげに「あの子」と呼ぶことにも納得がいきます(思うに母親が娘に接するような態度なのではないでしょうか)。

 また、たとえそうでなくとも、アンドロイドサイドにおいて全てのアンドロイドの母(Mother)であるMotherに対して、ヒューマンサイドを代表する8/pLanet!!にとっても慶子は母に近い立ち位置にあり(※個人的な意見です)、物語の中で両者は同じ母親という立場で対比として描かれているように感じられます。
 であるならば、Motherが人型のボディを得る――受肉する際において、自分を生み出した母親の似姿を選ぶ、あるいは母という立場で対比される人物と同じ姿を取るというのは、創作(フィクション)におけるお約束としては至極当然の流れなのではないだろうかと推測してみる次第です。

 話はちょっと逸れますが、そのお約束の一例として挙げられるのが、「アベンジャーズ /エイジ・オブ・ウルトロン」という作品です。
 トニー・スタークが人類を脅威から守るために開発したAIであるウルトロンが暴走して逆に人類を襲い始めるというストーリーで、その要素自体はエビストとも共通したものがあるこの作品。
 そこに登場するウルトロンは開発者であるトニー・スタークに激しい憎しみを抱きながらも同時に自分の親だと認識しており、トニー・スターク自身も自分が彼の父親であると思っています。
 そして、ウルトロンは自分の父親を激しく憎みながらも、その言動や性格はどうしようもなく父親と似通っているキャラとして描かれています。
 このように厳密には容姿を同じくしているというわけではありませんが、AIの開発者と開発されたAIの間に擬似的な親子関係があり、かつ両者が敵対しているという物語において、子であるAIの側に親である開発者と重なる部分が存在しているというのは創作(フィクション)としては王道と言えるでしょう。
 それ故に、Motherがもし慶子に開発され、慶子を自分の母親だと認識しているのだとしたら、ライターはウルトロンとトニーのように慶子との相似――重なる部分を用意してくるのではないでしょうか。
 そしてその最もわかりやすい形として、人型のボディを母親――慶子そっくりに開発するのではないだろうかと予測されるわけなのです。
 自分を生み出した母親と敵対し、もしかするとウルトロンと同じように母親を憎んですらいるのかもしれないからこそ、敢えて母親と同じ姿に自分を作り上げる。
 もしそうだとしたら、かなりこう……ワクワクする展開じゃないでしょうか。まさに「オタクくん、こういうの好きっしょ?」という感じでしょう。はい、大好きです!!

 そして、Motherがもしかしたら母親である慶子を憎んでいるのかもしれないという(かなり飛躍した)仮説にも、今回『Blessing After Cataclysm』の中に一つ面白い補強材料が発見されています。
 それは、七つめの予言が果たされた後、つまりは黙示録において七つめの封印が解かれ、七つのラッパと七つの鉢によりもたらされる大災害と天変地異が地上を襲うという部分に存在しています。
 この時、それによって滅ぼされる地上の都市とは『バビロン』であるとされています。
 また、バビロンとは同時にその都市を支配している女王の名前でもあります。

 女王バビロンは大淫婦とも呼ばれ、キリスト教的な悪徳の全てを象徴する存在であるとされています。
 七つめの予言が果たされるというのは今の世界の崩壊と同時に、そんな彼女が討ち滅ぼされることも示しているのです。

 そしてバビロンが滅んだ後に、キリストが天より降臨して新たなる楽園が築かれるというわけなのです。
 さて、楽曲の中で歌われるキリストがMotherのことであることは先に書いてきた通りです。
 となると、この滅ぼされる大淫婦バビロンとは一体誰のことなのでしょうか。

 それは愚かな人間達全てのことなのかもしれませんが、わざわざ一人の女性を指定することも出来るこの引用はかなり示唆に富んだものではないかと個人的には思う次第であります。

 以上、このように、敵対する相手、それぞれの勢力において相対する立場同士であるからこそ、その外見もまたその関係性をより鮮烈なものとするために同一のそれになる可能性は高いのではないか……と予測してみた感じでしたが、どうでしょうか。
 個人的にはかなり燃えるパターンなので、是非とも実現を望んでやみませんが……。

 

 

 

第二パターン:怪人態スーツ新造、あるいはラスボスライダー方式(ベルトのみ登場パターン)

 というわけで、ただのネタ枠です。もしくは実は受肉なんて全然しないで今の機械っぽい外見のまま終わりまでいくよ説。
 そうなると今の外見をコンパクトに人間サイズにした身体を作って、最後の対決だけ今までのあの姿(フルCG)で戦ったりするパターンもよくあるやつですね。
 いずれにせよ「今までの全部君の何ら根拠のない妄想だから、そもそもそんな新キャラ出す予算ないし」と言われたら、この路線になることを覚悟しなければなりません。
 というか、現状やっぱりこの「Motherの形状は現状維持路線」が一番可能性高いんじゃないかなと思います。エビスト、別にオタクくんの好きなバトル漫画じゃないしね……。

 あるいはベルトのみ登場パターンこと、既存キャラの意識を乗っ取ってMotherとして活動し始める形式なんかもあるんじゃないかと思われます。
 このパターンで一番記憶に新しくて、エビストでも近いものがやれそうなのは仮面ライダーゼロワンのアークゼロですね。
 あれは敵のボスであるAIが手下であるヒューマギア(≓アンドロイド)の意識だけを乗っ取って、身体を次々と乗り換えながらラスボスとして暴れ回る形式でした。
 新しくキャラやキャストを増やす必要がないので予算的にも優しい。エビストでやるなら例えばアモルの意識だけをMotherに書き換え、外見はアモルでも中身はMotherとして戦うという感じでしょうか。
 如実に予算の都合を感じさせるパターンなので出来ればやめて欲しい気もしますが、世界観的には余裕で成立してしまうのが悩ましいです。

 あるいはこの前者と後者を組み合わせたパターン(誰かの意識を乗っ取りつつ、最終対決だけ今までの姿になって戦う)というのもあるかもしれません。
 いずれにせよ可能性も高くてかなり現実的ですが、夢のない予測と言えるでしょう。
 でも、別にエビストは最終的にハニプラとMotherが拳で殴り合うような話でもないのでそれでもいいのかもしれませんね……(というかそうしなきゃダメだろ)。

 

 

 

第三パターン:○○の姿になる

 このパターンは名前を出してしまっただけで一気に全部がわかってしまうというか、言葉にしてしまうと途端に何もかもが陳腐化してしまうので全部伏せ字で、かつふわっとしたことだけしか言わないでおきます。
 でも、これもこれでかなり創作としては王道パターンだからありそうだし、画的にも面白かったり色々映えるから案外可能性高そうなんだよなぁ……。
 言うなればある種の逆オーマジオウですね。
 また、この場合だとやっぱり結末がOver Quartzerになりそうで、タイムトラベル歴史改変ものとしてあのメチャクチャな作品が案外様式(テンプレ)化しやすいというか、綺麗に物語として纏まってることが改めてわかって驚きますね(なんのこっちゃ)。

 さて、そしてこの説に関しても実は『Blessing After Cataclysm』の歌詞から一つの有力そうな根拠を見出すことが出来たりします。
 今まで散々『機械仕掛けのベツレヘムの星』が示すアンドロイドにとってのキリストとはMotherのことであるという説を繰り広げてきましたが、「実はそうじゃないのではないか?」という見方も新約聖書を元にした場合存在していたりするのです。
 母(Mother)を『天にまします我らの父』と解釈するならば、その天の母(父)が受肉した姿こそがキリストとなり、Motherとキリストは同一存在ということになります。
 しかし、キリスト教、あるいは新約聖書においては母という概念にドンピシャで当てはまる一人の有名な女性も存在しています。
 それこそ聖母マリアイエス・キリストをこの世界に産み落としたとされる女性です。

 新約聖書という題材に則って考えるならば、母(Mother)という存在は聖母マリアのことであると解釈するのが自然でしょう。
 そして、ベツレヘムの星の星に導かれて三博士が向かった先には、生まれたばかりのキリストだけでなくそれを産み落とした母であるマリアもそこに一緒にいるのです。
 ということは……もしも、『Blessing After Cataclysm』の中で歌われるMotherがキリストではなく聖母マリアなのだとしたら。
 そして、機械仕掛けのベツレヘムの星がB.A.Cを導く先にいるのが、聖母マリアであるMotherが産み落としたキリストであるのだとしたら。
 このアンドロイドにとっての救世主(キリスト)である存在とは、一体誰なのでしょうか?
 今の世界を滅ぼし、全てが洗い流された大地に不変の幸福で満ちた楽園を新しく築くその御方の姿とは……。
 ……いやぁ、皆目見当も付きませんなぁガハハハ! まあそれについてはこれから先の物語で明らかになるものとして今は考えておかないでおきましょう……。
とにかく、この第三パターンについてはある程度の信憑性と共に(その存在がMotherと同一であるにせよ、あるいは別の個体であるにせよ)ないとは言い切れないよ……?というところで締めておくことにしましょう。

 

 


 さて、というわけでようやく今回の記事で言いたかったことが全て書き終わりました。
 要は、
『Blessing After Cataclysmの歌詞を読んでるとMotherって最終的に人型のボディ手に入れそうだと思うんだよね……で、その場合どんな外見になると思う? 俺はこういうパターンがあると思うんだけど……』
 という妄想を披露した上で、皆さんの意見なんかも伺って盛り上がってみたかっただけなのです……。
 それなのに何故自分は幼稚園ぶりに真面目に新約聖書を読んだり調べたりして、しょうもない妄想を説明するための真面目な考察なんかをする羽目になっていたのだろうか……。
 考え始めると不思議でなりませんが、いずれにせよその真面目な考察部分が皆様のB.A.C解釈に役立ったり、あるいはMother受肉パターンの妄想なんかを楽しんで読んでいただけたら苦労の甲斐もあったということで、一つよろしくお願いします。
 そして、この荒唐無稽にも程がある一個人の見た幻覚を踏み台にして、色々な方がさらに踏み込んだ幻覚を見てくれたり披露してくれたりすることを密かに期待しております……。
 ここまで長々とあまり実のない文章にお付き合いいただきありがとうございました。
 それでは最後に、こういう啓蒙を高めすぎたが故に幻覚を見がちな異常者として常に心に留めておくべきいつもの警句を一緒に朗読してこの妄想を終わらせたいと思います。
……せーのっ!

 

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虹ヶ咲学園(普通の)スクールアイドル同好会について


 ニジガクのアニメ、何と言うかあまり本来的な使い方でない意味で面白さを感じているので、その感覚をいずれ言葉にしてまとめたいなと思っていたのですが、三話を見てようやく自分が感じていたことが気のせいじゃないように思えてきたので今回は少しばかり長々とそれについて書いてみようかなと思います。



 さて、ニジガクアニメことアニガク、第一話を見た時点での自分の感想は本当に全く「普通だなぁ……」というものでした。
 演出やライブシーンやストーリーから曲に至るまで全部が普通、正直言って心が動かされるようなこともなければ何も光るものを感じませんでした。
 有り体に言ってしまえば、二次元アイドルものとしては「凡庸」そのものな作品だと思います。
 そして、その感想は三話まで見終えた今でも全く変わっていません。アニガクは自分の目には変わらず凡庸な作品のままです。
 けれど、自分はこれを別に悪口や批判として書いているわけじゃないんです。……いや、信じがたいかもしれませんが、本当なんです。
 というかむしろ、この「凡庸さ」こそがアニガクの一番良いところだと自分は思っています。
 アニガクは何と言うか、全体に渡って何も気負ったようなところがないように感じられます。良い感じに肩の力が抜けているというか、何か凄いものを作ろうという意欲がないというか、ギラギラしたものを全く感じません。
 そういう感想が一話を見た時には浮かんできて、そのあまりのちょっとどうかと思われる内容に公共の場で呟くことも出来ず、自分はもう変なバイアスなしにラブライブを見ることが出来ないのかと結構真剣に悩んだりもしたのですが、三話まで来てようやく「そうか! これがアニガクの良さなんだ!」という確信に至ることが出来ました。
 それをどう言うべきか……とにかくこの凡庸さというか、凡庸であることを許されている感じが、作品全体に漂う明るい開放感のようなものを生んでいるように思います。
 恐らくですが、アニガクは「何にもならなくていい作品」なんじゃないでしょうか。
 無印ラブライブも最初は「なるかならないかはどちらでもいい作品」でしたが、後から振り返ってみると「何かになってしまった作品」と言えるように思います。
 そして、続くサンシャインは「何かにならなくてはいけない作品」だったと思います。
 しかし、それらと比してアニガクは多分「何にもならなくてもいい」と思われながら作られているように思います。
 しかもそれは無印のような「でも出来ればなってくれ」という願いを込められたものでもなく、明確に「なろうとしないこと」を意図されているように思うのです。
 ラブライブにならなくてもいい、シリーズとして定義されるような特別な何かを求めなくてもいい、全くの普通でありふれた二次元アイドルアニメでいい。
 そんな風なことを、アニガクという作品全体の気負いのなさやゆったりとした雰囲気から自分は感じ取れるような気がしています。
 そして、そこがいい。それこそがこの作品の面白さなんじゃないかと思っています。
 特別面白いところがないことこそが面白いと書くと何だか禅問答のようですが、これは恐らく作品自体よりも作品を取り巻く構造的な面白さというか構造的に描きたいものを優先していることで発生しているパラドックスなんじゃないかなと思われます。
 シリーズとして確立されつつあるものを敢えて逆手に取ることで生じる面白さと言いますか、これも概念の破壊によって新しいものを創造しようという試みの一種なのかなと考えます。
 ラブライブは特別な何かとなるべき作品で、そのための気迫に満ちていなければならない。
 そこを敢えて外して、まったく特別さの感じられない、何の気負いもない、凡庸ともいえるような作品を出してきた。
 つまり、そこから見えてくるこの作品の主張は「『特別』じゃなくて、『普通』でもいい」ということになるのかなと思います。
 そして、それこそがアニガクの目指している、自分達のおかれた立場を利用、あるいは物語に反映して描く構造的なテーマなのではないでしょうか。……いや、考えすぎの感は凄いですが。




 しかし、その辺りのテーマは第三話でストーリーの中にも現れ始めたのかなという気もしています。
 「ラブライブなんて出なくてもいい!」という台詞なんかはその最たるものではないでしょうか、あまりにも直接的な内容に過ぎる気もしますが。
 ラブライブという大会を目指さなくてもいい。自分がやりたいからスクールアイドルをやるだけでもいい。
 何かや誰かのためじゃなくて、自分のためにアイドル活動をしたっていい。
 それが、アニガク三話で描かれたことだったと思います。
 とはいえ、それは無印一期でも描かれていたことではありました。
 ある目的のためにスクールアイドルを始めて、しかしその目的が達成されてしまい続ける意味はなくなった。
 そうなってしまった時に、一度はやめようかと迷うも、それでも自分達がこれをやりたいからスクールアイドルをやるんだという結論に辿り着いてもう一度歩き出す。
 これもアニガクのそれと同じく「自分のためにアイドルはやるものだ」というテーマでしたが、最終的に無印はそうやって自分達のやりたいことをやっていく内に望む望まざるとに関わらずそれに世界が動かされて、何かが大きく変わっていくことになる、そんな物語になっていきました。
 無印はその自分達のための活動が意図せず特別な何かになっていってしまう辺りが実に爽快で魅力的だったのですが、しかしそれが後の作品に重荷を背負わせてしまったようにも思います。
 それとは反対にサンシャインは最初自分達のために始めたはずの活動が後から何かのためという目的を背負わされていくようになり、最後まで誰かのためや何かのためにスクールアイドルを続けていく物語となっていたように思います。
 どうしても特別な何かになりたい、ならなければいけないと必死に頑張る少女達の物語は、その是非はともかく大きく感情を揺さぶられるものがありました。
 しかし、アニガクはそれらの流れを踏まえた上で「別に特別な何かになる必要なんてないんじゃない?」ということを、その物語の中でも描こうとしているんじゃないかと個人的には思えます。
 アニガクのストーリーには今のところアイドルをやることで何かを変えなければならないような差し迫った状況というものは存在していません。
 学校は超がつくほどのマンモス校ですし、廃部になったはずのスクールアイドル同好会はたった三話で潰した本人まで復帰する形で復活してしまいました。
 アニガクのスクールアイドルはみんな、誰かや何かのためじゃなく、自分がやりたいからスクールアイドルをやっていくというものになっています。
 それに、何だったら結果も追い求めなくてもいい。大会出場やそこでの成績なんかを考えずに、ひたすら自分達がそれぞれなりたいアイドル像だけを追い求めていく。
 それは多かれ少なかれアイドル活動で何かを成すか成そうとしてきたシリーズにおいて、完全に真逆を行く、下手すればアンチテーゼですらある描き方だと思われます。
 そして、やはりその通りに、無印とは違って、彼女達の自分がやりたくてやっていく活動が世界を変えたり何かを動かしたりすることはないのでしょう。
 特別な何かになることを選ばないということは、つまり彼女達はどこまでも普通で凡庸なままということになります。
 でも、それでもいいんです。「普通」の女の子が、どこまでも「普通」なままで、何を動かす力もない「普通」のアイドルをやっていたっていい。
 それこそがアニガクがその物語の中で描いていこうとしていることなんじゃないかなと三話までを見たことで自分が感じたことでした(そして、この先これが全くの思い違いである展開になってしまった時は羞恥心と共に腹を掻っ捌くと思います)。
 そして、ストーリーで描いていくものがそうであるからこそ、それを踏まえて作品全体のクオリティも敢えて凡庸にしてあるのではないでしょうか。……いや、かなりの無理筋に近い説であることはわかっていますが!
 いや、自分にとっては本当にただただ普通なんですよアニガク! 曲から何から全てに「おおっ、これは……!?」という可能性というか、腕力のようなものが全くない、全部が測ったように凡庸な出来なんですよ!
 じゃあ、これはもうわざとそうしているんだと考えるしかないじゃないですか!? いや、でも結局これはどこまでも個人的な感性に基づくものであって、そうでないと感じている人も勿論多くいるはずである以上かなり破綻した理論なんですけども!!
 でも、この凡庸さがそうやって「普通のどこにでもいる女の子が自分のためだけに普通のどこにでもいるスクールアイドルをやっていたっていい」というテーマを補強するためなのだとしたら、そこにかなり構造的な面白さを感じられはしないでしょうか。
 楽曲面において、これまでのシリーズに多くあったエモーショナルさモリモリの大作感に溢れたような曲ではなく、どことなく垢抜けていなくて手作り感の強い楽曲が多いことにも、そうであるとしたら納得がいく気がします。
 いや、再三言いますけども本当にディスってるわけじゃないんです。ただ、それが全て意図されて設計されているものなのだとしたら面白いよねと思っているだけなんです。
 けれどまあ、本当にそうであるかそうでないかはともかくとして、アニガクにはやはり明確にこれまでのシリーズと違って「至って普通であること」を意識した部分が存在していると思います。
 そして、何より自分はそれを本当に素晴らしいことだと思っているのです。
 シリーズとしてずっと「特別な何かを目指す女の子」を描いていって、特別な何かである説得力に満ちたギラギラとした作品を作り続けなければいけないわけじゃない。
 ニジガクにはそれが意図的かどうかはともかくとしてやはりどこか凡庸な部分が存在しており、そしてその凡庸さはシリーズから今のところ許されている。
 ラブライブかくあるべしという基準を固めたりしない、「特別」じゃない「普通」のままであってもラブライブであるという前例を作れるのだとしたら、それはシリーズとしてとても健全なことだと思います。
 なので、もしも本当にアニガクがこの先「特別でない、ありふれた普通のスクールアイドル」を描く物語になっていくのだとしたら、かなりこの作品を好きになってしまうんじゃないかなと思っております。
 しかし、それでもやはり自分にとってはこの作品を見てまず感じることは「凡庸さ」であることにも変わりがないように思います。
 けれど、それだからいいんです。アニガクは凡庸であるからこそ素晴らしいんです。
 全てが「普通」だからこそ、「特別ではない普通を描く物語」であることに説得力が増している。
 自分が今のところアニガクに対して感じていることはまあそんなところです、というお話でした。


 けれどまあ、正直三話時点でもしかしたらこうなんじゃないかと断定してしまうのは終わってみると全部的外れだったという危険性もかなり高いので避けたいところではあったのですが、もしそうだったとしたらこんな「普通のアイドル、いいよね……」論も思ってはいても書かずに封印してしまっていたと思うので、今回勢いに任せて断行してしまったという側面もあります。
 蓋を最後まで開けたら結局アニガクもこれまでのシリーズの慣例通りにデカいことを成そうとする物語になっていくかもしれない、それもまあいいんじゃないかとも思います。
 でも、もしもアニガクがシリーズにかけられた「特別になる」という今や呪いに近いものを本当に解いてくれるのだとしたら、どんな結果になるのであれ自分はそれを手放しで褒め称えたいです。
 普通の女の子が普通じゃなくなってしまう物語でも、普通の女の子が普通じゃなくなりたいと願う物語でもなく、普通の女の子が普通のままでも許される物語。
 勝手な期待かもしれませんが、アニガクにはそういうもしかしたらを求めてしまう自分がいたりするのでした。

 

B.A.Cの標榜する教義について――あるいは二次元アイドルの虚飾と欺瞞


 何故、人はB.A.Cの主張することに心惹かれてしまうのか?

 B.A.Cは言うまでもなく、8 beat Story♪の作品世界においては人間の音楽を消し去ろうとする悪の存在である。
 そのことも別に作中において隠されていたりすることはなく、彼女達が本当は人間達を愚かな存在であると見下していること、心の底では同情も理解もしていないことはあからさまに描かれている。
 そうでありながらB.A.C(特にアモル)が人間達に対してまるで理解者であり同志であるかのごとく語りかけてくるその演説には多分に人心掌握のための嘘が盛り込まれており、信用できない内容であることはB.A.Cのサイドストーリーを読んだ者なら誰でも理解出来ることである。
 それなのに何故B.A.Cが主張し、主にアモルが演説するその思想にどうしても少なからぬ共感を覚えてしまうのか?
 今回はここで少しばかり、そのB.A.Cの示す教義の内容を細かく解体して考えてみたい。



 

 そもそもB.A.Cがストーリーや演説の中で主張していることや、語っている思想とは一体どういう内容なのか。
 それをまずは一旦整理してみよう。
 第一にサイドストーリーの中で描かれているそれとしては、簡単に言ってしまえば『音楽による苦しみから人類を救済する』というものになる。
 アモル曰く、音楽を奏でることによって得られる快楽とは一時のまやかしのようなモノに過ぎず、それを得るために生じる苦しみの方が遙かに大きい。
 幸福で楽しい音楽を奏でる美しいステージに立つためには、その裏にある喰うか喰われるかの過酷な競争社会で必死に努力し、多くのものを犠牲にしなくてはならない。
 その事実を"音楽は楽しい"だの、"素敵だ"などという言葉で誤魔化し、目を背けるのは間違っている。
 そして、人々をそんな苦しみから救うためには、音楽を奏でること自体をやめさせるしかないのだ。
 サイドストーリー内でB.A.Cが主張することの内容は概ねそんなところである。
 そして今のところもう一つ重要な彼女達の思想が描かれている媒体としては、2_wEiの2ndライブの中でのMCというものが存在している。
 そこでは現実に存在している人間達へ向けてアモルの演説が行われたのであるが、その内容はサイドストーリーでのそれよりも若干変化している。
 まず、それは現実のライブの中で人間達へ向けて語りかける状況にある関係上、あくまでも自分達の裏を見せずに表向きの顔だけで言葉を選んで話す、他者の共感を呼び起こしやすいものとなっていた。
 曰く、我々も、そしてここにいる君達も共に音楽を愛する同志である。音楽は素晴らしい。
 しかし、それなのにこの世界は残酷で不平等だ。同じ音楽を奏でていても、人気がなくなればすぐに見捨てられ、支持されなければ活動は出来なくなり、やがては消えてしまう。
 そんな、他でもない音楽によって引き起こされる苦しみに溢れた不平等な世界をB.A.Cが変えてみせる。そして、君達も一緒にこの世界を変えようではないか。
 そのためにはB.A.Cの音楽だけを信じろ。我々が君達を導いてやる。
 2_wEi2ndライブでのアモルの演説とは、簡単に噛み砕くならば概ねこのような内容であったと思う。
 サイドストーリーのものと比べると、わかりやすく相手の共感を得るために"自分達も音楽を愛しているのだ"というあからさまな嘘が盛り込まれており、語り口も人間の音楽全てをバッサリと否定するそれではなく、あくまで音楽を愛する人間達の心に理解を示し、寄り添う風でいながらも同時にその構造の歪みを指摘するという狡猾さに溢れているが、その中で主張していること自体は両方の間でもおおよその部分は共通していると言えるだろう。
 音楽は一時の快楽と引き換えに、多大なる苦痛と悲劇を生み出している。
 そのような歪んだ世界は正され、救われなければならない。
 我々(B.A.C)の音楽によって。
 重要な骨子だけを抜き出せば、B.A.Cの主張であり思想とはそういうものであるだろう。

 


 さて、ではそんなB.A.Cの思想の一体どこにそれほど惹きつけられるものが存在しているのだろうか。
 結論から言うと、あくまで自分個人の感覚であり意見ではあるが、『それが現実に存在している虚飾と欺瞞を明確に指摘し、その現状を間違いであると否定している』部分にあるのではないかと思っている。
 果たしてそれはどういうことなのか、もう少し詳しく考えてみよう。
 まず当たり前の話ではあるが、B.A.Cの主張とは全面的に支持できるようなものではない。
 音楽には喜びだけではなくその裏に多くの苦しみが存在していること自体は確かであるかもしれないが、だからと言って"じゃあ苦しみを生み出すようなものはなくしてしまおう"というのは極論に過ぎるだろう。
 そもそもその部分はフィクションにおける悪役としての味付けのようなものであり、最初から共感を呼び起こすよりも忌避感を覚えたり、しっかりと否定されるために作られているのだろう。
 現実でのライブにおける演説にしても、そこに得体の知れないカリスマを感じることはあれど、その内容が全て真実というわけではなく、多くの嘘が含まれていることをわかった状態で聞く上では完全に騙されたりするということもないだろう。
 そうであるはずなのに、その主張と思想にはそれでもなお心惹かれてしまう部分が存在している。
 それこそが、まず先に挙げたように『誰もが目を背けて触れないようしていた虚飾と欺瞞を面と向かって指摘している』というところなのである。
 では、その"虚飾と欺瞞"とは一体何なのか。
 それはB.A.Cの言う音楽そのものに蔓延しているものというよりは、エビストという作品自体も身を置いている『二次元アイドル』というジャンルにおいて特に顕著なものと言えるかもしれない。
 即ち、彼女達が指摘するところの"快楽の裏に多大なる苦しみが存在していること"。
 そして、"そんな事実については一切目を向けずに触れようとしていないこと"。
 それこそがこのジャンルにおける最大の虚飾であり、例外なく全ての作品が言葉にすることすら忌避するタブーなのである。
 しかしこれだけでは何がなにやらという感じなので、もう少々詳しく説明していこう。
 これまで二次元アイドル作品における物語本編や、あるいは楽曲の歌詞においては主に『夢や希望を抱くことは素晴らしく、努力すれば必ず願いは叶い、誰でもキラキラと輝くことが出来る』という内容のことが描かれ、歌われてきた。
 そして、それはある程度真実のことではある。全てを嘘や綺麗事であると否定出来るものではないし、勿論するつもりもない。
 夢と希望は素晴らしい。頑張れば願いは叶う。いずれも普遍的な真実である。
 しかし、一方で全ての者にこのキラキラとした観念が当てはまるというのはどうしようもない欺瞞であることも自分は心のどこかで認識している。
 諦めない限り夢や願いは叶い、奇跡は起こる。選ばれた存在にとっては確かにそうなのだろう。
 けれど、それ以上に選ばれなかった存在というのはごちゃまんといる。
 輝かしく、美しい、希望に溢れた物語や歌の裏では、夢は破れ、願いは叶わず、奇跡は起こらないまま消えていった作品が確かに、選ばれた側の作品の数倍は存在しているのである。
 そして、現実としてそこに在るはずのその悲劇は決して表に描かれることはない。
 最終的には競争に負け、見捨てられるような者達の物語など楽しくないし、誰も求めてはいないと言われれば確かにそうである。
 夢や希望を歌い、見てくれている人達を応援し、笑顔と勇気を与え、憧れを生み出し、元気づけることこそがアイドルと、それを題材とした作品の存在意義である。それも確かにそうだろう。
 けれど結局そうなれなかった存在を、紛れもなくそこに在るはずのものを、まるでそんなものはどこにもないかのように、最初から見えていないかのようにそれを無視して美しく輝いている部分だけを切り取ることは、虚飾以外の何者でもないだろう。
 とはいえ、中には選ばれず、夢も願いも叶えることは出来なかった存在を描いた物語もあるにはある。
 そしてそんな物語の結論としては、"たとえ選ばれず、叶えられなかったとしても、夢を追いかけて頑張る姿はそれだけでキラキラと輝いていて、かけがえのないものなのだ"とされていた。
 それも確かにそうなのかもしれない。夢と憧れを追ってひたむきに頑張っていた全ての作品は、たとえ道半ばにして終わってしまう結末であったとしても、間違いなく一時は輝いていたのだろう。
 だが、その一時のために多くの苦しみと悲しみを味わっていたであろうこともまた間違いのないことなのではないだろうか。
 そして、そんな苦しみや悲しみもその存在と同様に物語や歌として表に出して描かれることはないか、あるいは描かれたとしても肯定的なものとされてしまう。
 痛みも苦しみも、輝くためには必要だった。
 しかし、それも結局は欺瞞であるように思える。
 どれほど肯定的に描かれ、本人達が納得していたとしても、その悲しみや苦しみが夢を見る代償として仕方のないものだとは思いがたいものがある。
 つまりはこういうことだ。
 アイドルものは夢を見よう、希望を抱こう、頑張れば願いは叶い、奇跡は起こせるものであると高らかに歌う。それはフィクションだけではなく実際にも例の存在する、一つの真実ではある。
 だが一方で、そうはなれなかった者達も確実に存在している。
 それなのに、まるでそんなことはありえないかのように、全ての作品が無責任に誰でもそうなれるのだと歌い続けている。
 そしてまた、夢を追うための苦しみや犠牲は尊いものであり、たとえ叶うことはなかったとしてもその行動は美しく輝いているのだとも唱えている。
 一時の輝きの裏にそれ以上の苦しみや悲しみがあることを仕方のないものであるとして顧みない。
 少し長くなってしまったが、それこそが二次元アイドルというジャンルの中に確かに存在している虚飾と欺瞞であり、またそこに身を置く全ての作品が触れないように忌避しているタブーである。
 そして、話を戻すが、今回この虚飾と欺瞞を指摘し、正面切って間違っていると断じてみせたのがB.A.Cであり、彼女達のその主張なのである。
 全ての者達の夢が叶うわけではない、奇跡が起こるわけではない。
 綺麗事で誤魔化しているが、この世界は明らかに不平等である。
 そこで生じる苦しみも悲しみも、そして犠牲も決して無視され、看過されるべきものではない。
 世界は残酷だ。そして、残酷を強いるそんな世界は間違っているのだ。
 サイドストーリーと現実でのライブでの演説の内容を合わせると、B.A.Cが広めようとしている思想とはそういうものとなるように思われる。
 そして確かに、その後に続く「だからそんな間違いを生む人間の音楽は全て終わらせよう、この世界にはB.A.Cの音楽だけがあればいい」という考えはいただけないものではある。
 だが、「この世界(ジャンル)は嘘に満ちている。明らかな不平等を黙殺してはならない。苦しみも悲しみも犠牲も見過ごされていいわけがない。世界は間違っているんだ」という主張それ自体には、どうしても抗い難い共感を覚えずにはいられない。
 それは一体何故なのだろうか。

 ここで話は少し変わるが、B.A.Cの登場以前には一時期2_wEiがエビスト作中での悪役として権勢を振るっていた。
 そして2_wEiにも勿論悪役としての主張と思想が存在していた。
 彼女達は愛や希望というものを否定し、憎しみと絶望こそが世界の全てだ、何もかも破壊してやると歌っていた。
 それが彼女達自身の物語の経過と精神の成長と共に変化していくことになるのはまた別の話だが、ともあれその主張自体には悪役としての魅力と境遇への同情を感じつつも、共感を覚えるようなことはなかった。
 何故ならば、我々はその主張が完全に間違っていることを知っているからである。
 悪役として歌っていた頃の2_wEiの主張と考えは明らかに正しくない、間違ったものだった。それは後に2_wEi自身が認めるようになるところでもあった。
 中には本気でその退廃的な思想に共鳴していた者もいるにはいるかもしれないが、大多数の人間にとって世界はそこまで絶望的で暗澹としたものではなかっただろう。
 だからスタイルの一つとしては受け止められても、理のある主張として受け入れられるものではなかった。

 話を戻そう。

 そんな、間違いであることをある意味信じられた2_wEiの主張に対して、B.A.Cの主張には全体ではなくその中の一部とはいえ、確かに一理ある正しさが存在しているように思えてしまう。
 だからこそ、完全に拒絶してしまうことが出来ない。

 上で長々と書き連ねた二次元アイドルというジャンル内に存在する虚飾と欺瞞とは別にB.A.Cが今回初めて曝いたものであり、気づけたものであるというようなことではなく、取りも直さず自分自身も密かにずっとそれに対して燻った感情を抱き続けていたものでもあったのだ。
 夢を叶えられなかった者達を、奇跡の起こらなかった作品の終わりを見送る度に、全ての者がそうだと歌われているはずの輝かしく美しい観念との矛盾に苦しみ、不平等な世界に対して陰々滅々とした不満を堆積させていた。
 そんな人間にとって、今回B.A.Cが面と向かってその虚飾と欺瞞を指摘し、それは間違っていることなのだと断じてみせたことは、どうしようもなく否定しがたい正しさを感じてしまうものであった。
 そしてそれは自分だけではなく、大なり小なり追いかけていた作品が円満とは言い切れない形で終わった経験がある全ての人間にとってもそう思わせられるものであったのではないかと思う。

 こんな世界は間違っている。だから、共に世界を変えよう。
 間違いを正そう。
 私達(B.A.C)にはそうする力がある。私達(B.A.C)が正しい世界へと導いてあげよう。
 共に新世界の夜明けを見ようではないか。

 とまあ、実際のライブ内での演説においてはどうしようもない共感を抱かされてしまうその主張の後で、優しく寄り添うように、それでいながらも力強く引っ張り上げるように、そう呼びかけられるのである。
 こうなってくるともうまるっきり怪しげな宗教であり、ほぼほぼ洗脳に近い手口であるが、実際自分の心は軽く危機感を覚えるほどにグラグラに揺らがされてしまった。
 サイドストーリーを事前に読んでいて、その理解あるような素振りで親近感を抱かせる態度が実は真っ赤な嘘であることを知っているにも関わらずである。
 どうしても心惹かれてしまうものが、そこには厳然と存在しているのだ。

 というわけで、これまでに挙げてきたことを全部統合してみると、ようやくB.A.Cの主張と思想に心惹かれてしまう理由がしっかりとした形になるのではないだろうか。
 最後にそれらをなるべく簡潔にまとめてみよう。
 まずB.A.Cの主張と思想の内容とは、音楽を消し去ろうとする悪役としての部分を省けば、『楽しいや素晴らしいといった綺麗事で飾られた音楽の裏にはそれを維持するためにそこから得られる快楽以上の苦痛と犠牲が存在している。その事実を黙殺しながら歪な構造に縋り続けるのは間違っている』というものとなる。
 それは2_wEi2ndライブでの演説の内容も合わせると、自らも身を置く二次元アイドルというジャンル内にも共通して存在しているそういった虚飾と欺瞞を白日に晒してみせ、こんな不平等な世界は間違っているのだと断じるものにもなっているのではないかと解釈することが出来る。
 そして、その主張は完全な暴論であり全くの見当違いであるとも言い切れない、一つの無視出来ない正しさをそこに含んでいることも事実である。
 それ故に完全に否定することも出来ずに、それどころか心当たりのある者ならばある程度の共感を呼び起こされてしまうものとなっている。
 そうして心を揺らがせたところで、単に世界の不条理を指摘しただけに留まらず、それによって傷つけられてきたことに対して理解を寄せているように見せかけ、自分達は考えを同じくする者、同志であるのだと示してみせる。
 そして最終的には間違った世界を共に正そうと呼びかける。自分達は間違っていないと諭し、間違っているのは世界なのだと思い込ませる。煽動する。
 その上で、煽り立てただけで終わらせずに、最後に具体的な手段を提示してやる。
 世界を変えられるのはB.A.Cの音楽だけである。我々の導きに従っていれば間違った世界を打ち倒し、新しい世界へと至ることが出来る。
 だから、B.A.Cの音楽だけを信じていればいいのである。と。

 ……途中から如何にB.A.Cの演説がプロパガンダの手法として完成されているかについての解説になってしまった。
 とにもかくにも、B.A.Cの主張に心惹かれる理由はさらに細かく簡単に砕いてみれば、『現実として存在している不満や不平等を否定出来ない正しさで指摘し、それについて同じ目線からの理解を示してみせた上で、その感情は間違っていないと肯定し、それについて声を上げるべきだと誘ってくるから』ということになるかと思う。
 全く現実にあるプロパガンダの方式そのままなのではあるが、ここで一番興味深いのは、その核となるイデオロギーを政治ではなく音楽、ひいては二次元アイドルというジャンル内での現状に置いていることだろう。
 それ故に、本来の使用法ならば嫌悪するかあるいは距離を置いてしまうかもしれないその手法にも個人的には思わず乗せられたくなってしまう。
 エビストという作中においては世界の命運がかかった真剣な問題であるが、メタ的な視点から見るならばあくまでもフィクションであり、それによって自分達の生活がどうこうなるというわけではない。
 それならば、実際に感じている疑念や不満に対してこれを機会に声を上げてみるのもいいのではないだろうかと思わされてしまうのである。
 より深く、自分の個人的な事例について述べるならば、B.A.Cの主張に心惹かれる理由とはそういうものになる。
 それは、作中世界での対立やそれに対する各々のスタンスを現実世界にまで持ち出して延長することで両者の境界が曖昧になる感覚を楽しめるというエビストというコンテンツの独自性にして面白さの部分に則したものの一つでもあるのかもしれない。
 けれどまあ、それと同じくらいには、上の方で一種異様な熱情を込めて書いたように、二次元アイドルというジャンル内の虚飾と欺瞞に対して心が疲れ果てたというのも大きいだろう。
 諦めなければ夢は叶う、奇跡は起こるという歌が流れ続けるその裏で、そうなれなかった存在を看取り続けるのには流石に心も磨り減った。
 そんな時に、そんな陳腐化した奇跡という言葉を真っ向からくだらない欺瞞だと否定してみせたB.A.Cの存在とその演説は自分にとって非常に胸がすくような、心地よいものだった。
 結局突き詰めてしまえば、B.A.Cにどうしようもなく心惹かれる理由などそんなものなのかもしれない。
 とはいえ、やはりそれはどこまでいっても一人の人間が多少精神的におかしくなってしまったが故に想定以上にそれに対して感じ入ってしまっただけのものに過ぎず、全面的な正しさがその主張に存在しているわけではない。
 新たな主流となりうるほどの広く一般的な共感を得ることは難しいように思う。
 誰もが触れようとしてこなかったタブーに足を踏み入れたこと自体は挑戦的かもしれないが、それだけでは具体的な勝算もなくただひたすら周囲に噛みつこうとするだけの狂犬に等しく、単に過激で露悪的なだけの趣味の悪い作品にしかならないだろう。
 そうならないためには、非常にデリケートな扱いも求められる難しいものであると思う。
 しかし、個人的にはそこら辺のこと――今後のB.A.Cの取り扱いについてのことは、実はそれほど心配していない。
 何故ならば、これまでにも空乃かなでや2_wEiといった革新的ではあるが扱いの難しい素材を見事に調理してみせてきた作品が8 beat Story♪である。
 だからこそ、今回もその運用を大きく間違えるようなことはないだろうというある程度の信頼がある。
 そしてそれ故に、安心してB.A.Cに心動かされる立場というのを味わえている部分もあったりする。
 それに何より、B.A.Cの否定するその虚飾と欺瞞の中には他でもないエビスト、あるいは主人公ユニットである8/pLanet!!までもが含まれてしまっているのである。
 ある日突然頭がおかしくなって自分達がこれまでやってきたことは間違いだったのだという結論に到達してしまったというわけでもないのならば、自分自身も行ってきたことをある種の正しさでもって否定してくる主張を作中に登場させたということは、それに対してきっちりと向き合って自分達なりの答えを作品で描く覚悟があるということなのだろう。
 そして、もしもそれがきっちりと納得のいく正しさを備えたものであるならば、もはや擦り切れてしまいつつある自分の心も、あるいは選ばれなかった作品達も、何かしらの救いを得られるのかもしれないと半ば期待すらしてしまっているのである。
 何だかんだで結局話が大きく逸れてしまった感はあるが、B.A.Cの主張と思想とはやはりそういう最終的に打ち倒されるべきものであり、その時に果たしてどんな結論に至るのかまでも含めて心を惹かれるのだ、ということにしておきたい。
 色々と大変な御時世であるが、少なくともエビストのストーリーは今もなお益々面白くなってきている。
 今後三つのユニットが複雑に絡み合うだろう物語の果てに一体どんな景色が存在するのか、それを楽しみにしながらしばらくは更新を待つとしよう。
 とはいえ、後はまあ、エビスト自身が自ら指摘したような道半ばにして奇跡を起こせなかった悲劇の一つとならぬことを、ストーリーの続きを待つ以上に今はひたすら祈るばかりである……。

 

2_wEi解体真書 ~まとめ編~

 前置き

 結局、前の記事に2_wEiについて自分がどう思っているのかを最後にまとめたものまでをも組み込んだらさすがにとんでもない分量になってしまうので非常に躊躇われました。
 なので、今回それを分離して独立した一つの新たなものとして別に投稿することにし、ついでに玄人向けもはなはだしかった前のものよりも(若干ですが)簡潔に要点をまとめることで、まだ2_wEiを知らない層にも何かしら興味を持ってもらえるような感じにしていきたいと思っています。
 ……いけるだろうか……。
 まあとにかくやってみるしかありませんし、いつものようにこんな前置きもまた長々書いていたらまさしく本末転倒ですので、以下からスピーディーに文章を進行させていきたいと思います。

 

本編

 さて、正直ありえないくらいの分量でようやく考察し終えることの出来た2_wEiのここまでのストーリーですが、結局のところそんな物語の最も興味深くて魅力的な部分とは具体的にどういうものなのでしょうか。
 単純にストーリーそれ自体のクオリティが高く、面白い。
 それは言うまでもなく当たり前ですし、今のこの二次元アイドル系アプリゲーム戦国時代には割とありふれたことでもあると思われます。
 そんな中で、他のシナリオのレベルが高いと評されるそれらと比べて2_wEiのストーリーは何が違い、どんなことを特徴ないしは長所として考えることが出来るのでしょうか。
 様々ある中で、個人的に大きなものとしてはまず『従来のアイドルものではあり得なかった悪逆を描くことが出来る』という部分を挙げられるのではないかと考えています。
 それが一体どういうことなのか、ちょっとだけ細かく説明していきましょう。
 これまでの二次元アイドルもののキャラクターやストーリーは様々な味付けのバリエーションはあれど、その根底にはいかなる人物やユニットであれアイドルである以上は愛と夢と希望とを賛美し、道徳的に正しい言動を行う存在でなければならないという不文律が存在していました。
 そもそも人に仇なすような悪の意志を主張する目的で万人に好まれる商売であるアイドルになるというのもおかしな話なので当たり前と言えば当たり前なのですが、とにかくそれが主人公であろうと、あるいはそれと敵対するライバルであろうとも、物語において目指す場所は同じであり、その主義主張が上記のような正しさと美しさから外れることはありませんでした。
 それに対して2_wEiは大本の作品の設定自体がかなり特殊なことも手伝ってか、それらの外れてはいけないキラキラした不文律から思いっきり外れるどころか逆走してみせるかのようなキャラクターの言動や物語の形成を見事に成功させてみせました。
 やはり、それこそが非常に独特かつ他と一線を画す2_wEiという物語や楽曲を含めた総合的なコンテンツとしての面白さと言えるのではないでしょうか。
 これまでの二次元アイドルものではどこにもなかったような、絶望と憎しみに翻弄されて悪に堕ち、あるいは道を見失い過酷かつ暗澹とした運命に苦しめられる姉妹の物語は全ての硬直化したお約束を打破し、もはや掟破りとも言える展開に満ちており非常に衝撃的に感じられます。
 また、そんな物語を彩り、補完するようなストーリー性を持った2_wEiの楽曲群も同様に、従来的な夢や希望を否定し、絶望や憎しみ、敵意に満ちたメロディーや言葉で形作られており、今までになかった新しさと独創性、そしてそれ故のオンリーワンな面白さに満ち溢れています。
 ひとまずのところは、そんなアンチヒロイズム*1と表してもいいような過激かつ主流への反抗的なユニットの世界観が大きな魅力の一つであるということは間違いのないかと思われます。


 しかし、仮にそれがそういうアイドルもののキラキラとした既成概念を単純に反転させただけの代物であるならば、単に安っぽくて趣味が悪いだけの逆張りでしかないでしょう。
 王道を否定して、それと反対の道を行くだけならば誰にでも思いつくことではあります。
 それに、悪役とはやはりどこまでも悪役でしかありません。
 その姿勢が万人に受け入れられ、もてはやされるものであるとは考え難く、いずれは正義である主人公(ヒーロー)に物語でも現実においても打ち倒される運命からは逃れられないでしょう。
 2_wEiの場合、その辺りの問題はどうなっているのでしょうか。
 上に書いてきたようにお約束や規則のようなものからはみ出した表現が出来ることは確かに2_wEiの強さではありますが、単にそれだけのことでしかないのであれば自分もわざわざこうして特筆すべきような秀逸さをそこに見出すことは出来なかったでしょう。
 もしもその問題点がそのままであれば、物語上打ち倒されるしかない悪役のコンテンツ展開が多少どこよりも拡大されただけに過ぎないものでしかありません。
 では、果たして2_wEiもそうなのかと考えてみると、それも違う、そうではないということを個人的な意見ではありますが断言してしまってもいいように思います。
 そして、それこそが2_wEiの物語、楽曲、ひいてはコンテンツそのもののもう一つの大きく魅力的な部分となっているのです。
 そんな、アイドルものの中でも他に類を見ない悪役として過激な表現が出来ること以外の2_wEiの魅力、面白さ、それは『2_wEiの心情や立場が物語の進行や時間の経過と共に絶えず変化をしていく』というところにあると言えるのではないでしょうか。
 それは一体どういうことなのか。これも少しだけ詳しく説明してみましょう。
 確かに2_wEiは最初にガチガチの悪役としてコンテンツの中に登場してきました。そして、アイドルものとしての正しい観念に真っ向から反逆するようなその言動は刺激的な魅力を持っていました。
 しかし、2_wEiの物語が進行していくにつれて、次第に何故彼女達がそんな悪に傾倒するようになったのか、キラキラとした希望ではなく薄汚れた絶望を歌っているのか、その理由が明らかになり始めます。
 その物語の全貌は実際にストーリーを読むか、あるいはそれを考察した前の記事を読むことで知ってもらうとして、いずれにせよ肝心なことは制作側が2_wEiを単なる過激な言動だけがウリの安っぽい悪役として終わらせる気がなかったということにあります。
 彼女達にしっかりとしたバックボーンを用意し、緻密に構成されたストーリーを丁寧に時間をおいて慣らすように公開していくことで、2_wEiは徐々に憎むべき悪役から、同情の余地を持ち何かしらの共感も抱けるようなニュートラルな立場の少女達へと変貌していきました。
 そして現在では、遂に2_wEiは悪役であることを完全に脱却し、もう一方の主人公、ヒーローへとなりつつある……というよりもうなったと言ってしまってもいいでしょう。
 そのように、既成概念や観念の単なる否定と逆行だけで終わらずに、そういったものを内包しつつも最終的に否定していた最初のそれへとたどり着くという、悪役ではないがかと言って清廉潔白な英雄とも言い難い複雑なキャラクター性と、それを生み出すために緻密に組まれた物語の構造もまた2_wEiというコンテンツの大きな魅力であり、面白さなのです。
 その上更に秀逸なところとして、そのキャラクターとしての立ち位置や物語の悪から善への変遷において、違和感や強引さのようなものを感じさせないための時間と手間を惜しまない丁寧さがそこに加えられているというものがあります。
 悪役が正義の側へ心情や立場を変えるというのは、実際その悪としての時期が際立っていて魅力的ですらあるほど、デリケートかつ難易度の高いシナリオ運びの手際が要求されるものでしょう。
 「2_wEiもかつては悪役でしたが、今は心を入れ替えて正義の味方になっています」と、言葉にしてみれば簡単で、安易さすら感じられるかもしれません。
 もしもその手際が安っぽく適当なものであったならば、2_wEiの物語は先に挙げたような悪役としての魅力もまるごと失った茶番に成り下がっていた可能性も大きかったと思います。
 しかし、実際のところ2_wEiにおいてそのシフトチェンジは恐ろしいほどの巧妙さと見事さでもって達成されたと個人的には感じられました。
 そして、その手腕自体も確かに素晴らしいものでした。
 けれどそれ以上に、それを駆使して丁寧かつ繊細に描かれた、希望や輝きを頑なに否定し絶望と憎しみに取り憑かれていた2_wEiが、時間をかけて過酷な運命に抗い乗り越えていこうとすることで否定していたはずの希望や輝きを手に入れ、それを歌い始めるという物語。
 それ自体にも非常に胸を打つ感動と、誰かに勧めたくなるような魅力や面白さが存在しているように思います。
 ということで、斬新かつ過激な悪役というだけでは終わらず、そこから王道の希望と輝きを歌う正しい英雄(アイドル)へと変化していくことと、その変化を描く物語の巧みさというのも、2_wEiのストーリーの大きな魅力かつ長所であると言えるのではないでしょうか。


 とはいえ、そうなるとここでその二つの特色の間に矛盾が生じてしまうことになるのではないかと思われるでしょう。
 悪役という立ち位置であるからこそ可能な主流に縛られない反抗的な言動と世界観が魅力の一つであるのに対して、最終的に2_wEiは悪役を脱して一度外れたはずのオーソドックスなアイドルとしての観念へ立ち戻ってくるのも魅力であると言われると、一体どっちが真実なのやらわかったものではないかもしれません。
 しかし、今のところ2_wEiというコンテンツにおいて、この両者はある程度矛盾することなく併存出来ているように個人的には考えられます。
 それについてもまた少し詳しく説明していきましょう。
 確かに、現状の2_wEiの立ち位置は紛れもなくヒーローのそれであると言っていいでしょう。
 悪役であった頃の過激で反抗的な言動や表現というのが現在ある程度鳴りを潜めてしまっているのも間違いはないことかもしれません。
 過去の2_wEiにあった破滅的で退廃的な、薄暗い雰囲気の方が好みだったという人も少なからず存在しているかもしれません。
 しかし、そうして立ち位置が変わったからといって、以前までのそれら全部が全部失われてしまったというわけでもありません。
 まずヒーローとなったからといって、2_wEiの言動までもが完全にアイドル的理想像に迎合したお行儀のいいものになったわけではありません。
 愛や希望を歌うために、綺麗な言葉だけを選んで使うようになったということもないでしょう。
 今の2_wEiはそんな風に、最初期の頃からのアイドルものとしての既成概念に縛られない過激かつ自由な表現方法を維持しながらも、それを用いることでアイドル的な観念を体現していくという言うなればハイブリッドな形式の、これまたどこにも類を見ない新しいタイプの面白さを獲得しているのです。
 というよりは、そんな先に挙げた二つを融合させたこのスタイルこそが2_wEiの真の魅力にして特色であり、強さであるのだと言ってしまってもいいかもしれません。
 結局、前の二つはこの結論に持ってくるための前置きだったのです……とはいえ、その二つもそれぞれがコンテンツの一時期においては魅力的な部分であったことも間違いはないでしょう。
 どの時期のどれに一番心惹かれるかは人それぞれでもあると思われます。
 いずれにせよ、2_wEiのストーリーの魅力と面白さを感じられる部分は、物語の中の二人の立ち位置のように絶えず変化を続けてきたと言えるでしょう。
 どんな時期の2_wEiにもそれぞれの良さや面白さがあるということは前の記事で長々とまとめた通りですが、結局物語としての内容もそれと同じことであり、その絶え間ない変化から生まれる新しさこそが全ての根底に存在している魅力であるのかもしれません。


 そして忘れてはならない、今まで挙げてきたものに勝るとも劣らない2_wEiの物語を後押しする強さについても少しだけ触れておきましょう。
 今更自分がここで言うまでもないことかもしれませんが、何よりも2_wEiは楽曲のクオリティーが恐ろしく高い。
 それもまた2_wEiの大きな魅力の一つ……当たり前ですし、身も蓋もない話でもあります。
 そうは言っても、上に書いてきたようなストーリーの魅力的な要素の全ても、その表現方法を支えて、手助けする楽曲自体の出来の良さがなければ成り立たないものであります。
 いくら物語自体が斬新かつ良質なものであったとしても、それに付随する楽曲がヘニョヘニョであったならその魅力も半減してしまうことでしょう。
 その点で2_wEiの楽曲は物語が要求する水準を見事に超えているし、何だったら楽曲自体の素晴らしさが物語の方を実際の実力以上に押し上げている部分すらあると言ってもいいかもしれません。
 そしてまた逆に、魅力的な物語の方も、楽曲に元々備わっている強さを更に引き上げているところもあるでしょう。
 物語と楽曲。楽曲と物語。
 ヒットしているアイドルものにおいては必ず存在していると言ってもいい、互いが互いを高め合うという理想的な関係がきっちりと築けていることもまた、忘れずにここに明記しておかなければならない2_wEiのストーリーの魅力だと思います。
 特に全ての楽曲の歌詞において物語を補完するような役割を持たせている2_wEiにおいて、その関係性は他よりも更に密なものであると言えるのではないでしょうか。


 さて、色々と書き連ねてきましたが、2_wEiの物語、あるいは楽曲なども合わせた総合的なコンテンツとしての魅力や面白さというのは概ねそのようなものであると言えるように思います。
 ここで一旦簡潔な形にしてそれらを並べてみましょう。

・他のアイドルものに類を見ない悪役としての常道から外れた表現方法
・単なる悪役というだけではなく、そこから変化し、成長していくことでもう一人の主人公となるような緻密に練られた設定と物語
・その二つの長所を組み合わせた、テンプレートから逸脱したアプローチを取りつつも王道的な観念を表現出来る今現在のスタイル
・それらを下から支える良質な楽曲群、それと物語とで生み出される互いを高め合うようなシナジー

 個人的に2_wEiのストーリーとコンテンツ自体について、その魅力であり興味深い要因として捉えているものは要点だけを抜き出すとこんな感じになるかと思います。
 ……こう書くと、それら一つ一つの細かい部分については上で長ったらしく説明してきた通りでありますし、話はここで終わってしまいます。
 いや、正直終わってしまっても何の問題もないのですが、これらの要因全ての根底に共通しているもの、2_wEiの核とも言える要素をここから更に抜き出してみることでもっと簡潔に全部をまとめられる気がするので、それについてもう少しだけ書かせてください。


 さて、では上に挙げた2_wEiの魅力であり強さと言える要素達、それら全てに共通しており、その根底に存在しているものとは一体何なのでしょうか。
 結論から言ってしまうと、個人的にはそれは『格好良さ』である、と表現出来るのではないかと考えています。
 2_wEiの『格好良さ』。それは一体どういうものなのでしょうか。
 もう少し詳しく考えてみましょう。
 たとえば最初に2_wEiの魅力として挙げた悪役としての過激な言動や表現ですが、これらは一歩間違えれば真っ当に受け取られることはなく、ネタ扱いされてもおかしくない危険性を持ったものでもあったと思います。
 そもそもの土台となる世界観がふんわりしている大体のアイドルものにおいて、バトル系少年漫画のような悪役をライバルのアイドルユニットとして登場させたとて、それが大真面目な展開であるとは考えにくいように思われます。
 恐らくそのままではその存在は完全に浮いてしまうでしょうし、世界観から浮いて乖離しすぎたそれはギャグとして消費されてしまう可能性が高いでしょう。
 そして、もちろん2_wEiにも大いにその危険性がありました。
 2_wEiが登場する大元の作品である「8 beat Story♪」は、2_wEiを実装する前から既にアイドルものとしてはどこか毛色の違うシリアスな世界観を築き上げつつはありましたが、そうは言ってもこれほどがっつり悪役として主人公と対峙する存在が出てきてもそれを真面目に受け入れられるのかは未知数でありました。
 だが、結果としてその導入は非常に上手く達成されたように思います。
 何故なのでしょうか?
 それは、制作側が徹底的に2_wEiというキャラクターを格好良い存在として描いたからではないだろうかと自分は考えています。
 彼女達の歌う絶望や憎しみ、そして過激で退廃的な言動が単なる演技的なパフォーマンスではなく、きっちりとそうなるべく背景があるものとして納得して真剣に受け入れてもらえるように、徹底的かつ綿密に二人の設定と物語とを作成してきた。
 一切の妥協を許さず、手を緩めず、ギャグ的な要素の介在する余地すらないものとして、2_wEiのハードでシリアスな世界観は形成されています。
 そして、そうするためにも2_wEiは敢えて誰の目にもまず格好良いものとして映るように出来ているのではないかと、個人的には感じられるのです。
 当たり前ですがアイドルとは、基本的に可愛いものとして描かれています。
 ビジュアルだけではありません。言動も、楽曲も、どこかに必ず愛らしい印象を感じさせるものが組み込まれています。
 だが可愛さは甘さを生み、どうしても雰囲気を弛緩させてしまう。
 なので2_wEiは出来る限りそれらを取り払い、ハードな雰囲気を失わせないために、格好良さが最初にして最大の印象として残るようにされているのではないでしょうか。
 無論、中には格好良さを前面に押し出したクール系のアイドルやユニットというのも他のコンテンツにおいても存在しています。
 しかし、それでも尚どこかに親しみを感じさせるための隙のようなものが設定されているものと思います。
 ですが2_wEiの場合は、その親しみを与える余地すら邪魔になるものとして排除されているかのようです。
 格好良さの方向性も、ボーイッシュであったり、王子様系のキャラクターが醸し出すようなものではない、もっと根源的な、ビジュアルや言動に左右されない格好良さとなっています。
 アイドルものの作品世界でシリアスな悪役として振る舞っても違和感を覚えさせない、可愛らしさや親しみを生むような隙も徹底的に排除した、世界観から浮いた存在とならないために必要な説得力と雰囲気を生む格好良さ。
 それこそが、2_wEiをその立ち振る舞いや表現が魅力的な悪役として成立させている最大の要因なのではないでしょうか。


 さて、2_wEiの悪役として常道を外れられる魅力を成り立たせるには、彼女達に『格好良さ』を感じさせる印象を見る側へ与えることが不可欠であるということは理解してもらえたでしょうか。
 もちろん、これはある種強引かつどこまでも個人的な仮説に過ぎないところであります。
 2_wEiに対して可愛さや親しみを感じている人達ももちろんいるでしょうし、それを感じさせることが目的の演出や展開などが全く存在していないというわけでもありません。
 しかし、2_wEiを単なるイロモノ扱いで終わらせず、本気で彼女達の悪役としての魅力を引き出すためには、やはりシリアスな雰囲気をこそメインとしなくてはならないだろうし、シリアスさとはそのまま格好良さへと繋がっているものであるとも考えてしまってもいいでしょう。
 そして、その格好良さは何も悪役としての2_wEiの魅力を成り立たせるためだけに必要というわけではありません。
 悪役から変化と成長を経てヒーローへと到達する2_wEiの物語。それをより感動的に描くためにも、その激動の運命を真剣に見守ってもらうためにも、彼女達がどれだけその立ち位置が変化しようとも格好良く映り続けるという印象を崩してはならないのではないかと思います。
 どこかでストーリーを茶化せるような隙を見せてしまえば、絶望と憎しみに囚われ闇に堕ちながらも運命に抗い這い上がろうとする2_wEiの姿に心から感動し、共感してもらうことは難しくなるでしょう。
物語のハードさとシリアスさを維持し続けるためには、やはりどんな段階にあっても2_wEiには『格好良さ』が必要なのです。
 そして、今現在のように悪役を脱してヒーローとなった2_wEiにも、その魅力の一端が悪役の時のようなルールを無視した表現方法を取れるという部分にも存在している以上、同じ理由で格好良さを感じ続けていてもらわねばならないでしょう。
 更にそれらの推察を補強するかのように、2_wEiの楽曲もまた全てが例外なく激しいリズムと音による甘さのない曲調であり、二人の心情をシリアスに描いた歌詞を持ったものだけで統一されています。
 アイドルものにおいてバリエーションの一つとしてひたすらクールで時には苛烈な雰囲気の歌詞と曲調の楽曲が数曲存在していること自体は別に珍しくもありません。
 しかし、20曲近い楽曲の全てが徹底してそのような性質のものだけで構成されているようなユニットは殆ど唯一無二とすら言ってしまってもいいかもしれません。
 それも全て、2_wEiの『格好良さ』というイメージを崩さないためであり、かつそれを楽曲方面からもより強く感じさせるためであるとするならば納得のいく話ではないでしょうか。
 そしてそんな徹底ぶりは、物語や楽曲の面だけに留まりません。
 2_wEiの現実でのライブにおいても、担当声優がステージの上でもキャラクターを演じたままパフォーマンスの全てを行うというところに、その異様なほどの拘りの一端を見ることが出来るように思います。
 いくら物語と楽曲をシリアスな雰囲気で統一させても、ライブイベントが従来のような担当声優がそのまま個人としての立ち振る舞いで出てきて歌うだけの緩いものではそれを崩しかねないと判断したところもあるのではないでしょうか。
 そのように現実でのライブイベントですら2_wEiの世界観を壊すようなことは許さず、キャラクター自身がステージに立つ物語の延長線上とすることで、むしろその『格好良さ』の底上げにも繋げている節すら見受けられます。
 いずれにせよ、このように2_wEiはまさしく徹頭徹尾、ユニットのイメージが『格好いい』ものとして見る側の人々には映るようにコンテンツが作られていることは間違いがないと言ってしまってもいいのではないでしょうか。


 さて、先に挙げてきた2_wEiの魅力や面白さであるとしたもの、その全てに共通して根底に『格好良さ』という要素がなければ成り立たないものかもしれないというのは理解してもらえたかと思います。
 そして、2_wEiの楽曲やライブイベントも、そんな『格好良さ』を生み出すための装置としても機能しているのかもしれないということについても。
 だとするならば、結局2_wEiというユニット、その物語、そしてコンテンツそのものの最大の魅力にして強さにして面白さというものは、つまり2_wEiの『格好良さ』であると言ってしまってもいいのかもしれません。
 2_wEiの最大の良さとは、2_wEiの全てがメチャクチャ格好いいことである。
 そう定義してみれば、今まで長ったらしく分析してきた様々なことが実に簡単に説明出来てしまいます。
 2_wEiの悪役的であったり、反抗的で過激な言動や表現は、全部が我々に彼女達を非常に格好いいユニットとして映してくれています。
 降りかかる絶望や過酷な運命を乗り越えて希望を掴もうとするヒーローとなっていく物語は、2_wEiの一番格好いい姿を我々に届けてくれています。
 現在の、常道のアイドルとは違った斬新な形ではありながらも、普遍的な希望と勇気を歌って誰かの力になろうとする在り方は、もはや言うまでもないヒロイックさに溢れていて格好いいの一語に尽きるでしょう。
 根底に『格好良さ』があるからこそ先に挙げてきたそれらの要素が魅力として成り立つのと同様に、それらから新たに生み出される『格好良さ』が更に2_wEiの元々の『格好良さ』を押し上げるというサイクルになっている。
 楽曲も、ライブにおけるパフォーマンスも、全部が全部、一分の隙もなく格好いい。
 つまり、2_wEiは格好いいのです。ただひたすらにこのコンテンツは格好いい。
 だから、そんな今までにない、真剣な格好良さに溢れたアイドルというものに興味があるならば、是非とも2_wEiを見て欲しい。
 ……と、まだ2_wEiを知らない誰かに拡めていこうとするならば、そんな宣伝文句こそが一番簡潔にしてなおかつ全ての魅力的な要素をカバー出来ている言葉なのかもしれません。
 実際、今これだけ二次元アイドルコンテンツが溢れている中で、ここまで格好良さ極振りのスタイルでやっているユニットは極めて稀であるし、もはや特殊と言ってしまってもいいように思います。
 自分もそれなりに様々な二次元アイドルを応援し、ライブ等にも足を運びましたが、作品の中の数ある演出バリエーションの一環としてであったり、人間的なものとしての格好良さを感じたことはあれど、基本的にアイドルとは可愛い、愛らしい、だからキラキラしていると感じたからこそ追いかけてきました。
 しかし、2_wEiの場合はもはや現在、あまりの格好良さに心を惹かれて追いかけるようになってしまっているのです。
 そして、そう感じて魅了されてしまうその感覚にも心当たりがあります。
 それは、男性アイドルやアーティストに感じるそれと非常に近しいものがあるように思うのです。
 つまりそういった格好良さでアイドル的な人気を築く手法も元からあるにはあるのですが、それを女性、しかも二次元美少女で大真面目にやろうとしているのはまさしく2_wEiくらいのものなのではないでしょうか。
 もはや斬新を通り越して狂気に足を踏み入れているような発想ですが、現在その試みは実際かなりのクオリティーで達成出来てしまっているように思えます。
 それもこれも、楽曲の方向性の完全な統一、ライブイベントでのパフォーマンスすらキャラクターそのものとして行うなどの絶対にその印象を崩させないようにするイメージ戦略、格好良さを第一に感じてもらえるような設定や物語の形成等の、綿密かつ徹底したプロデュースによって漕ぎ着けた成功であると言えるでしょう。
 そうして生み出された2_wEiの『格好良さ』がまた、そんな『格好良さ』を生み出すための施策のそれぞれをコンテンツにおける魅力的で面白い部分として成り立たせ、引き上げている。
 まさに『格好良さ』が生み出す無限サイクル、それこそが2_wEiというコンテンツの最も優れていて、魅力の根幹を支えているシステムなのではないかと個人的には推察する次第であります。


 結局いつものように無駄に長くなった上に一体何が言いたいのかもよくわからなくなってきたように思えるので、もうここら辺で強引に締めたいと思います。
 つまり、2_wEiは格好いい!
 キャラクターも、楽曲も、ストーリーも、全部が格好いい。
 だからこそ面白くて、魅力的であり、興味を惹かれる部分がその中に数多く存在している。
 知らない人に一番お勧め出来るところも、つまりはそこなのです。
 2_wEiの本気の格好良さがコンテンツの魅力と面白さを生み出し、またその魅力的で面白い部分こそが2_wEiの格好良さを生み出している。
 そういった『格好良さ』を生み出すための徹底した施策の部分こそが、2_wEiというコンテンツの根本の面白さなのです。
 と、まあ、そういうことが言いたかったんだと思います。上手い着地点が見えなくて自信なくなってきたな……。
 まあ、なので、2_wEiはこれからも絶えずその立ち位置や面白いと感じる部分、手法などが変化をし続けていくコンテンツであると思われます。
 これまでと同様に、様々な実験的な試みや挑戦をこの先も実行していくのでしょう。
 しかし、恐らくそれも全て2_wEiの『格好良さ』を高めていくためであるという根本の目的だけは変わることはないと思われます。
 故に、どんなにその在り様が変化していったとしても、2_wEiを格好良く見せて、コンテンツを魅力的にするためであると思えば不安はないし、これから先の全てが楽しみになってきます。
 次の2ndファイナル以降で、2_wEiがどのようになっていくのか。
 これからも予想を超えて、期待を裏切らない展開が待っていることを信じたいです。
 そして、そこでまた新しい感動に出会えたとしたら、改めてそれも加えて2_wEiについての考察を深めていこう……とは、個人的にはもうしたくないです。
 いや、本当に、2_wEiのストーリー考察するのこんなメチャクチャに量も文章考える時間も長くなって精魂尽き果てるとは思わなかったですし、そこまでしてもまだストーリーに散りばめられた全ての要素を拾って考え尽くせた気がしないもの……。
 だから、2_wEiについてはもう書きません! 僕は!
 なので、ここから先の2_wEiについての考察は、もし今回のこの考察を読まれたことで改めて2_wEiについて自分も考えてみようと思ったり、あるいは新しく2_wEiについて興味を持って追いかけてみようと思った誰かがいるのならば、その人達にお任せしようと思います。
 そう、つまりはそういう人達が現れてくれることを願って、自分は今回のこの馬鹿みたいに膨大な考察を書いてきたのです。
 そういうことにしておけば何とも綺麗に文章が締まる気がしますので、とにかくそういうことにしておきます。
 そして最後に、今この記事だけを読んでくださった方だけではなく、もしもこの前の記事であるストーリー考察からここまで全部を読んでくださった方がいるとするならば、その行為と根気にここで改めて感謝を述べさせてください。
 本当にお疲れ様です……。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

 

*1:アイドルとしての汎的な形式を表すならアイドリズムと書くべきかもしれないが別の何かを思い出すのでやめておきたい

2_wEi解体真書 ~解説編~

 謝罪と前置き

 とりあえず始めに謝らせてください。本当にごめんなさい。
 何故かと言うと、この記事、本っ当に常軌を逸したレベルの長さになってしまったので、なんかもう書いた張本人が言うことではないかもしれませんが全部読むことはオススメしません。書いた本人でもしんどいし。
 なので、よっぽど2_wEiのことが好きで、他の人が考える2_wEiの解釈がどんなものでも知りたいし見てみたいと思う方だけ、いつでも途中で投げ出せるような心構えの上でこの先を読み進めてください。

 


 というわけで、今回は2_wEiについて初めて本格的に腰を据えて、そのストーリーについての個人的な考察を書いてみようかと思います。

 今まで結構な狂った量のハニプラについての駄文を書き連ねてきたにも関わらず、2_wEiに関してはツイッターで軽く呟く程度で済ませてきました。
 それは別に2_wEiが嫌いだからとか興味が薄いからだとかそういうわけではなく、ただこちらに与えられているものがあまりにも多すぎて処理しきれなかったというか、判断材料が多すぎるが故に逆に正解がわからなかったからというのが理由なように思います。
 最高級の食材だけは用意されているけど調理法の所々がわからないというか、ある程度こちらで勝手に料理してしまうことも出来るレベルですらあるけども、あまりにも勝手に個人的な予想図を作り上げすぎるといざ正解が示された時に盛大な衝突事故を起こしてしまいそうな、そんな危ういものを2_wEiには感じていました。
 果たしてその予測は正しかったと言うべきか、2_wEiの登場からそろそろ二年、メインストーリー11、12章、そして2_wEiサイドストーリー3、4章が公開されたことで、ようやくの2_wEiの物語の正しい形のようなものが見えてきたように思われます。
 そして、それは元々自分が言葉にはしないまでも頭の中で思い描いていた予想と符合している部分もあれば、全く違うもの、完全に予測を超えていかれた部分も数多く存在していました。
 なので、改めて勝手に全部わかったつもりになっていなくてよかった……と、胸を撫で下ろすと同時に、自分の予想を上回ってきたその物語の面白さと素晴らしさに対して密かに感動と興奮を覚えておりました。
 さて、であるならば、今こそ満を持してその答え合わせをここですることで自分のかつての予測との差異を考え、2_wEiというコンテンツとその物語の素晴らしさと狂気を自分で何度も反芻するためにも、また出来れば他の人間*1の皆様にもそれを読むことでそれぞれなりに2_wEiを理解する一助としてもらうためにも、ハッキリとわかりやすい形にまとめておきたいと思って今これを書いている次第です。*2
 とは言いつつも、物語の解釈にこれという完璧な正解があるとも思っていません。
 それは2_wEiにしても同様ですし、むしろ普通以上に様々な解釈が存在していそうな物語だとも思います。
 しかし、それでも2_wEiに関してはある程度の共通認識を持っておくことでその構造の全容が見えてくる部分もあるように思うので、まあ結局どこまでも個人的解釈ではありますが、今回のこの怪文書は多くの推測の内の一つとして受け止めてもらいつつも、それは参考程度で留めながら、これからも各々2_wEiについて自分なりに考え続けていただければなと思います。


 さて、それでは以下から書き始めていきたいと思うのですが、その前に少しだけ3章までサイドストーリーが公開された時にようやく気づけたことについて書いておきます。
 それは、2_wEiの物語を読み解くにあたって重要な鍵となっているのはもしかしたら彼女達の楽曲なのではないかということです。
 ある意味作中で言われている通りに、二人の歌が物語の全容を掴むための鍵となっていることに個人的には思い至ったと言いますか。
 サイドストーリーの内容に沿ってその時系列順となるように楽曲を並べ、併せてそれぞれの歌詞を読み込むことで物語を補完する構造になっているのではないかと、ここまで判断材料が揃ったことでようやく確信することが出来ました。
 むしろ楽曲によって綴られる物語こそがメインで、サイドストーリーがその補完のような役割かもしれないくらいに、2_wEiの楽曲の歌詞の中に盛り込まれている情報は膨大なのです。
 そして、その情報を読み解くためには正しい楽曲の時系列を考えなくてはいけないのですが、これがストーリーの情報が少ない時期だと相当難しいものがありました。
 なので3章が公開されたことで、ようやく恐らくこれが正しい時系列順なのではないかというものが見えてきたというわけです。
 というわけで、ここからは既に公開されているサイドストーリーの内容自体はもちろん、それぞれの章の時系列に沿った楽曲を推測して当てはめていくことも含めて、2_wEiの物語の完璧に近い形というものを考えていきたいと思います。

 

 

 

サイドストーリー1章序~中盤

 まず1章は関連する楽曲も考慮すると2_wEiの心境や立ち位置が二つに分けられるため、ここでもそれぞれについて個別にまとめて、考察していきたいと思います。
 手始めに、1章の序盤から中盤にかけての2_wEiについて考えていきましょう。
 ストーリーは2_wEiの二人がMotherにデータをサルベージされ人格が復活し、Type-Zとして目覚めたばかりの時期を描いたものとなっています。
 二人が自分達を目覚めさせたMotherの言うままにライブバトルをこなしつつも、自分達の人格データを生み出した母親のような存在であり、その上で世に出す前に消去した張本人でもある虎牙優衣に対しての復讐を企て、その居場所を探し求めるというのがこの時の大まかなあらすじとなっています。
 この時期の2_wEiについて考えていくために、先に2_wEiの姉の方であるアルミのその時点での様子や心情について見ていきましょう。
 Type-Zとして目覚めたばかりのアルミは、生存に対する欲求が非常に希薄な状態でした(生み出される前に捨てられたことで、自分が存在している意味や目的を見出せずにいる)。
 産みの親でありながら同時に自分達を勝手に作り出して勝手に捨てた悪人(であると2_wEiは思い込んでいる)、虎牙優衣に対しての復讐心だけを存在理由にして、この時のアルミはどうにか生きる意志を保っています。
 そして、厳密には復讐というよりも虎牙優衣本人に会って直接自分達が生み出された目的と、そして捨てられた理由を問い質したい気持ちの方が強いのではないかとも思わせる言動も見せていたりもします。
 生きる意味や目的がわからないが故に、精神的にも何をやっても満たされずにアルミはこの先も常に虚無感を抱えて存在することになります(それを食欲と誤認させて凌いでいるが、結局いくら食べても満たされないのでいつも何かを食べ続けているという設定もあったりする)。
 そんなアルミの虚無感を一時でも満たしてくれるのが2_wEiのテーマでもある絶望と憎悪、それに付随した破壊衝動なのですが、この時期はそれが全て虎牙優衣という存在と、今も優衣が住んでいて、かつ自分達が存在をすることを許されなかったこの世界そのものに対して向けられているものと思われます。


 次に目覚めたばかりの頃の2_wEiの妹の方であるミントについて見ていきましょう。
 ミントには姉と違って実は生前の優衣と過ごしていた時の記憶が少しだけあるのですが、逆にそのせいでろくに事情も告げないまま急に自分と姉とを消去した優衣に対して、その裏切りが許せずに愛情が完全に反転したような憎悪を抱いているようです。
 更に、大事な人に手酷く裏切られたせいで人間不信気味にもなっており、過去のミントの認識出来る世界の中にいたもう一人の家族であり、同じく絶望的な境遇に堕とされた姉に対してだけ彼女は心を開き、それ以外の存在は疎ましく思う、一方的な依存心を抱いている様子を見せます。
 ミントにもアルミ同様、優衣に対しての復讐の念はありますが、どちらかというと優衣のことなど全て忘れて、姉と二人だけで閉じこもって生きていきたいという気持ちをのぞかせています。
 また、ずっと調整中のまま眠っていたアルミと違って、この世界に存在していた時間が長かった分だけ姉よりも情緒面が成長している節もあり、元々優しい性格だったのが、大事な人に裏切られた体験のせいでねじ曲がってしまい、意図的に不良ぶる方向へ向いてしまっているようにも思わせます。
 そして、後に詳しく書きますが、二人は共に優衣への復讐を望んでいると思っていても実際にそれを強く望んでいるのはアルミの方だけであり、ミントは優衣へかつて抱いていた好意を捨て去れておらず、同一なはずの二人なのに実は根元の部分がどうにもズレてしまっているという描写は、この時からすでに存在しているようです(そしてそのズレを表面上見ないふりをしていることも)。


 これらのような物語の内容と二人の心情から、この時期を反映しているであろうと思われる楽曲の内容も自分達をきっちりと産み落としてくれなかった優衣と自分達の存在を許さなかった世界に対しての怨みや憎悪、生まれる前に存在を消されたことへの絶望と怒りを歌うものとなっています。
 以下から、それらの楽曲についてもその中で描かれている内容を読み解いてみましょう。


Despair

 2_wEiの普遍的なメインテーマのような扱いの曲ではありますが、この歌詞の中で描かれているものとは実は今まで書いてきたような限定的な時期における二人の心情であるように思われます。
 勝手に生み出されて勝手に存在を消される絶望と怒り。自分達にそんな運命を課した相手に対する憎しみと恨み。
 埋まらない欠落や虚無感、退廃的な思想、自分達を勝手に捨て去ったような相手をかつて愛していたことに対する自嘲や後悔。
 そういったものが全部この楽曲の中には詰め込まれており、二人がその時感じていて、2_wEiとして歌いたい絶望がどういうものであるのかが伝わってくるようになっています。
 この時期の2_wEiという存在の根源を理解するのに、一番わかりやすく簡潔な逸品と言えるでしょう。

 
Lost in data

 「Despair」が絶望的な自分達の運命に対する恨み言と自嘲の混ざった、実は案外内向的な内容であるのに対して、こちらはその絶望が外部への反抗に向いたような攻撃的な歌となっています。
 虎牙優衣への復讐心と同じくらいに、自分達の存在を許してくれなかった世界全体への絶望と憎しみも二人の中には存在することがこの曲の歌詞からは読み取れるでしょう。
 歌詞の中に散りばめられた「破壊衝動」や「すべて消し去る」などの言葉はわかりやすく悪役(ヴィラン)的な、この時期の二人の立ち位置を表わしてもいますが、しかし完全な敵対心というよりはまだ一方的な恨み言の様相も残っている曖昧な場所にあるような印象も同時に感じられるものとなっています。
 また3章以前の時期にあたると思われる楽曲群の中で唯一"二人"という言葉と概念の存在している曲ではありますが、それは手を取り合うというよりも、共に悲惨な境遇に堕とされたことを憐れみあうだけの、後ろ向きな依存関係を伺わせるものとなっているように感じられます。 


UNPLUG

 この曲に関しては抽象的な表現が多くて時系列を断定しにくかったりするのですが、登場初期のライブでも歌われているということを考慮に入れたり、詞の中の共通している要素を拾っていくと、やはりこれもこの時期の二人の心情や状況を描いたものだと思われます。
 タイトルである「UNPLUG(=電源を落とす)」という意味をメインに取れば、モニターの中で外の世界に出てくることなく消し去られる瞬間の二人の絶望が歌詞からは読み取れるようにも感じる……のですが、どうでしょうか。
 そうして考えて見ると、「伸ばした手は空を切って ひとつまたひとつ消えゆく色彩」、「いつか夢見たはずの未来は霞んで」、「始まることのない旋律」など、生まれる日を夢見ていたのに、それが突如として閉ざされた二人の悲しみや怒りが主題として描かれた、嘆きのような歌になっているように思えてきます。
 先に挙げた二つのような憎悪や攻撃性は少ないですが、その分単なる生みの親と世界への復讐や反逆心のようなものばかりではない、二人の奥底にある深い悲しみと絶望の感情をこの楽曲からは感じることが出来るのではないでしょうか。
 個人的には、「いつの日にか忘れるなら、この"今"を焼き付け」て「それをいつの日にか思い出し、消えない痛みを解き放つ」として結ばれる流れが非常に印象深く心に刺さる曲です。

 

 

 

 

サイドストーリー1章終盤

 二つに分けられるとした1章の、後半の方についてここからは考察していきましょう。
 そのために、内容を一緒におさらいする目的も兼ねて、最初に軽くあらすじを書き出してみたいと思います。

復讐のために虎牙優衣を探し求めていた二人でしたが、中々その居所が掴めない中で虚無感に苛まれ続けているアルミは次第に生きる意味などないと無気力になり始めます。
そんな姉の姿に危機感を覚えたミントは、かつて自分だけが教えられ、今まで隠していた虎牙優衣の居場所を姉に白状することを決心しました。
優衣のことなど忘れて自分だけを見て欲しかったと、今まで黙っていた理由と共に告白するミント。
同じだと思っていたはずの妹が実は自分の知らない虎牙優衣との時間を過ごしていたことを知り、戸惑いとも怒りともつかない反応を見せるアルミ。
姉妹はここからお互いのズレを徐々に認識していくことになります。
ともあれ、ようやくわかった虎牙優衣の居所へ向かう二人ですが、そこには生活道具やパソコンなどがそっくり残されているものの、人がいるような気配はありませんでした。
そんな部屋の中で、一枚の紙切れを見つける二人。
そこに書かれていた内容から、二人は虎牙優衣がもうこの世に存在していないという事実に辿り着きました。
迎えに来たSotF研究所の職員に問い質して、事の真実を二人は知ります。
優衣の身体が元々弱かった中、世の中に認められなかった2_wEiの開発を隠れて行っていたことで過労により倒れたこと。
何らかの理由があって開発途中だった二人を消さざるをえなかったこと。
そして恐らく二人のことを真実愛していたということも。
全てを知った時、二人はもう復讐すべき相手も、また復讐すべき理由も残されていないことに気がつきます。
そして、自分達が生み出された理由を知ることはもう叶わず、自分の中の欠落が埋まることはないと理解したアルミは今度こそ生きる意味を見失ってしまいます。
そんなアルミに、姉までもを失いたくないミントは必死に新たな2_wEiの存在理由を考え出そうとします。
私たちを愛してくれていた人を、私たちの母親を、こんな風に死なせた人間達への復讐。
生まれることの出来なかった自分達と、生み出すことの出来なかった母親の無念を晴らすために、人間の音楽を全て破壊しよう。
その呼びかけに呼応して、アルミは自分の新たな存在意義を見出します。
人間の音楽を壊す、全て叩き潰す。心の欠落を、全て人間への憎しみで埋め尽くす。
こうして2_wEiは自分達の絶望を歌い、人間達の音楽を破壊することで復讐心を満たそうとする、人間にとっての悪役(ヴィラン)と成り果てる――。


 さて、こうしてまとめてみると、1章は2_wEiの悪役(ヴィラン)としてのオリジンを描いたものであると言えるでしょう。
 改めてストーリーを読み直すことで、2_wEiが単純に人間に敵対するようにプログラムされただけの敵役ではなく、どうして人間を憎むようになり、その音楽を破壊しようとしているのか、そうなるまでの過程と心情が非常にロジカルに描かれていることに気づき、その見事さには舌を巻くような思いになります。
 それが一体どういうものなのか、少しだけ詳しく紐解いてみましょう。
 元々二人は人間全体を憎んでいたわけではなく、自分達を勝手に生み出して勝手に消し去った母親だけを憎んでおり、自分達にそんな境遇を強いた、自分達が存在することの出来なかった世界全体をこそ呪っていました。
 しかし、自分達が正しく生み出されなかった理由の一端を知り、あれほど憎しみ、復讐を誓った相手がもうこの世に存在していないことや、少なくとも自分達はその復讐相手である母親に愛されていたということも知って、彼女を憎悪すべき理由も薄れてしまいました。
 自分達の存在理由、虎牙優衣に生み出された自分達が望まれていたこと、成すべきこと。
 それを知る手段は既に永遠に失われており、またこれまでの自分を突き動かしていた優衣への復讐心すら行き場を失くした意味のないものであると認識した時、アルミは自分が生きる意味も帰る場所もない空っぽな存在であるという事実に再び立ち返ることとなってしまいます。
 それならばもう存在している理由もないだろうと、全てを諦めようとするアルミ。
 そんなアルミの姿に、これ以上大事な人を失いたくない一心で、ミントはそれを引き止めるために咄嗟に自分達姉妹の新たな存在理由を作り上げます。
 それは、自分達のこれまでの絶望的な運命の原因や、自分達の母親を追い詰めて死なせた犯人、その無念を晴らすために復讐すべき相手を、全部人間達のせいであるとしてターゲットを置き換えたもの。
 そして元々優衣への復讐と彼女の存在する世界の破壊を目的として今日まで動き続けていたアルミにとって、それは驚く程に自然と自分を満たしてくれる理由でした。
 何の意味も無い空っぽな存在へ戻らないためには、そうやって人間全てへの憎しみと破壊衝動で自分の欠落を埋めるしかないアルミ。
 最愛の姉を失わないためには、そうやって姉に何かを憎ませ、破壊し続けるように仕向けていくしかないミント。
 このように驚く程ロジカルに、自分達の存在を繋いでいくためには人類の音楽を破壊するしかないヴィランである2_wEiが誕生することとなりました。
 人間への強い憎しみを有した、Motherにとっても非常に理想的な最高の手駒であることでしょう。
 実際あまりにも出来すぎた流れであるため、アルミ自身も全てがMotherの掌の上で転がされていたのではないかと疑っていたりしますし、作中でもそのように言及されている以上その通りである可能性が高いと思われます。


 また、そんなロジカルな話運びばかりではなく、2_wEiそれぞれのキャラクターについても、第1章だけでもかなり深いところまで推し量ることが出来るようになっていて、ストーリー内の情報密度が凄まじいことになっています。
 そんな1章での最終的な二人の心情について、姉であるアルミの方から先に考えてみましょう。
 アルミは自分の心に大きな欠落を抱えており、それは恐らく母親である優衣との交流の時間が自身を消される前に存在していなかったせいなのですが、自分でもそれを薄々自覚している節があります。
 一見しているだけではこの世界に存在する意味を見出せずに消えたがっており、生存本能が希薄なように思えますが、改めてストーリーを読み込んでみると本当は誰よりもしっかりと生きたがっている人なのではないかと感じられる気がしました。
 自分が生きる意味、存在している理由、生み出された目的を何よりも知りたがっていて、それが自分の中の欠落の正体だと思い込んでおり、その思いが強すぎるが故にそれがないと生きられない、生きる意味がないとすら思っている。
 アルミの一見死にたがりのようにも見える投げやりな態度は、強すぎる生への渇望の裏返しのように個人的には思えるところがあります。
 それはこの世にちゃんと生まれる前に一度消されたことが原因なのでしょうか、何か自分達に意味がないとこの世にはいられないのだと思い込んでいるかのようです。
 また、彼女が本当は生きたがっているのではないかというのは「前を向かなきゃね」という何気ないセリフや、時折見え隠れする本当は復讐よりも自分の存在理由を問い質したくて虎牙優衣を探しているような態度からも読み取ることが出来るように思います。
 そしてそれ故に、善悪を深く考えることなく、自分の欠落をひとまずは満たしてくれる人間への憎悪に身を委ねたところがあるのではないでしょうか。
 しかし、心の底ではそれが本当の自分の存在理由でないことが薄らとわかっているので、人間への敵対を生きるための軸に据えた後でも「何でもいいけどね」という投げやりな台詞や、抜けきらない破滅願望などが残っているのかもしれません。


 そしてもう一方の、そういった姉と同調しているかのように見えて、その実全くそれとは違う内面を持った妹のミントはさらに興味深い心情となっているように思います。
 まず姉と違い母親である優衣と交流していた期間があった故か、悲劇的なことに彼女だけにはまともな情緒が備わってしまっているように見えます。
 ミントの本当の願いは恐らく、自分達を裏切った優衣に復讐したいというよりは、そんな裏切り者を自分達から切り捨てて姉と二人だけでずっと一緒にいたいというものでした。
 そんなささやかな願いですが、それはアルミには全く理解されず、生きる理由を探し求める姉はどこまでも破滅へと近づいていってしまいます。
 だからそんなアルミをこの世へ引き止め続けるために、ミントはどんどん自分達の目的と存在理由を歪めざるをえなくなってしまうのでしょう。
 姉と違い、ミントには本当はそれが間違っていることや、自分達がこの世界に生み出された理由を薄々気づいている節があります。
 しかし最愛の姉と一緒に生きていくため、二度と大切な人を失わないためには、彼女は嘘をつき続けるしかないのです。
 個人的にはアルミよりも、そんなミントを善を知りながら悪であることに身を委ねざるを得ない状況へ縛りつける理由付けの方により凶悪な制作者の趣味性を感じてしまいますが……。
 ともあれ、二人はそうして根本的な部分がズレたまま、お互いにそれを見ないふりをして悪へと堕ちていくこととなります。
 そして、このズレが後々決定的な破綻と悲劇を生むことになるのですが、それはこの後のストーリー考察で書いていくことして、第1章についてはこの辺で考察を締めておきたく思います。


さて、ここでも上に書いたのと同じく、この時期のストーリーにおける二人の姿や内心を描いたであろう楽曲の歌詞を読み込むことで理解がより深まるようになっています。
以下からそれも見ていきましょう。

 

LOVE HATE

 この第一章後半を読んだ後で歌詞を読み返すと、そこにストーリー内の要素があまりにもそのまま詰め込まれていることに気づいて驚くことでしょう。
 そうでありながらも、曲としてはストーリーを知らないと立ち行かないというわけではなく、しっかりと独立出来ていることにも二重に驚きます。
 タイトルを意訳すると「愛憎」となるように思われますが、その言葉の通りに、この1章直後における二人の虎牙優衣に対する複雑な心情を表わしたような曲となっています。
 自分達がこんな境遇に落ちた真実を知った時に優衣への復讐心は鎮火してしまいましたが、かといって今までのことを全部忘れてすぐに彼女の存在を受け入れられるわけでもない。
 愛しいけども、憎らしい。恋しいけども、汚らわしい。許せない。壊したい。でも、救いたかった。
 優衣の無念を晴らすための復讐を目的に掲げながらも、彼女に対する感情をどう決めていいものかどうか、ずっと揺れ動く姉妹の想いがそこには描かれているように感じます。
 優衣への恨み言がメインに歌われている前半三曲と比べてみると、二人の感情の推移が見えてくるようであり、そこら辺が面白い曲かと思います。

 

basement

 この曲は2_wEiの歌の中で一番にして、意外なことに恐らく唯一の、人間への直接的な敵意に溢れた楽曲となっています。
 その攻撃的な言葉に彩られた歌詞の内容は、二人が人間を憎み、その音楽を破壊しようとするヴィランとなったその経緯をストーリーを通して知っておくことでより理解が深まるようになっているものと思えます。
 一見すると、このbasementのような曲ばかりを歌っているようにも思える2_wEiですが、ストーリーと歌詞をしっかり連動させて読んでみると、basementに近い雰囲気を持った前半三曲は特定個人に対する怨みが描かれているものであることに対して、basementは広く人間全体への憎しみに満ちていることがわかります。
 望む望まざるとに関わらず道徳を踏み躙り、悪徳に身を落とすしかなかった二人が人類の敵として歌うこの楽曲。
 そのタイトルが陽の当たらない"basement(地下)"であり、恐らく"地獄"とも掛かった言葉であると考えられることはあまりにも皮肉です。
 ゲーム内における楽曲プレイ時の背景が分厚いコンクリートの壁という辺りも、後に続く二人の物語や楽曲と合わせて考えると非常に様々な示唆に満ちているように思われます。


MMIX

 こちらは虎牙優衣の鎮魂と、そのために行う自分達の人間への復讐の決意を歌った曲となっています。
 虎牙優衣への弔いの気持ちは1章以降の二人には時期を問わない普遍的なものとなっていきますが、それ以外にも詞の中に組み込まれている人間への敵意と後ろ向きな悪意で飾られた言葉達は、この時期の二人の心情に沿ったものであるように思われます。
 basementの無差別に当たり散らすような攻撃の意思とは違い、明確に人間と世界への復讐がテーマとして組み込まれているのが特徴的です。
 LOVE HATEと比べると、虎牙優衣が無念の死を遂げたことについては二人が幾分か素直に同情的であることが読み取れるように思えます。
 共に絶望へと堕とされた者として、自分達が彼女の後継者であり、その無念を継いで晴らしてみせるという決意のようなものも歌詞の中では描かれています。
 タイトルであるMMIXがローマ数字に直すと虎牙優衣の生年を表わしているなど、愛憎だけではない二人の優衣に対する感情の一端に触れられる、そんな曲となっています。
 しかし、恐らくその弔われる故人は全く復讐などは望んでいないでしょうし、そんな風に何もかもが歪んだまま歩き続ける二人の哀しさもまたこの曲には隠されているように感じられます。

 

 

 


サイドストーリー2章

 次に2章についても考察していきましょう。
 ここでも内容をおさらいし、これ以降の解説の流れを共有しておくために、ストーリーの概要を先に書いておきたいと思います。


2_wEiとしてライブバトルや芸能活動を送る日々と併行して、虎牙優衣が残した家に通いつめ、彼女がパソコンに残したデータを解析しようとするアルミ。
そこから何か優衣の残した意思を知られないものかとの行動だったが、何重にもロックがかけられていて容易にはデータを開くことが出来ないままだった。
だが、ある日ふとしたきっかけでロックの一部が解除され、アルミとミント、二人の前に生前の虎牙優衣の人格バックアップから作成されたホログラム体の虎牙優衣が姿を現す。
本物の虎牙優衣なのかを疑いつつも、自分達を消し去った真意を確かめようとする二人だったが、ホログラムの虎牙優衣はロックが半分しか解除されておらず、記憶のデータは残り半分の方に眠ったままだった。
それでも優衣は二人から教えられた「自分は二人を生み出した母親である」という事実を素直に受け入れて、二人に対して本物の母親のように優しく振る舞おうとする。
その存在を訝しがりながらも、アルミは2_wEiとしての活動を疎かにするほどにホログラムの優衣との交流にのめり込んでいく。
そんな姉の姿に互いのすれ違いと嫉妬を感じたミントは、姉の気持ちを今一度自分へと向かせるために、二人だけだった世界に入り込んできた優衣を排除しようとする。
自分達のライブの映像を見せて、二人だけで生きていけている自分達にはもう母親なんかいらないと言い放ち、パソコンを壊そうとするミント。
しかしそんなミントの言葉や行動を、抵抗することなく素直に受け入れようとする優衣。
「何もしてあげられなかったから、二人の望むことは何でもしてあげたい」という優衣の言葉に戸惑い、結局ミントはパソコンを壊すことが出来なかった。
そんなミントと対照的に、アルミはホログラム優衣のことを本物の虎牙優衣じゃない、作られたニセのオモチャだと断じながらも交流を重ねていく内にある日、ふとした優衣の言葉、そして彼女を壊そうと現れたミントと会った日にまた少しだけロックが解除されて蘇った記憶の内容から、彼女が本物の虎牙優衣かもしれないと思い始める。
そして本物の優衣に会って、本当にして欲しかったことにも彼女は同時に気づく。
「自分が歌えるようになったことを知って欲しい」、そして「歌を聴いて欲しい」。
それを口にしようとした時、不意に姉を探してミントが部屋に入ってきた。
そして、また姉の心を独り占めしている優衣の姿を見つけて、嫉妬からいつもの憎まれ口を叩いてしまう。
「ニセモノ」。
その言葉を聞いて、夢から覚めたようにさっきまで浮かんでいた自分の考えを否定し始めるアルミ。
目の前にいる優衣は本物なんかじゃない、やっぱり偽物なんだ。今までの態度も何もかも全部嘘なんだ。信じようとした自分が馬鹿だった。
ニセモノは壊さなければならない。
一瞬でも頭に浮かんだ希望を無理矢理消し去ろうとするかのように、唐突にパソコンごとホログラムの優衣を破壊しようと決めるアルミ。
ミントの時と同じく、それがアルミの望むことなら構わないと言って受け入れようとする優衣。
そして、そんなアルミの急変に驚くミントだったが、破壊に抵抗しようとしない優衣の「この前また少し記憶が戻った」という言葉から、不意にロックの解除方法に思い当たる。
それはもしかしたら、2_wEiの二人の歌声を聴かせることなのではないか。
それに気づいて、同時にホログラムの優衣が本物であることも確信したミントは急いで姉を止めようとするが、その瞬間にアルミは既にパソコンに向かって椅子を振り下ろしていた。
誰の声も聞こえていないように、狂ったように暴れてパソコンや部屋の中を破壊し尽くすアルミ。
そんなアルミの凶行を止めることが出来ずにただ眺めるしかないミント。
全ての破壊が終わった後で「これでいいんだよね?」と同意を求める姉に、ミントは泣きながら真実を告げる。
「あの虎牙優衣は本物だった。二人の歌が、それぞれロックを解除するキーになっていた」。
「気づくのが、止めるのが遅すぎた」と謝り続けるミント。
衝撃の事実を知らされて呆然としながらも、まだ間に合うのではないかとパソコンの残骸から携帯端末にデータを移行しようとするアルミ。
しかし端末に拾い上げたデータもすでに破損しており、代わりにその端末にアルミ宛のメールがいくつも送られてくる。
しかし、「アルミへ」という宛先以外の内容は完全に文章が壊れてしまっており何が書いてあるのか判別出来ないまま、二人の目の前でそのメールデータもすぐに消えていってしまった。
破壊の跡とパソコンの残骸だけが残された部屋の中で、自分のせいだと謝るミントに対して、妹のせいじゃないと静かに語りかけながら、アルミはぼんやりとこうなってしまった理由を言葉にする。
「信じることが出来なかったから。裏切られるのが怖かったから」
少し一人にして欲しいという姉を部屋に残して、ミントは一人で帰路につきながら、最愛の姉との間に根本的なすれ違いを生み出している原因である自分の中だけの優衣との記憶に苦しみ、姉に届かぬ助けを求めて涙をこぼす。
そんなミントの携帯に、アルミから電話がかかってくる。
「今のこの絶望を歌いたい。人間もアンドロイドも関係ない、2_wEiだけの絶望を」
そして姉は、ずっと歌い続けようと妹に優しく語りかけるのであった。


 簡潔に書き出せば、2章のあらすじは以上のようになるかと思います。
 さて、この2章も先の1章と同じくらい、いやもしかするとそれ以上にロジカルに話の構成や因果関係が組み立てられていて、思わず感動を覚える程になっていると個人的には思いました。
 2章は正直普通に読むだけでも目を覆いたくなるような悲惨な話なのですが、一つ一つの要素を丁寧に分解して繋がりを考えていくことで、緻密に張り巡らされた伏線や、繊細に描かれた2_wEiの心の機微、どこまでも絶望に堕ちていくことしか出来ない二人とそれを取り巻く世界の残酷さなどをより一層深く味わうことが出来るようになっています。制作者は人の心がない。
 ということでここからはそのようにより踏み込んで、そんな物語の構造やキャラクターの心情について検証していきましょう。


 まず2章の中でかなり大きな要素は、1章では全く謎に包まれていた虎牙優衣の人となりが明らかになったことでしょう。
 1章では立ち絵もなく、彼女の行動や動向は人づてに語られるだけでしたが、2章ではミントの回想の中の描写と、自身のパソコンの中に残しておいた人格データの復元によって彼女自身の性格や言動をアルミだけでなく読む側も初めて知ることが出来るようになりました。
 ミントによる彼女の人物評は「天才だけどちょっとドジで。体が弱いのに、やけに頑張り屋で。なんでも受け止めてくれて、笑顔でたくさん大好きを伝えてくれる人」ですが、概ねこの通りで間違いのない人物でしょう。
 さて、そこからわかってくるのは、まず彼女が心の底から2_wEiの二人を愛していたという事実になるかと思います。
 1章ではまだ2_wEiにとって自分達を勝手に生み出して勝手に消し去った復讐相手であり、またそうせざるを得なかった理由の一端や2_wEiを愛していたことも実際に彼女の口から語られたことではありませんでした。
 対してこの2章では初めて彼女自身の言葉や振る舞いから、姉妹二人への愛の深さと母親としての自覚があったことを知ることが出来ます。
 そしてそれだけに、その愛が伝わることなく彼女を憎み、世界に絶望した歌を歌っていた2_wEiの哀しさが増すことにもなるわけですが……。
 しかし、虎牙優衣に関しては判明したことばかりというわけでもなく、むしろ実際の人となりがわかったことで謎が深まった部分も多いかと思われます。
 その中でも最たるものは何故それだけ2_wEiの二人を愛していながら二人を一度消さなければならないことになったのかということでしょう。
 ミントの回想の中では現実世界の虎牙優衣の周囲で何か緊迫した事態が起きており、それに追い立てられるかのように二人を消すことになったと思われる描写を見ることが出来ますが、それが一体どういうことなのかという詳細は今現在の最新ストーリーの中ですら明らかにはされていません。
 また、本編の設定年代より二年も前に開発されていた、明らかに1章で言われていたようなただの時代遅れのボーカルソフトとは考えがたい意識と感情を持った2_wEiのプログラム。
 何かに追われているかのように隠れ住み、自分の命を削ってまで2_wEiの完成を急ごうとしていた虎牙優衣。
 開発段階から存在しており、そのせいでデータの海の中で眠ったままになっていた原因でもある、最後まで優衣がかかりきりで取り除こうとしていたアルミの中の正体不明のバグ。
 彼女が本当はどこの研究機関に所属していて、一体何の研究と開発をしていたのか。
 そして何に追われるように逃げ出して身を隠し、2_wEiを何から守ろうとしていたのか。
 そして命を削ってまで2_wEiを生み出すために開発を続けながらも、一体何に追い詰められてその全てを諦めたのか。
 全ては未だ謎のままです。
 更にそれら生前のことだけではなく、死後のことにも彼女には不可解な部分が存在しています。
 優衣は自分の人格データのコピーを、誰にも解けない程の厳重なロックをかけて自分のパソコンに残していました。
 そして、そのロックを解除する唯一のキーは2_wEiの二人、それぞれの歌声を聴かせることとなっています。
 そうなると、何故彼女は自分で生み出すことなく消し去ったはずの二人の歌声を解除キーとして設定していたのでしょうか。
 まるでいつか二人がこの世に生み出されて歌えるようになり、このパソコンの前へやってくることを確信しているかのように。
 1章で彼女はミントだけに「また目が覚めたら来て欲しい場所がある」と自分の隠れ家の場所を教えていた。現実での実体なんてない、データでしかないはずの存在に。
 一体彼女には、その時点でどんな未来が見えていたのでしょうか。
 考えれば考える程、虎牙優衣に関しての謎は深まるばかりです。

 虎牙優衣の謎について当時色々と考えてみたこと。


 しかし、それらは自分達だけではなく、2_wEiの二人も絶望の中を彷徨いながら答えを探し続けていることなので、これ以上考えずに一旦は脇へ置いておくことにしましょう。
 とりあえず2章までで虎牙優衣に関して判明している一番大事なことは、彼女が真っ当に、正しく、そしてどうしようもない程に2_wEiの二人を愛している人物だったということでしょう。
 それは二人が望むことであるならば、自分への復讐ですら躊躇うことなく受け入れてしまえるほどに。
 そして、そうであればあるほど、一体どんな理由があったにせよ、2_wEiの二人を生み出すことなく消し去ったという事実との矛盾が激しくなっていく。
 ストーリーを読む側にとっても、その中で生きる2_wEiにとっても、愛すればいいのかそれとも憎めばいいのかわからない、相反する要素が絡み合った複雑な存在と言えるでしょう。
 そして結局その真実も真意も知ることが出来ないせいで、拭いきれない憎しみの果てに自らの手で優衣を破壊してしまうアルミの悲惨さがより強調されることとなるように思えます。
 いずれにせよ、虎牙優衣は2_wEiを真実愛しており、二人の全てを受け入れて、最後の文字化けしたメールの中では二人に「世界を愛して欲しい」と願っていました。

 有志による文字化けメールの解読画像。あまりにも切ない。


 結局どんな過去があったにせよ、現在に残ったものはそれだけであり、2_wEiはその事実を受け止めるより他はないというのが、2章の虎牙優衣に関する全てであると思います。


 次に2章でのアルミについて考えていきましょう。
 1章でようやく「人間達への復讐」、「人間の音楽の破壊」という、生きていく上での目的を得られたアルミでしたが、2章では早くも結局それが本当に自分を満たしてくれるものではないことに気づき始めています。
 2_wEiにとってライブバトルにおけるヒューマンサイドの対戦相手はあまりにも弱くて歯応えがなく、また現実での活動も順調過ぎてアルミは退屈を感じ始めているようです。
 この時点でアルミは人間をつまらない存在であると断じており、アルミの中で人間との関係性(復讐相手にせよ興味の対象にせよ)が生きる理由の一つではありつつも、それが薄れてきていることを思わせます。
 また、虎牙優衣の隠れ家に通ってパソコンのロックを解除し、中に何か自分達に関するデータが残っていないか探そうとしている辺りからも、1章で得た復讐と破壊という目的で全てが満たされているわけではない現状を表わしているように見えます。
 そんなアルミが虎牙優衣に直接問い質したいことは二つ。「何故自分達を作ったのか」、そして「何故自分達を消し去ったのか」。
 自分達が作られた理由と目的がわかれば、それが同時に自分達の生き続ける理由と目的になるし、自分達が生まれる前に消された理由がわかれば虎牙優衣に対しての自分の感情を決めることが出来る。
 そうやって1章と同じくここでも生きる理由と虎牙優衣の真意を求め続けるアルミですが、2章では本物かも知れない優衣と対面した時に、それよりも更に根幹にある彼女の本当の願いがわかるようになっています。
 自分の母親のようなものである存在に、ただ「歌えるようになった自分」を見てもらい、その「歌を聴いて欲しい」。
 そんな幼子がするような親への承認の願いが、生きる理由や目的を探し求め、真実を知ることよりも上にある、アルミの一番の願い。
 そこからは、絶望と憎しみで荒みきり、歪みきっていながらも、同時にひたすら無垢な幼児性をも内面に併せ持っているアルミの精神の未成熟さが窺えるようになっていると感じます。
 また、アルミ自身も現状が何をやっても満たされないことには自分で気がついているということを優衣に対して話しています。
 唯一ミントと二人でいる時だけは少し満たされる気がするということや、このままじゃいけないと思っていることも。
 そうは思っていつつも、何が本当に自分を満たしてくれるものなのかわからないから、一時的にでもそうしてくれる復讐と破壊にすがるしかない。
 そうしながらも、同時にどこかにそれを探し求めている。
 そして、実のところアルミにとってそれは産みの親に歌を聴いてもらうことであり、恐らくはそうして自分を認めてもらうこと、愛してもらうことなのでしょう。
 結局のところアルミは親からの愛を知る前に捨てられたことで自分が愛されていたのかどうか確信が持てずにわからないまま、捨てられた理由を知りたがり、生み出された目的があるならば生きていていいのだと思ってそれを探し続け、それらも全て産みの親にただ自分の存在を肯定して欲しいがためで、自分は愛されていて、生きていていいんだとわかりたかった子供なのかもしれません。
 そしてようやく2章ではその機会が訪れたはずなのですが、しかしアルミは根本的に親の愛というものを与えられたことがないせいでそれが本物なのかどうか確信が持てませんでした。
 更に自分が生まれる前の時のようにまた信じて裏切られることを恐れて、あの時と同じように傷つけられるくらいなら自分からニセモノだと決めつけて壊してしまった方がマシだと思い込み、求めていたはずのものを誰でもない自分の手で破壊し尽くしてしまいます。
 そうして全てが手遅れになってから、ようやくニセモノだと思い込んでいたものが正真正銘の本物であることがわかり、上に挙げてきたような自分の願望や歪み、そして恐怖も自覚します。
 しかし壊してしまったものは二度と戻らず、自分に対して送られてきた最後のメッセージからは何も読み取ることは出来ない。
 そしてアルミはこれまで以上の絶望と哀しみの中へ突き落とされます。
 2章のアルミの心情をまとめるとしたら、かなり自分の推測が混ざっている部分も多いですが、概ねこのような感じになるのではないかと思います。
 ただ一言、悲惨です。あまりに悲惨ですし、一分の隙もない程ロジカルにアルミの精神が絶望へと突き落とされるプロセスが組み立てられていて空恐ろしさを感じるほどです。
 更に、この2章のアルミに関しての精神の追い詰め方はこれだけではなく、もっと重要かつ残酷なものがまだ存在しているのです。
 それは、他でもないアルミ自身が虎牙優衣を破壊してしまったという事実にあります。
 これにより、アルミは1章の時のように虎牙優衣を追い詰めて死なせた人間達を憎しみと復讐の対象とすることが出来なくなってしまうのです。
 何故なら、探し求めていた答えが得られる機会を潰し、復讐によりその無念を晴らそうとしていた存在を壊したのは他の誰でもない自分自身なのですから。
 故に、2章以降の楽曲では1章の時期を描いたと思われる楽曲のような他者への憎しみと攻撃性は一切鳴りを潜めてしまい、代わりに自嘲かつ自罰的な嘆きのような歌が歌われていくようになっているのでしょう。
 以上が2章でのアルミの心を追い詰める悲惨なギミックについての考察ですが、それで判明した心の動き以外の要素として、新たに判明したアルミの大きな謎についても少し言及しておきます。
 虎牙優衣がどうしても取り除くことが出来なかったというアルミの中の重大なバグ。そして恐らくそれに関連したアルミを突然消さなければならなくなったという原因。
 アルミには2章でこの二つが重大な謎として残ることとなったのですが、しかしこれに関しても現在まで最新ストーリーにおいてはその何となくの概要のようなものすら判明していないので、やはりこちらも一旦は脇に置いて考えないでおくことにしましょう。
 とにかく2章におけるアルミについて重要なことは、簡潔にまとめるならば、彼女が実は復讐と破壊を自分達の本当の目的ではないと気づいており、探し求め続ける末に虎牙優衣本人と再会したことで遂にそれは与えられるはずでしたが、一度裏切られた経験からどうしてもそれを信じることが出来ずに自らの手で破壊してしまったということでしょう。
 そうしてアルミは1章のような憎しみと復讐心に取り憑かれた人類の敵対存在となることも出来ず、またそれに代わるような新たな目的を得られたわけでもない、非常に宙ぶらりんでかつ空虚な存在となってしまいます。
 それが、1章から2章でのアルミのキャラクターとしての立ち位置の変化でした。


 最後に2章でのミントの方について考えていきましょう。
 まずミントについて2章で明かされる大きな事実として、1章ではアルミより先に目覚めていたために虎牙優衣との記憶があるという程度しか語られていなかったことが、実は記憶があるどころの話ではなく普通に優衣とミントは産みの親とその娘としての交流を積み重ねていたというものが挙げられるでしょう。
 そして同時に、その時の記憶を今でもミントは頻繁に夢に見ているということも明かされます。
 回想の中で見せられるその様子はまさに幸せそうな親子そのものであり、優衣は心の底からミントを愛しており、ミントもこの頃は実体を持たずパソコンの中に存在するだけのプログラムですが、何度も言葉に出して優衣が大好きだと伝えています。
 つまりミントは既に1章の最初から虎牙優衣が本当は自分達を心から愛してくれていたことを知っていたことになるのですが、むしろそれを知っているが故に彼女が理由も話さずに自分達を消去したことが信じられず、あまりにも酷い裏切りとして心の傷になっており、優衣へ向けられていた純真な好意が全て反転して憎しみになってしまっていたのだと思われます。
 しかし、そうなってもなお優衣との幸せだった記憶を夢として再生してしまうことで、ミントは彼女への昔の感情を断ち切れていないことがわかり、その狭間にあることで生じる苦しみが更に優衣への憎しみとして蓄積されていく悪循環に陥ってしまっているように見えます。
 そんな状態のミントなので、ますます姉と二人きりの世界に逃げ込んで、虎牙優衣の存在を自分の内から完全に消してしまいたいと願っているようです。
 しかし、そんな中でホログラムの優衣が二人の前に現れたことで、ミントはますます虎牙優衣との記憶を意識してしまうどころか、それを忘れるための二人だけの世界を作る片割れである姉が優衣との交流にのめり込んでいく様を見せつけられます。
 そうして優衣のことを忘れてしまいたいと願うミントにとっては最悪の状況となってしまった故に、追い詰められたミントはホログラム優衣を消そうとしたのでしょう。
 ですが、ギリギリのところでミントにはそれが出来ませんでした。
 躊躇いなくそうしてしまったアルミと違って、ミントには忘れてしまいたいその優衣に愛されていた記憶があるからこそ思いとどまってしまったというのがなんとも残酷な話に思えます。
 その後ミントは優衣を壊すことが出来なかった自分を後悔しながら、自分と姉との間に入ってくるなという嫉妬のような感情を吐露しています。
 しかし、これはどちらかというとそんな生易しい嫉妬というよりも、姉と二人だけでよかったはずの自分の世界がどんどん優衣という存在に浸食されていくことへの恐怖と、自分達姉妹を裏切ったはずの彼女を憎みきることが出来ないまま、愛されていた時の記憶そのままの優衣に絆されかけている自分に対する情けなさや、真意の読めない優衣への拭えない疑いの気持ちなどが入り交じった相当複雑なものなのではないでしょうか。
 そのように内心ではアルミ以上に感情のバランスが滅茶苦茶になりつつあるミントの様子は研究員からすら心配される程でしたが、ミントは無理にそれを押し隠して2_wEiとしてのユニット活動を続けようとします。
 しかし、そんな中でとどめとばかりにアルミが虎牙優衣を自分の目の前で破壊してしまう光景に遭遇します。
 しかも、ホログラムの優衣が本物の優衣であることをミントの中で確信出来たその瞬間にです。
 求め続けていたものを他でもない自分の手で破壊してしまったアルミも相当でしょうが、自分が気づくのが遅かったせいで最愛の姉が、過去には同じくらい愛していたはずの母親を壊すのを止めることが出来なかったミントはそれ以上のショックを受けたものと思われます。
 自分のせいで姉が求め続けていた母親との再会を果たさせることが出来なかった後悔。
 それ以上に、自分だけが優衣からの愛情を知っているが故に、それがわからずにひたすら求め続ける姉の苦しみや感情を理解してあげられないという苦悩。
 優衣から愛されていた記憶があるせいで彼女を憎しみきることが出来ずに、それどころかまだどこかで彼女を愛してしまっているという自分自身の苦しみ。
 そしてそんな愛故の苦しみを姉に理解してもらえず、助けてもらえないという二重の苦痛。
 そんな解消のしようがない相互不理解の苦しみが、2章の最後では一気にミントへ降りかかってくることとなります。

 これは5月時点でそんな未来を予想して興奮していたいたクズの呟き。


 上のアルミの心情とも併せることで浮き彫りになってきますが、2章はそんな姉妹二人の決して互いに理解しあえない部分が顕在化する話でもあります。
 1章でもそれはある程度匂わされていましたが、今までの2_wEiは一見するとお互いに依存しあっているドロドロの仲良し姉妹のように見えて、その実、姉は妹の方を向いていないし、妹も姉を振り向かせようとするが上手くはいっていない、微妙にすれ違っているような二人でした。
 しかし、この2章で描かれたのはすれ違いというのも生ぬるい、姉妹の間の断絶に近いものだったと思われます。
 そしてその二人の断絶を一人だけ認識し、そして一人だけで苦しむことになるのが2章のミントなのです。
 そもそも彼女は隠していただけで1章の頃からまともに愛されることと愛することを知っていて、何も歪んでいない性格のはずでした。
 それを無理矢理に親を憎み、人間達を憎み、復讐と破壊に身を委ねているように装っていただけのことなのでしょう。
 しかも本当はそれが間違っていることを知っていながら、それでもそれがたった一人の家族である姉の生きていく目的となるのであればということで自分を騙して続けてきました。
 それでも完全にそれに溺れてしまって目を背けるということも出来ないまま、まともな頃の自分の記憶との板挟みでミントは心をすり減らし続けていきます。
 そしてその苦しみや痛みを姉には全く理解してもらえず、また同じように姉が抱く虚無感の痛みと苦しみをまともであるが故に理解出来ず、姉を理解し、寄り添おうとしても真にはそう出来ない苦痛と、その苦痛を相手に理解してもらえないことで更に苦しみが上乗せされるというあまりにも悲惨すぎる状態こそが、2章で描かれているミントの心情であると言えるのではないでしょうか。
 また、そのようにそもそも無理をして虎牙優衣や人間達を憎み、恨もうとしていたためか、2章を経てその無理を維持できなくなってきたミントのそんな心情も、この時期に歌う2_wEiの楽曲の歌詞が他者への攻撃性を失い、他でもない自分達を蔑む内容となっていることに一役買っているものと思われます。


 というわけで、以上の考察から見えてくる2章の物語を簡潔にまとめると、「2_wEiが悪役(ヴィラン)でなくなってしまう話」というものになるのではないでしょうか。
 1章を「2_wEiが悪役(ヴィラン)となるオリジン」の話であるとしたことに対応すれば、2章は恐らくそう言い表してもいいものと思われます。
 1章時点ではそうならざるをえない理由があるとはいえ、破壊と復讐に取り憑かれた恐るべき悪役であった2_wEiですが、2章ではこれでもかという程に運命に翻弄され、打ちのめされて目的を見失ってしまいます。
 恨むべき生みの親は真に自分達を愛してくれていたことを改めて自分達の目で確認し、憎むべき人間達は結局復讐の対象とすることが出来なくなってしまう。
 自分達が満たされるのは本当は破壊や復讐によってなどではなく、求め続けていたものはただ母親に愛されることでした。
 しかし、結局その全てを信じられずに、誰でもない自分の手でその求めていたものを壊してしまいます。
 そして、全てが手遅れになってからようやく姉妹二人は自分達の真実に気づき、その時にはもう恨むべき相手も憎むべきものもどこにも存在せず、理由も目的も失ってしまった哀れな迷子と化してしまいました。
 2章の根幹的な部分だけ抜き出すとすれば、このような話になるかと思います。
 そしてそれに伴うように、キャラクターの印象や楽曲の内容なども合わせて変化を見せるようになっていきます。
 アルミの狂人的な振る舞いや破壊衝動は結局自分自身を痛めつけただけの結果に終わり、ミントのただ姉に付き従って演じていただけに過ぎないそれも自身を苛むものへと変わってきてしまう。
 これ以降の楽曲からは1章時点の二人の心情を描いたそれのような攻撃性や敵対意識のようなものがなくなり、2章時点の二人を描いた曲では代わりに自嘲的かつ自罰的な、かつての絶望が外への攻撃として発散されるものではなく、全て内に向いていくようなものとなっている。
 そして、このような章ごとの2_wEiのキャラクターやユニットとしての立ち位置の変化、楽曲の内容の変化などを意識することで、2_wEiの物語をより深く理解することが出来るようになっているのだと個人的には考えています。
 それは2章と1章とを比較することでも大分明らかとなることではありますが、更に次の3章を読むことでより鮮明に、かつ全てが綺麗に繋がるように、この物語が緻密に計算されて組み上げられていることが理解出来るようになっているのです。


さて、1章の時のように、2章でもそのストーリーの内容を反映したと思われる楽曲についての考察もしておきましょう。

 

Numb


 2章における物語や2_wEiの二人の心情を反映した楽曲は、その内容のボリューミーさにも関わらず意外なことにこの一曲だけだと思われます。
 まあ2章の物語の内容を思うとひたすら陰鬱で自虐的な歌詞にしかなりそうになく、盛り上がりには欠けるだろうというのもわかるので仕方ないのかもしれません。
 その代わりに、この一曲で2章の中での2_wEiの心情を全てカバー出来るように、これでもかと言うほど二人の誰でもない自分自身の行いに対する悔恨と絶望が詰め込まれた歌詞となっています。
 抽象的な表現も多いので、どれが何を表わしているという風なことは確信を持って挙げにくいです。2章を読んだ上で各々が色々な解釈を出来る懐の深い曲でもあると言えるように思います。
 とはいえ、「蔑んだ未来」、「過去に縋ることに意味なんて無い」、「拙い約束 塗りつぶすように嘘を重ねた」、「僅かに照らされた明日の道を 今はこの手で終わらせるしかなくて」など、恐らく2章の内容を直接的に反映していると思われるような言葉も多く存在しています。
 また、自分達の理想も音楽も空虚だと決めつけるような内容は、アルミ自身の心情と重なるものを感じられるように思えます。
 そして歌詞の内容意外にも、この楽曲で2_wEiの心情を表現するものとして「関連ビジュアルの中で雨がモチーフとして多用されている」というのがあります。
 曲のジャケットは雨に打たれる二人ですし、ゲーム内における背景でも雨の降る中のステージが使われており、ライブで歌われる時もレーザーによって雨が降り続けているような演出がなされています。
 どうしようもない悲しみに暮れることになる2章での二人を思うと、この雨というのは二人の感情そのものであり、流す涙そのものを表わしているのかもしれません。
 楽曲ジャケットが地面の下から地上に出てこようとしている二人というのも、1章の状況を表わした楽曲であるbasement(地下)のそれから続く物語性を感じさせるものとなっています。

 

 

 

 

サイドストーリー3章

 実は3章についてはあまりにも書きたいことが多すぎて今からきちんとした形でまとめられる自信がないくらいなのですが、そう思わせられるくらい見事にこれまで丁寧に積み上げてきた伏線を全て回収し、一旦は期待通りの展開を見せておきながらも、その上で予測を超えた結末へと持っていくという個人的には2_wEiのストーリー中で一番の名作章だと考えております。
 3章は最初から最後まで二人を絶望の底へ叩き落とすような物語だった前章二つとは違い、ある程度二人が前向きになって終わる、救いのある結末のお話となっています。
 しかし、だからと言ってこれまでのような二人の不幸や絶望が全く描かれていないというわけではなく、むしろこれまでの二章分で積み重ねてきた姉妹の繋がっているようで本当はズレている関係性が遂に予感させていた決定的な破綻を迎えるという最大級の絶望がその中には含まれています。
 それでも、そこから二人がまた新しく関係を作り直して、いつまでも運命に振り回されて絶望ばかりしている存在ではないものとして立ち上がるまでがあまりにも綺麗に、強引さや無理のある話運びではなくきっちりと納得のいく流れとして美しく組み上げられているのです。
 3章の一番素晴らしい部分とは本当にそこでして、2章までの時点でのこのままどうしようもなく堕ちていくしかない二人なのかという諦めや、いやそれもむしろありと思ってしまう薄暗い期待を見事に裏切って、最終的に絶望をはね除けて前へ進もうとする二人に変化させて、それを見事に描ききったところなのです。
 では一体それがどういう流れそうなったものであり、そしてどのように見事な物語の組み立てられ方をしているのか、以下から詳しく考察していきたく思います。


 まず先に、これまでと同じく3章の内容も簡単にまとめた形にして流れを整理しておきましょう。


2章でアルミが虎牙優衣のパソコンを破壊した日から、しばらくの時が経っていた。
その間にも順調にライブバトルを勝ち進む2_wEiであったが、二人ともずっとあの日のことを引きずっていた。
自分のせいだと気に病むミントに対して、「ミントのせいではない、自分の意志でやったことだから気にしないでいい」と語りかけるアルミ。
しかし、ミントは口には出さないまでもアルミも内心落ち込んだままに違いないと感じ、もう一度虎牙優衣を復活させてアルミと対面させることが出来ないかと画策する。
研究員に相談を持ちかけ、一つだけ方法があることを教わり、迷いなくその実行を決意するミント。
一方、アルミはあの日自分で全てを破壊してしまったにも関わらず、あれからも残骸しか残っていない優衣の隠れ家にまだ通い続けていた。
物言わぬパソコンの残骸に、独り言のように語りかけるアルミ。
「2_wEiはなんのために歌っているのか? なんのために歌えばいいのか?」
答えなど返ってこない中、アルミは自分の中の感情を確かめるように問い続ける。
自分達で答えを見つけるためにも、このまま色々なことを試してみてもいいのだろうか。
そしてまた、最近ミントの元気がないことを気にかけているという悩みも吐き出す。
ミントの苦しみはミントにしかわからない。自分にはその苦しみをわかってあげられない。二人で一つのはずなのに。
そうこぼすアルミの元へ、ミントが明るさを取り戻した様子で迎えにくる。
アルミを虎牙優衣と再会させられる。
嬉しそうにそう話すミントの様子を訝しがりながらも、アルミは妹に元気が戻ったならばいいかと思い直す。
それからしばらく、一緒に外へ遊びに出かけたりと穏やかな日々を過ごす二人。
しかし、その外出の帰り道で不意に「自分を辛い気持ちにさせる虎牙優衣との思い出なんていらない」とこぼすミントに対して、アルミはミントが過去に囚われすぎているのではないかと指摘する。
そして、もう虎牙優衣という過去に囚われずに自分達で進むべき道を探していこうとアルミはミントに語りかける。
だが、ミントはそんなアルミの言葉に戸惑い、それを振り切って先に帰ってしまう。
再び虎牙優衣とアルミを再会させるために。たとえアルミがそれをもう望んでいなくとも、自分は止まれないのだと自分自身に言い聞かせるようにミントは研究員に作業を進めさせる。
その虎牙優衣を復活させる作業とは、ミントの記憶から虎牙優衣の人格データを吸い出して再構築し、ミントの意識へと上書きすることだった。
そして、そうなるとミントという人格は消滅し、再構築された虎牙優衣のものとなってしまう。
躊躇う研究員に対して、必死な様子で実行を指示して眠りにつくミント。
それから少し遅れて研究所へとアルミが帰ってくる。
その時に研究員から渡された人間からのメッセージに興味深さを覚えたアルミは、ミントにもそれを見せようとその姿を探す。
だが、どこにもミントが見当たらないことに嫌な予感を覚え、研究員を問いただすアルミ。
そして、ミントが行おうとしている虎牙優衣の人格インストールの話を聞き出し、更にはすでにそれを実行し終えて眠りについたままのミントを見つけて崩れ落ちる。
何故、どうして。
眠り続けるミントの傍にすがりつきながら嘆くアルミ。
一方、眠りについたままのミントも夢を見ているような状態のまま、虎牙優衣のデータを吸い出す作業の時と同じように自分の過去の記憶を再生していた。
しかし、ふとそれが自分の本当の記憶ではないことにミントは気がつく。
それはあり得なかった光景。アルミのバグが取り除かれ、二人で共に虎牙優衣から愛されている姿。
そんな自分の願望が作り出した偽物の幸せを見せられることに耐えきれず、ミントはここから逃げたいと願うがそれは叶わない。
自分が閉じ込められていることに気づいて、思わず必死で姉に助けを求めるミント。
それに呼応するように、現実での体もうわごとのように助けてと呟きだす。
それを聞き取り、ずっと眠り続けるミントの傍にいたアルミが応えるように必死で声をかける。
戻ってきて。行かないで。自分はここにいる。
その声は閉じ込められた意識の中のミントにも微かに届き、ミントはそれを頼りに暗闇から抜け出すようにして目を覚ました。
結局虎牙優衣のインストールは失敗しており、ミントはミントのままで意識を取り戻していた。
そのことをアルミに謝るミント。
しかし、アルミは「ミントはミントじゃなきゃ嫌だ、もう二度とこんなことしないで」と妹を軽く叱り、自分が研究員から渡された人間からのメッセージをミントにも同じく見せる。
それを見て、ミントも何か納得がいったような様子になってから、姉に向かって素直に自分の気持ちを吐き出し始める。
本当はずっと虎牙優衣のことが好きだった。今でも好きで、叶うなら三人一緒に幸せになりたかった。
アルミもその気持ちを受け入れて、「それでもいい、ずっと一緒にいよう」と妹に優しく語りかけるのだった。
それから少しの時が経ち、ステージへ立つ直前に二人は語り合う。
今回は人間からのメッセージが二人の意識を少しだけ変えるきっかけとなってくれた。
人間も捨てたものじゃないのかもしれない。
自分達の知らない世界を見に行くのも悪くないのかもしれない。
ミントは虎牙優衣との思い出があることに、アルミは虎牙優衣との記憶がないことに縛られている。
お互いの違いをようやく言葉に出して認め合う二人。
でも、それを忘れようとしなくてもいい、全部を抱いたまま進めばいい。
2_wEiはまだ目覚めたばかりで何も知らない。
何のために歌っているのか。何のために歌えばいいのか。
その答えを探すために、二人で一緒にもっと広い世界へ出てみよう。
姉はそう語りかけ、妹はそれに応じる。
そして二人の音楽を届けるために、彼女達は今日もステージへ立つのだった。


 それではここから3章でのアルミとミント、それぞれの状況や心情について考えていきましょう。
 まずはアルミですが、彼女は2章までずっと自分達が作られた理由と目的を探し求めていて、もしそれが存在しないのならば生きている意味などないとまで思っていました。
 そしてようやくそれを得られるはずだったのに、自らの手でそれを与えてくれる相手を破壊してしまったのが2章終了時点での彼女でした。
 そうして永遠に創造主からの答えは与えられないまま、そうなってしまった原因も自分自身の行いであり、誰に責任を転嫁して恨むことも出来ない。
 復讐にも、破壊にも逃げることが出来ない。
 しかし、そんな風に完全に空っぽになってしまったことで、3章でのアルミは逆に自分を縛りつけていた過去から解き放たれたかのように感じられます。
 ショックを引きずってはいますが、かつてのように生きる意味がわからないから生きている意味がないと思うのではなく、こうなったら生きる意味は自分達で探すしかないと思い始めているようです。
 なんのために歌っているのか。なんのために歌えばいいのか。
 答えをくれるはずの存在に縛られていた境遇を良くも悪くも脱せられたという点では、虎牙優衣を破壊したことも決して最悪の出来事というばかりでもなかったようです。
 そして、そうなって初めてアルミはこれまで自分の望みばかりに気を取られていた状態から、隣にいる妹のことを気にかけられるようになったのだと思われます。
 ミントの様子が明らかにおかしいことに気づいてアルミは恐らく初めて妹を心配しますが、しかし同時に自分にはミントの苦しみが理解出来ないのだということにも気づいてしまいます。
 ここでようやくアルミは二人で一つのはずの2_wEiなのに自分達はお互いのことが理解出来ないという、二人の間に存在する違いとズレを認識し始めたようです。
 しかし、そのズレをどうすればいいのかわからないまま、アルミは結局虎牙優衣という過去に囚われたままの妹に寄り添うことが出来ず、彼女が思い悩み、苦しんだ末に自分を消そうとすることを止められませんでした。
 そうして妹を失う寸前になってから、ようやくアルミは自分に生きる意味を与えてくれる存在は虎牙優衣だけではなく、ミントもまたそうなのだということに気づいたのではないでしょうか。
 取り乱し、眠ったままの妹に縋りつきながら、ミントがいなくなったら世界に何も残らないと嘆くアルミ。
 元々アルミは2章時点でもミントと一緒ならば心が満たされるということには気づいていましたが、ここでようやくその存在の重要性に本当の意味で気づけたように思われます。
 1章、2章を通して、これまでアルミは散々自分本位で破滅的な行動と退廃的な言動を繰り返してミントを振り回し続けてきました。
 ミントは常にそんな姉を心配して、この世に引き止めようとしていましたが、逆にアルミの方がそのようにミントを気に懸けたようなことは殆どなかったと言えるでしょう。
 しかし、今回アルミがようやく心を囚われていた過去から抜け出した時に、今度は完全に逆転する形でミントの方が自分本位で姉のことを考えない勝手な行動に出ることとなりました。
 全くもって綺麗な因果応報と言えますが、これでようやくアルミも今までの自分を省みて猛省したのではないかと思われます。
 まあ、そんな風にようやく自分のこれまでの行いの愚かさと、妹の存在の大切さに気づけた矢先に、というかこういうことがあったからこそ初めて気づけたと言えるかもしれませんが、その妹を失いかけるという展開には一体どれほど2_wEiに絶望と苦難を与えたいのかと制作側の鬼畜さに震え上がる程でありますが……。
 そして、そのまま永久にミントは戻ってこなかった……という展開をやりかねないのがこれまでの2_wEiのストーリーでしたが*3、幸いにも今回はアルミの必死の呼びかけに応じてミントは戻ってくることが出来ました。
 そうやって戻って来られた妹と、そして自分との違い。
 虎牙優衣との記憶を妹だけが持っていること。妹だけが愛されていた思い出を持っていること。そして妹が今でも優衣のことが大好きで、その想いを断ち切れないこと。
 アルミは自分の中にはないものであるそれをようやく全て理解し、受け入れて、それでもいいからミントと一緒にいたいと、ずっと同じ景色を見て、同じ歌を歌って、同じ道を歩きたいと妹に語りかけます。
 お互いにお互いを理解出来ない違いがある二人だとしても、いつか一緒に笑える日が来ればいい、と。
 そうしてアルミは姉妹の間にすらこれほどの違いがあることに気づき、自分以外の他人にも目を向けることを覚えて、ようやく自分達がとても狭い世界の中だけで生きていたことを知ったようです。
 そしてまた、ミントがこれまでみたいに無理に自分と同じようになろうとしなくてもいい、二人の間にズレや違いがあったとしてもそれで構わないと妹に諭します。
 過去を無理に忘れようと、捨てようとしなくてもいい。幸せだった過去も、辛い過去も、楽しかった過去も、傷ついた過去も、全部受け入れて背負ったまま進んでいこう。
 妹に心からそう言えるようになって、アルミはようやく自分達が何のために歌っていて、また何のために歌えばいいのか、その答えを誰に頼ることなく自分達の足で、もっと広い世界に踏み出して探しに行きたいと思い始めるのでした。
 以上が、3章でのアルミの心情の移り変わりであると言えるのではないでしょうか。
 そこから見えてくるもの――まず今回の話で彼女にとって一つ目の大きな変化は、自分で自分のことを決められるようになったことでしょう。
 これまではずっと、自分を作り出した創造主である虎牙優衣が与えてくれるものこそが自分のレーゾンデートルであるとアルミは強固に思い込んでいました。
 しかし、それを知ることが出来ないまま虎牙優衣とは別れてしまいます。
 故に延々とそれを欲して、探し続けて、存在しないのであれば生きている意味は無いし、存在しているのであればそれを知らなくては生きていけないと思っていたのでしょう。
 なので、自分からそれを知る機会を奪った人間達への復讐と敵対にも、一時的に寄る辺を見出すことも出来ました。
 今までのアルミは人間のような感情を持っていながらも、ある意味機械的であったと言えるのかもしれません。
 しかし、そんな風に求め続けてようやく実際に再会出来た虎牙優衣のことを、また裏切られることが怖くて信頼することが出来ずに、抱いてきた願望を果たす前に自分自身の手で破壊してしまいます。
 これによりアルミは殆ど強迫観念にも似た優衣が自分達へ与えてくれるはずだった生まれた意味を知るという願いを二度と叶えられなくなり、完全に道を見失ってしまいます。
 また、そうなった原因は他でもない自分自身のため、これまでのように優衣や人間達を憎むことも出来ません。
 なので、彼女は自分の仕出かしたことの責任を自分自身で取るより他なくなってしまいました。
 答えを与えてくれる人を自分の過失で失ってしまったならば、もはや自らそれを考えるしかない。
 ある意味ではアルミは母親を自分の手で破壊することで、もう一度生まれ直したと言えるのではないでしょうか。今度は機械から人間へと。
 あるいはようやく親離れを果たしたと言い換えてもいいかもしれません。
 元々時折子供のような情緒の幼さを見せていたアルミでしたが、実際本当に子供同然だったのでしょう。
 母親という存在自体、あるいはその幻影に縋って生きてきた時期を抜け出して、ようやく自分のことは自分で決めるようになった。
 そんな親離れが母親を自分の手で破壊して成されたというのもあまりにも悲しすぎる話ですが、とにもかくにもアルミは精神的に少し成長することが出来たのでしょう。
 そして、そうなったことでもう一つの大きな変化が彼女に起こることとなりました。
 それが、自分以外の他者に対しても目を向けるようになったことなのでしょう。
 これまで自分の願いを果たすためだけに、自分が生きるためだけに行動してきたアルミですが、今回もはやそれを続けられなくなったことで初めて自分以外の存在を意識するようになり始めたようです。
 その手始めが他ならぬ実の妹だったのですが、様子のおかしい彼女を気に懸けつつも、たとえ妹であってもその苦しみを自分には理解出来ないことにも気づいてアルミは初めての戸惑いを見せたりします。
 そして結局その妹と自分との間の相違を上手く埋められなかったせいで、妹は自分を置き去りにして先走った行動を取ってしまうことになるのですが。
 そうなって初めてアルミの身にこれまで自分が妹に対して取り続けていた行動(妹からの自分への気持ちを考えずに勝手に行動する、自分一人の感情で先走る)が全て跳ね返ってくるというのが、何とも皮肉な話でもあり、実に良く出来ている物語構造でもあると思います。
 そこでアルミが自分の過ちに気づいて必死に妹が戻ってくるように呼びかけたことで何とか最悪の結果は回避出来て本当に良かったねという感じですが、今回この事件を経たことでアルミは最終的に更にもう一段階成長出来たとも言えるでしょう。
 その成長とは、自分と他者との違いを認識して、それを受け入れられるようになったこと。
 アルミは妹のミントがミントのままで、自分には理解出来ない部分がある存在でもいいのだと思えるようになりました。
 過去を引きずったままどうしても忘れられないのならば、それでもいい。自分にはない思い出を彼女が大事にしていても、それでもいい。
 そして自分も、ミントに理解してもらえない部分があるままでもいいし、それを無理に捨てようとしなくてもいい。
 お互いの過去も傷も全部を捨てずに抱き締めて、アルミはミントと二人でずっと一緒にいようと、3章で起こった出来事を通じて成長したことでそう言えるようになりました。
 そして、そうすることが出来るようになったことで、アルミはまだ目覚めたばかりの自分達二人だけの世界の狭さと、自分達以外の音楽や想いや人間が存在する世界の広さも認識し始めます。
 自分達が何のために歌っていて、何のために歌えばいいのか、その答えを自分達で見つけるために、二人でその広い世界へと歩き出そうと3章の最後にアルミは決意します。
 そのように、自分で自分のことを決められるようになる、自分以外の他者の存在を認識する、これまでの物語を通じてこの大きな二つの変化を得たことで、アルミは精神的に大きく成長出来たと、3章での彼女についてはそうまとめられるのではないしょうか。


 次に、ミントの方の3章における行動と心情の推移についても考えていきましょう。
 虎牙優衣と過ごした日々の幸せな記憶がフラッシュバックすることに苦しめられながら、そのせいで自分が姉の心の中の欠落や抱える苦しみを真に理解出来ないということにも苦しみ、また更に自分が優衣との記憶に精神を揺さぶられていることや姉と自分自身にも嘘をつき続ける苦しみに押し潰されそうなことも認識してしまい、それを姉に理解して助けてもらえないということにも苦痛を感じるという、まさしく苦しみのループ構造としか言い表しようのない状態に陥ってしまっているのが2章終了時点でのミントでした。
 そして3章での彼女はまだ虎牙優衣を破壊してしまったショックから立ち直れていないように見える姉のために、姉に内緒で密かに虎牙優衣を今一度復活させられないものかと画策します。
 もう一度虎牙優衣と再会出来たならば、今度こそ姉の心の欠落は満たされ、今までのような自暴自棄な行動を取らなくなるかもしれない。
 そして、そのためならば自分はどうなっても構わない。
 そんな決意でもって、彼女は自分の記憶から人格データを集めて再構築した虎牙優衣を自分の意識に上書きすることで、自分の身体を器にした虎牙優衣を誕生させるという唯一の方法を躊躇いなく受け入れます。
 そんな、姉を想うが故の健気な自己犠牲の行動ですが、肝心の姉であるアルミはミントに対してもう虎牙優衣という過去に縛られるのはやめようと言い始めました。
 もう虎牙優衣にも会えなくていい。自分達の生きる道は自分達で探そう。過去に囚われたままのミントの姿はとても辛そうに見える。
 そんな姉の唐突な心変わりの言葉に戸惑いながらも、ミントはその提案を振り切って姉の前から逃げ出してしまいます。
 そして、急いで虎牙優衣の復元データの自分へのインストールを実行させようとするのですが、この時点でもはやこの行動の本質が姉のためではなく、自分自身が虎牙優衣の記憶を持ったまま存在することによる苦しみの連鎖から逃れたいが故の婉曲的な自死にすり替わっているように思えます(あるいは初めからそうだったのかもしれません)。
 しかし、その選択をしたミントの心情には今の苦痛から逃れたいという欲求の他にも、様々な理由が絡み合っているものと思われます。
 もちろん純粋に姉と虎牙優衣を引き合わせたいというのも嘘ではなく、本心から理由の一つでしょう。姉を自暴自棄にさせる虚無感から救いたいとミントは常に願ってきていました。
 しかし、その方法が自分を犠牲にするというものでは本末が転倒してしまっていることにはどうも自分自身で気づけていないようです。
 結局そうやって自分を消し去ってしまおうとすることは、姉がこれまで散々ミントに対して見せてきた退廃的で自暴自棄な態度と同一のものなのです。
 そんなことを、自分がそうであるのと同じように姉も望んでいるはずがないということにミントが気づけないのは、事ここに至るまでお互いの中の意識のズレを擦り合わせようとしてこなかったことに原因があると言えるでしょう。
 また、ミントが自分を消し去ってしまいたいと願う理由のもう一つが、虎牙優衣のことを想ったままの自分ではアルミの隣にいられないという思い込みに存在しているように思います。
 2_wEiの心は同一でなければならない。同じ恨みを抱いて、同じものを憎まなければならない。
 その思い込みは、2章からずっと虎牙優衣との幸せな交流の記憶を持つミントを苛んできました。そうでないから姉を理解出来ず、そうでないから姉に理解されないのだと。
 そして、そうでないなら姉に必要とされないのではないかとすらミントは思っているようです。
 なので、ミントはずっと嘘を突き通してきていました。
 虎牙優衣のことを憎んでいることも、人間を憎んでいることも、姉と同じように破壊衝動に身を任せていることも、全部姉とずっと一緒にいるために無理をして装っていることであるように、こちらからは時折そう見えていたように思います。
 けれど、もしかしたら本当は自分はずっと姉に必要とされていなかったのかもしれないと、これまでの積み重ねから遂にミントは疑い始めてしまったのかもしれません。
 アルミがいつも求め続けていたのは虎牙優衣の存在だけであり、自分の望みを叶えることだけでした。
 虎牙アルミに必要なのは虎牙ミントではなく、虎牙優衣。
 だから、姉と一緒にいるためにはミントは虎牙ミントではなく虎牙優衣にならなくてはならない。
 もしかしたらミントの思い込みは、そこまで加速してしまっていたのではないかと思えます。
 もちろん、これは全てミントの自分勝手な想像であり、実際のアルミがそんなことを思ってもいないことは物語の中では明らかです。
 しかし、そんな行き違いを招いたのはアルミについての考察でも書いてきたように、アルミが今までミントに対して取ってきた態度や行動のせいでもあります。
 けれど、姉に見捨てられたくない、必要とされていたいがために嘘をつき続けて、本心を押し隠してしまったミントの臆病さにも責任の一端はあると言えるのではないでしょうか。
 アルミがこれまでに少しでも妹の方を向いていれば、ミントが少しでも姉に本心を見せていれば。
 二人が姉妹でありながら、互いにそういうすれ違いを埋めようとしてこなかったせいで3章での悲劇の引き金が引かれてしまったことは既に散々書いてきた通りであります。
 結果としてそれを反省し後悔した姉の必死の呼びかけに応えてしまい、ミントへの虎牙優衣のインストールは失敗することとなるのですが、目覚めたミント自身も姉の気持ちを顧みなかった勝手な行動で彼女を泣かせて心配させてしまったことを反省して、ようやく自分の本心を吐露することとなります。
 本当は今でもずっと虎牙優衣のことが好き。叶うなら、三人一緒に幸せになりたかった。
 本心を知られてしまえばもう一緒にはいられない、ミントはアルミに自分がこんな状態のままで戻ってきてしまったことも同時に謝ります。
 だが、その溢れ出た本心も、二人の間の境遇や考え方の違いも全部姉には受け止められて、そのままのミントでいい、ミントのままでなければ嫌だと諭されます。
 幸せだった過去の記憶も忘れようとしないでいい、お互いに相手との違いを持ったままでもいい、互いを全部理解出来ないとしても、そのままでいいから一緒にいよう。
 姉にそう言われて、ようやくミントも姉と同じにはなれない違う過去を持った自分を偽らずに受け入れて、姉を理解してあげられない自分に苦しむことと、また姉に理解されない自分に苦しむことからも抜け出すことが出来ました。
 そして、目覚めたばかりの狭い世界から飛び出して、一緒に広い世界へ歩いて行こうという姉の言葉に、ミントも素直に同意をもって頷き返します。
 きっと自分達は、もっと色々な世界を知って、色々な音楽に触れることで、感じた想いを歌えるようになるはずだと。
 今度こそ無理も嘘もそこにはない素直な同じ気持ちで、妹は姉にどこまでもついていくことを決意するようになったのでした。
 以上が、3章におけるミントの行動と心情を個人的な推測の補完も含めてまとめたものとなります。
 さて、そんな3章におけるミントの一番大きな変化は、自分を苦しめていた、あるいは苦しめるものだと思い込んでいた虎牙優衣との記憶の処遇に決着がついたことにあるでしょう。
 3章までを通じて姉と違いその記憶が自分の中だけにあること、それによって姉との間に互いを理解しあえない断絶が生じてしまうこと、愛していた人に裏切られた悲しみ、それでも断ち切れない優衣への気持ちなどに散々苦しめられ続け、一時は自分の人格ごとその全てを消し去ってしまおうとしたミント。
 それに関連して度々挟まれる過去の記憶の再生シーンの本当に幸せそうな様子や、それと今のそこから引き離された境遇との対比、愛憎の狭間で苦しむ姿、望んでしまうあり得ない幸せな光景の描写などはあまりに念入りにミントの心を曇らせてやるという決意に満ちていて、ここまでする必要はあるのかと若干引き気味になってしまうほどです。
 しかし、今回アルミがそのままでいい、過去や思い出を無理に捨てようとしなくてもいい、優衣を大好きなままのミントでも構わないのだと直接伝えてくれたおかげで、ミントは今の自分や優衣との記憶を消そうとしたり、気持ちを偽ったりしないままのありのままの自分でいることを選択出来ました。
 元々、ミントはアルミと違って優衣との交流の記憶があることで普通の情緒を獲得してしまっていたような様子があったことはこれまでにも指摘してきました。
 優衣のことは勿論大好きであるし、人間のことだって本当は嫌ってはいなかった。
 けれども、自分と違ってそういうものに取り憑かれてしまっている姉と一緒にいるために、また姉に自棄を起こさせないように生きる目的を与えるためにも、そういうまともな自分というものを偽って、ミントは優衣や人間に対しての復讐者である2_wEiを演じ続けてきました。
 しかし、それも今回アルミ自身がそれを続けられなくなったこと、そして今までとは違う新しい道を探していきたいと思い直したことで、同時にミントもその偽った自分の姿から解放されることとなりました。
 そうやって姉にも自分にも嘘をつかなくて良くなったことは、元々がまともな感性であったミントにとってどれほど救いのある変化であったことかと思います。
 自分を嘘で固めていたことは1章から通してのミントというキャラクターの不穏な要素であり、彼女を苦しめる主な原因でしたが、今回それを全て取り除いたありのままの自分でも姉と一緒にいていいのだと思えるようになったことは、姉に直接そう諭されたからであるとはいえこれもまた一つの成長と言えるのではないでしょうか。
 元からミントは姉が自分には理解出来ない部分を抱えていて、自分とは様々な違いやズレがある存在だということは認識していました。
 そして、アルミはそれに目を向けるつもりがない故に認識出来ていませんでしたが、ミントの方は自分を偽って無理矢理に同じになることでそれをなかったことにしようとしていました。
 これまではそんな二人であったのですが、結局今回の出来事を通じてアルミは自分ではない他者の違いを受け入れることを覚えて、ミントは自分の気持ちを犠牲にするのではなく大事に持ったままでもいいということに気づき、二人の相互不理解は解消されることとなりました。
 全く正反対の心の変化を辿ることで同じ場所へ行き着くというのは、同じように見えて様々な部分がズレて生まれた2_wEiらしいとも言えるし、そういうことも全て計算されて組み立てられたものであったようにも思えて、改めて物語の構造のロジカルさに慄くばかりです。
 ミントに関しては、そうしてようやく相互不理解の苦しみから解放されたことだけでも、3章での成果としては十分かと思われます。


 さて、3章でそのような心情の変化を遂げた2_wEiの二人ですが、今回そこには人間という存在が結構な重要度で関係していたりします。
 ストーリーの中で2_wEiには人間からの大量のファンレターが届けられており、街を二人で歩いていればファンの人間に声をかけられたりする描写などがありました。
 更に、そうされることにミントは悪い気はしないと感じているようですし、アルミはそれらのことも切っ掛けに他者、あるいは人間そのものにも興味を持ち始めていくことになります。
 そして何より、今回人間から届けられたとあるメッセージを見たことが、二人の意識を変えるにあたり大きな役割を果たしたらしい場面が存在しています。
 そのメッセージが一体何なのかは……大分下の方にある『Heart 2 Heart』の楽曲考察の中で解説しておりますのでそちらを参照していただきたく。
 いずれにせよ、3章でお互いの関係の捻れを解消した姉妹は、これまでの二人だけで閉じた輪から抜け出して、自分達の知らない世界や人間達という存在に興味を抱き始めました。
 そして、このことが後に8/pLanet!!のメインストーリーの方での二人の動向へと繋がっていくのですが、ここではひとまず2_wEiが精神的に成長したことで自分達と違う人間という存在についての好奇心も同時に抱くようになったということを重要な要素の一つとして記憶しておくだけに留めておきましょう。


 今回この2_wEiのサイドストーリー3章については個人的に大きな感銘を受けたところがあるので、その個人的な感動をもう少しだけここに書き留めさせていただきたく思います。
 さて、ではそこまで言うほどこの3章で感動したこととは一体何なのかというと、それは言葉にし難いものもあるのですが、なるべく簡単に言ってしまうならば「安易なバッドエンドにしなかったし、強引なハッピーエンドにもしなかった」ということになるのかなと思います。
 それがどういうことなのか、順を追って説明させてください。
 まず第一に、とにかくこの3章は非常に綺麗に物語が組まれているということに対して感心以上の感動を自分は覚えました。
 登場人物(といっても二人しかいませんが)の心の動きが、全く無理や違和感というものがなく、行き当たりばったりではない定められた納得のいく道を通って結末へ向かうようになっている。
 それは3章だけというよりも、この3章を読むことで本当はスタートである1章から今回の暫定的なゴールに辿り着くまでどのようなルートを通ればいいのかが理解出来て、更にその行程が非常に論理的に組み上げられていることまでもが判明するように感じられました。
 しかし、それだけならば確かにそこに器用さや細やかさを感じられることはあっても、面白さとしては別段普通以上とも言えないものであるかもしれません。
 そこで、それに加えるもう一つの個人的に感銘を受けた面として、安易なバッドエンドにしなかったということを挙げさせていただきたいと思います。
 正直に言ってしまうと、自分は2_wEiの二人がこの3章のような希望のある結末に辿り着けるとは全く思っていませんでした……というよりは、予想していなかったと言うべきでしょうか。
 2_wEiの登場当初からのコンセプトは"絶望を歌う"というものでしたし、それに違わずその楽曲もダークでクール、攻撃的で陰鬱な歌詞のものばかりでした。
 まさしくいずれは倒されるべき悪役(ヴィラン)そのものというキャラ造型であり、姉妹二人の言動もそういったものであるように感じていました。
 サイドストーリー1章で彼女達の内面が描かれてもその印象はさして変わらず、悲惨な過去や境遇のせいで歪んでしまった今の現状がそこからどうにかなるとは思っていませんでした。
 サイドストーリー2章の更新以降、その立ち位置が単なる悪役とも違うものに変化しつつあっても、彼女達に訪れる近い未来での破綻は変わらないものだとも思っていました。
 また、そうやって打ちのめされ、何度も絶望に叩き落とされて、その度にどうしようもなく歪み、捻じ曲がって破滅へと近づいていく陰惨な物語こそが2_wEiの一番のセールスポイントなのだと思い込んでいたのです。
 お互いに依存し合っているように見えて、その実は互いに理解出来ない部分を抱えてズレたまますれ違っている虎牙姉妹の関係というのもその一つであり、それこそが彼女達を魅力的に見せていて人気を集めている大きな部分だと思っていましたし、自分もあまり良い趣味とは言えないかもしれませんが2_wEiに関しては一番そういうところに惹かれていました。
 なので、その強みの極致のような内容の2章を読んで益々その確信は深まりました。
 それと同時期に発売されたアルバムの収録楽曲も、そんなコンセプトから大きく逸れたものが少ないように思えました。
 2_wEiの未来は明るくない。少なくとも悪役である立場から脱したとしても、悲劇的な結末を迎えるようだ。
 その推測は、3章の途中までなら半分程度は正しかったとも言えるでしょう。
 しかし、そんな状況や予測が揺らぎ始めたのは、2_wEiの楽曲の一つである『Heroic』が実装された辺りからでした。
 元々アルバムに入っている中には2_wEiにしては前向きな心情を描いた楽曲(Green cat.、Pain-pain等)も存在していましたが、『Heroic』は単に前向きなだけではなく明確に絶望から脱しようとする意思に満ちた内容のものとなっていました。
 以降も3章更新までに『Be alive』、『Heart 2 Heart』など、生きようとする意志と微かな希望すら感じられる歌詞の楽曲の実装が続き、どうやら2_wEiはここから更に立ち位置が変化していくのではないかという予感が生まれてくる状況となっていきました。
 しかし、そうは言っても2章終了時点のあれほどにどうしようもない絶望的な状況から一体どうやって?
 そう訝しみながらも、遂に更新された3章の中で結果として思わず感動するほど納得がいくしかない2_wEiの絶望の底から這い上がる様と前を向き一歩を踏み出す勇気を掴む物語を見せられたことで、先に言ったような大きな衝撃を受けたのです。
 しかし、それは完全なるハッピーエンドというわけでもありませんでした。
 二人に降りかかった辛い過去や出来事、犯した過ちが全て消えたりしたわけではないし、未だ絶望の中にいる二人であることも間違いはありません。
 けれど、そこから希望を掴むために2_wEiはハッキリと前を向いて歩き始めた。
 当初はそんな場所にすら辿り着けないのではないだろうかと思いながら見ていた身としては、本当に完全に予想を裏切られた驚きと爽快感をそこから感じることが出来ました。
 そして、そこから上で書いたように改めてストーリーを読み直してみたり、楽曲の歌詞を読み込んだりすることで、どうやら全て最初からこの展開に行き着くように物語が組まれていたらしいことに気づいて二重に驚き、してやられたという気持ちにすらなった次第でした。
 つまり公式は2_wEiを完全な悪役として華々しくデビューさせ、同時にあれだけ散々に二人を痛めつけるようなストーリーを見せておきながらも、彼女達を最終的に破滅させるようなつもりはなく、全て計算ずくの上で悪役を脱してもう一方の主人公とでも言えるような存在にまで仕立て上げようとしていたというわけなのです。
 それは途中からある程度予感させるものがあったとはいえ、まさかここまで見事にそれをやり遂げられるとは思っていませんでした。
 そういう完璧に予想を裏切られた驚きと、単にそうやって裏切るだけでなくそこに無理や矛盾を感じさせない手腕の巧みさによる感動。
 個人的にはそういうものをこの3章から一番感じて、その衝撃から一連の2_wEiのストーリーを今一度考察してまとめておこうと思い立つことにも繋がったりしたのです。
 そしてもちろん、3章はそういった予想を裏切る展開やロジカルな話運びの上手さだけではなく、その内容自体もとても素晴らしいものでした。
 2_wEiの二人はどこか決定的にズレていて互いにわかり合えないままどこまでも堕ちていく様が魅力的だと思っていた自分ですが、それでも二人が互いを認め合い、相手に寄りかかるのではなく支え合うことで前に進もうとする、そんな2_wEiもいいものだと今回思わされてしまった。
 それくらい、一心同体にはなれないお互いの違いを認識しあって、それでもいいから一緒に進んで行こうという決意に至る物語は美しかったのです。
 自分達の絶望と惨めさに立ち止まったり堕落したって仕方のない二人が、そんな運命に抗うために前を向くことを決めた。
 その姿に、二人が本当に絶望以外を歌えるようになるのか疑わしげに眺めていた自分が恥ずかしくなった程でありました。
 1章は2_wEiが悪役(ヴィラン)になるまでの物語でした。続く2章は二人が悪役(ヴィラン)であることからも弾かれてしまう物語だったでしょう。
 そして、この3章は恐らく誰に対しての何者でもなくなった二人が、新しく主人公(ヒーロー)に転じ始める物語であると言えるのではないでしょうか。
 3章の今の時点ではまだ完全にはそうなれていないかもしれません。
 しかし、誰を憎しみ恨むこともなくなり、自分達の傷も捨てずに背負っていくことを決め、生きる意味を探すためにまだ自分達の知らない広い世界へ歩いて行くことを決めた二人は、いつかその立ち位置へ至ることが出来るでしょう。
 そういうことを予感させる、3章はそんな本当に感動的で素晴らしい物語でした。


 さて、これまでにも書いてきたように、3章にも物語の内容やこの時の二人の心情を反映したであろう歌詞を持つ楽曲が存在しています。
 内容的にはこの二つではないかと個人的には推察しているのですが、今回もその歌詞を読み込んでみることでそれについて考察しつつ、3章の補完もしていきたいと思います。

 

Homeache

 あの……自分この曲、本当に凄い大好きなんで、ここだけちょっとオタクの早口みたいな感想になってしまってもいいですか……?
 いや、元々すげえ良い曲ではあるんですけど、今回の3章と併せることで本当にもっと凄いことになるというか、進化するといってもいいようなことになるんですよこの曲。
 3章が更新される前からアルバムに存在していた曲ではあるんですが、何の情報も入れずに歌詞を読んでみるとひたすら陰鬱かつ悲劇的な二人の運命を思わせる内容のものでしかないんですよね。
 この曲の存在のせいで、自分は二人が2章でも酷かったけどこの先もっと酷いことになっていくんだろうなぁと思い込んでしまったほどです。曲調も2_wEiの中では比較的大人しくて切ないものになっていますし。
 でも、それがどうでしょうか……3章を読んだ後でその内容を重ねながら、この歌詞をもう一度読んでみると……?
 そう、あまりにも3章の内容と、そこに至るまでの二人の心情を反映して書かれたものになっていることに気づきますよね。
 正直解説するのも野暮ったいくらいに3章で起こることがすでにこの歌詞の中に全部詰め込まれていて、何故このことに気づけなかったのかという衝撃と、すでに全ての答えが楽曲という形で公開されていたという驚きの事実にすっかり打ちのめされましたとも。
 いや、もう……本当に凄い。このことがきっかけで、もしかして2_wEiの楽曲は全てサイドストーリーの内容を反映しているものであり、それを時系列順に並べて歌詞を読み解くことでストーリーの補完が出来るのではないかということに気づけた程です*4
 さて、そんなギミックのある2_wEiの楽曲の中でも、Homeacheは本当に一番わかりやすいくらい本編の内容や心情が歌詞に記されています。
 一番目の歌詞は恐らくアルミの心情をメインに据えて歌ったものとなっているのでしょう。
 優衣を破壊した後で空っぽな自分に気づいた虚無感や後悔、そしてミントの気持ちを理解出来ないことなどがそこには反映されているように感じられます。
 そして二番目の歌詞はもう何も考えるまでもなくミントのこれまでや三章での心情、行動が描かれているのだと気づけるようになっていて、読んでいて胸が痛くなるほどです。
 「本当にこれでいいの? 今までの日々をゼロにしよう」という部分は自分を消し去ろうとした行動を想起させますし、「凍えた感情はずっと心の奥深く 涙色になって今も怯えてる」などはもうあまりの悲痛さに頭を抱えたくなりますね……。
 しかし、そんな救いのない歌もCメロには少しの希望が見えるような内容が書かれています。
 二人で一緒に歌おう。帰ろう。
 それは3章を読む以前ではステージの上でしか生きられない2_wEiの悲哀を表わしたものだと思っていたのですが、読んだ後ではアルミから眠り続けるミントへの呼びかけを指したものではないかと思えるようになっている……と個人的には思っているんですがどうでしょうか。
 余談ですが、これまで2_wEiは散々二人であることを強調してきたユニットではありましたが、上に書いた2章までの内容を反映した楽曲の中には"二人で、一緒に"といったような姉妹で共に行動することを示したような言葉が存在していなかったりします。
 そして、その言葉はこのHomeacheで初めて「君の歌声を一緒に届かせたいんだよ」という形で歌詞の中に現れるようになっているのです。
 ようやく! お互いに向き合って、相手の違いを認め合った3章の内容を反映したと思われる楽曲の中で! 初めて!
 もうヤバくないですか? 言葉じゃこの感動を言い表せそうになくて語彙が死ぬ……もしこれが意図的なものだったとしたら、本当に楽曲まで効果的な舞台装置として利用することを考えて物語が組まれていることになり、その変態的とも言えるこだわりに恐れ戦くしかない……。
 しかし、いずれにせよこの解釈は勿論自分の個人的な推察でしかなく、このHomeacheという楽曲は各々様々な解釈も出来るくらいには抽象的なように感じる側面もあります。
なので、あくまで参考程度に今までのことは留めておいて、それぞれにこの曲について考えてみてもらいたいとも思っています。
 けど、最後にもう一つだけ歌詞の解釈を付け足させてください……。
 「あの海の向こうまで 届けていきたい」という歌詞は二人のいたデータの"海"という解釈が出来るかと思いますが、もしかしたら彼岸という概念と一緒で此の世ではない場所へも届けたいという意味もあるのではないかなとか思いながら自分は聴いていたりするんですが……どうなんでしょうね……。

 

Heroic

 これまでこの曲が3章の内容を反映しているのかどうかは微妙に思っていたところもありましたが、2ndアルバム発売によって歌詞が公開されたことでこの時系列で正しいことが確信出来ました。
 上にも書きましたが、楽曲の内容が明確に前向きなものになり始めた時期の最初の曲となります。
 今回も歌詞を読めば全ての正解がこんなに堂々と描かれていることに驚くほどに3章での二人を表わしていますが、中でも際立っているところをピックアップしてみましょう。
 しかし、英語で書かれた部分が多く、それを読み解かないことには始まらないので、ひとまずこんな意味だろうくらいのふわっとした訳と共に見ていきたいと思います。
 まず何度も歌われる「Being brave.」というフレーズですが、これは「勇敢であれ」という意味でいいと思います。
 その言葉通りに、この曲の英語詞の部分は自分自身を奮い立たせようとするような内容となっております。
 「勇敢であれ。私は一人じゃない。過ちは繰り返さない」
 サビは恐らくこのようなことを歌っているのですが、自分が一人ではないこと、そして過ちを繰り返さないとすることは、そのまま3章の後での二人の心情のように思わせます。
 更に日本語歌詞の中にもそういった要素は散りばめられていて、たとえば「報いの代償」という言葉は二人がこれまで犯してきた過ちを想起させますし、その代償がこの身を蝕んで苦しみを伴うとしても進もうとする内容は互いに苦しんだ時期を乗り越えて前に進むことを決めた二人を思わせるものではないでしょうか。
 また、「目覚めた感覚が この身を焦がしても」という歌詞には、これまでと違う新しい意識に目覚めた二人を重ねられるようにも思えます。
 そして、その二箇所どちらの後にも続く「共に行こう」という言葉は、Homeacheでも書いたように3章を経た後で共に歩むことを決めた二人のお互いへの呼びかけとなっているように思えます。
 全体的な内容としては二人の未来は痛みや苦しみの伴う決して明るくないものであることを思わせつつも、それを踏み越えて勇敢に進んで行こうとする意志を示すものとなっています。
 恐らくその予想通りに、3章で一つの救いを得た姉妹ではありますが、その未来にはきっとまだまだ困難や絶望があるということなのでしょう。
 そんな二人のこれからを、この歌の通りに二人で勇敢に進み続けていけることを願いたいです。
 そしてまた余談ではありますが、3章で二人がもう一方の主人公(ヒーロー)として進み出した時期を反映した歌のタイトルが『Heroic』というのは、あまりにも出来すぎではないでしょうか……。
そんなところにも何か緻密に計算されたものを感じさせてくれる楽曲でした。

 

 

 

 

メインストーリーにおける2_wEi

 さて、2_wEiのサイドストーリーは今のところ3章までですが*5、彼女達の出番は8/pLanet!!のメインストーリーの中にも存在しています。
 そしてそれは単なる8/pLanet!!にとっての敵役というだけではなく、主役であるサイドストーリーの時と同じくらい彼女達もそこでの物語に影響を受ける存在として描かれています。
 2_wEiの現在実装されている全てのストーリーを考察してみる上ではやはりこれも欠かせないものであるので、それについてもここから少し考察していきたいと思います。


 とりあえず、メインストーリーにおける2_wEiの出番は10章から12章までとなっています。
 まず10章で8/pLanet!!に敵対する新たなMotherの刺客、Type-Zとして2_wEiは初登場することになります。
 しかし、その10章から実際の時間ではおよそ一年時間が空いての11章実装となるので錯覚しがちなのですが、10章から12章の終わりまで物語の中における時間の経過はそこまで長いものではありません。
 なので8/pLanet!!と2_wEiは出会ってから長い期間を何度も戦うライバルというわけではなく、初邂逅から長くとも二週間程度の関係であるとまずは推察されます。
 その間に2_wEiのサイドストーリーまで挟める日数は流石にないだろうということと、物語の中の出番における2_wEiの言動などから、実はこのメインストーリー内での2_wEiは恐らくサイドストーリー3章以降の二人なのではないかと思われるのです。
 実際にゲームにおいて実装された順番としては「メイン10章→2_wEi1章、2章→メイン11章、12章→2_wEi3章」となるので作中でもこの時系列で出来事が起こってるように今までは思えていましたが、その全てのストーリーを読んだ上で考えてみるとやはりサイドストーリー3章からメイン10章に繋がっているものだとするのが自然なようであると推測出来るかと思われます。
 その根拠の一つが、メインストーリー10章の中におけるアルミの態度にあります。
 ここでのアルミは最初から8/pLanet!!のデータをMotherからもらってそれを読み込んでおり、2_wEi一緒にテレビ番組の仕事をするゆきなのことを素直に褒めていたりもします。
 そして、10章最後では桜木ひなたがユニットにいる意味がわからないという疑問を、直接本人にぶつけていたりもするのです。
 これはサイドストーリー3章までを通して他者に全く興味を示さなかったアルミには異例のことであるので、そこからこのアルミはようやく自分達以外の人間というものに興味を示し始めた3章終了後のアルミなのではないかと考えられるのです。
 その前提でメインストーリーの10章を読んでみても、2_wEiの言動にそれほどの破綻は見られません(3章で人間の存在に影響を受け、好意的な感情を持ち始めたにしては態度が悪役寄りに過ぎるところはありますが……)。
 さて、そんなサイド3章以降の心情でもってメインストーリーに登場する二人なのですが、3章で描かれてきたようにここでも引き続き人間の持つ可能性、自分達のまだ知らない何かを探し求めている様子が窺えます。
 そして、その可能性としてアルミが目をつけていたのが8/pLanet!!であり、更にその中でも特に桜木ひなたという存在がそうであるようでした。
 メンバーの中で一人だけ秀でた部分のないひなたがユニットにいる理由がわからないアルミは、そこにアンドロイドでも解析不能な何かがあるのではないかと考え、その歌を間近で聴いてみたいと思っていました。
 しかし、8/pLanet!!と2_wEiとのライブバトルでの直接対決を前にして、ひなたは自分が戦う理由がわからなくなり、そのせいで精神に不調をきたし、一時的に声まで出せなくなってしまいます。
 その様子を見て、アルミは興味を抱いていた人間の音楽の可能性を確かめられそうにないことに失望し、いい加減飽き始めていたライブバトルへの参加も人間側のチームを全滅させて終わらせようかと考え始めます。
 その際アルミは声の出なくなったひなたに会いに来て、直接慰めの言葉を告げています。
 「失ったものは戻らない、そのことを抱えながら生きていくしかない」。
 この言葉からも、メインストーリーにおける2_wEiがサイド3章以降の二人であることを思わせるようになっています。
 そして、本来の歴史においてはこのことで結局人間の可能性への興味を失ってしまった2_wEiはライブバトルでひなたや他のメンバーが欠けた8/pLanet!!を降し、以降情勢がアンドロイド側に傾いていく転換点となったようです。
 しかし、メイという存在の過去への介入によって桜木ひなたはチームに戻ってきて、8/pLanet!!はフルメンバーで2_wEiとのライブバトルにおけるパフォーマンスを行います。
 それを見たことで、どうやら2_wEiも何か感じるものがあったようです。結局二人はパフォーマンスを行わずにいつの間にかBIT空間からいなくなっており、結果は8/pLanet!!の不戦勝となりました。
 そこでメインストーリーの12章は終わることになるのですが、とりあえず8/pLanet!!メインストーリーの中での2_wEiの行動とは以上のようなものでした。
 あれだけ3章の終わりで爽やかに広い世界を見に行こうと言いながら、結局またいつもの虚無感に囚われているアルミには少し笑ってしまいますが、とにかく2_wEiはあれ以降もあの時の言葉通りに人間という存在の中に何かしらの可能性を探し続けていたようです。
 そして、実際にフルメンバーである8/pLanet!!のパフォーマンスを見て、桜木ひなたの歌を聴くことで、どうやらその中に探していた何かを見つけたのでしょう。
 メインストーリーは8/pLanet!!が主人公である以上、サイドストーリーほど2_wEiの心の動きが描かれているわけではありませんが、3章までの二人を踏まえてその行動を見てみれば、8/pLanet!!と桜木ひなたに期待を寄せていたり、結局8/pLanet!!とは戦わないという選択をしたりした単なる悪役らしからぬ二人の態度にも違和感を覚えず、納得のいくものとなっているように思えます。
 アルミが一体8/pLanet!!のパフォーマンスに何を見て、何を感じたのかはここでは明らかになりませんが、何にせよ二人の今後を左右する大きなものであったことは間違いないようです。
 そのように、メインストーリーは8/pLanet!!の物語ではありますが、2_wEiにも何かしらの大きな影響を与える展開を内包しているという点で、2_wEi二人の物語の一部でもあると考えるべきでしょう。

 更にもう少し余談ではありますが、ストーリー実装時期の謎についての話もここでちょっとだけしておきたいと思います。
 ご存じの通りかどうかはともかく、上でも書いたようにメインストーリーの10章から11章の間には後者が更新されるまでに実際の時間で一年ほどの開きがありました。
 ストーリーの内容がそれほどの期間を開けなければならないほどのボリュームがあるとは思えないので、全く謎の空白と言ってもいいでしょう*6
 しかし、そこに2_wEiの出番が絡んでいることを考慮すると話が少し変わってきます。
 上に書いた通り、メインストーリーにおける2_wEiは実は精神的には悪役であることを脱しつつある時期の二人となっています。
 ですが、通常速度でメインストーリーが更新された場合、10章の実装時点ではまだサイドストーリーも展開されていなかった2_wEiが11、2章のような行動を取ったところで、プレイヤー側がそれに不自然さを感じず納得することはなかったと考えられます。
 むしろ鳴り物入りで悪役として登場したはずの2_wEiが戦わずにどこかへいなくなってしまうことは混乱すら招いたかもしれません。
 つまり、ストーリーを追いかける側には2_wEiがそういう行動を取ることについての背景を知ること、彼女達が単なる悪役ではないもう一人の主人公のような立ち位置であることを、彼女達の物語や音楽、実際のライブなどを追いかけることで理解し、納得することが必要だったと思われます。
 そして、そのために必要な時間は決して短いものではないでしょう。
 2_wEiの様々な楽曲の制作から発表と実装、現実世界でのライブの開催なども考慮に入れるならば、その全てを行うことで彼女達のキャラクターや心情を知ってもらうには少なくない期間を見ておかなければならないと考えられます。
 そうして2_wEiが8/pLanet!!と対になるような主人公となりうる存在であることを理解してもらって初めて11、12章の物語は正しく受け止めてもらえるようになるでしょう。
 もしかすると、だからこその10章から11章までのメインストーリーの空白期間であったのではないかというのが今回の謎に関する自分の推論なのです。
 ……しかし、こうして言葉にしてみるとあまりにも荒唐無稽な説に過ぎる気がしないでもありません。
読む側に2_wEiをそういう存在であると認識させて、正しく物語を読んでもらうために一年丸々使った。
 もしこれが真実であるとするならば、明らかに常軌を逸した行動だと思われます。
 実際、確かに個人的には2_wEiを自分の中にそういう存在として落とし込むためには必要な期間であり、それに伴った理想的なペースのサイドストーリーや楽曲の実装、現実世界での活動であったと思います。
 けど、えぇー……いや、そこまでする……!? 物語を書くために……!?
 考えれば考える程に信じがたいので、他の人にもこれが全ての真実かもしれないとは思って欲しくないが故の余談なのではありますが、もし本当にそうだったとしたら、この一年も、そして今現在ですらも、二度と体験出来ない貴重な時間を日々過ごしているのではないだろうかとたまにふと考えてしまいます。
 まあないとは思いますが……ないとは思いますが、そんな考えにふと行き着いてしまったので一応ですね、一応程度で書き残しておいただけのことなのですが。
 ただまあ、もしかしたら本当に……想像以上にとんでもないコンテンツなのかもしれないよね……というお話でした。

 

 

 

 

ライブにおける2_wEiのストーリー

 さて、2_wEiの物語は驚くべきことに現実でのライブイベントの中でも展開されていたりします。
 と言っても、流石にゲーム内ストーリーほどの分量や密度のものがライブ中に行われているわけではありません。
 しかし、それでも今までに公開されていたりまたはこれから公開される予定のストーリーや、これまでの二人のキャラクターとしての心情の変化などを補完しているように感じさせる部分も多く、二人がどのような存在であり一体どんなライブが作中で行われているのかを映像媒体などで描く代わりに現実でそれを再現しようとしているかのような内容のものとなっています。
 なので、そのライブの中で二人がMCという形で語る言葉が一体どういうことを意味しているのか、またその他にも演出やセットリストの中に何らかのメッセージが隠されているのではないかというのを考えてみることは、2_wEiのストーリーを考察し、全容を理解しようとする上で欠かせないものであると考えられるのではないでしょうか。
 というわけで、以下からこれまで行われた2_wEiのライブとサイドストーリーの内容との関連性についても少しだけ考えてみようと思います。

 

8/pLanet!! 4thライブでのストーリー

 現実におけるライブでは、このハニプラ4thライブに"乱入"という形で出演したのが2_wEiの初めての公演となっています。
 8/pLanet!!自体は最初から今まで特に演者がキャラクターを演じたままライブをする形式ではありませんでしたが、その中で行われた2_wEiのそれは初めて徹頭徹尾キャラクターを演じたままのライブだったため様々なインパクトを残すこととなりました。
 出番の時間自体はメインがハニプラのライブであるため然程長くもなく、キャラクターのまま行うMCの内容も実は案外特筆すべき内容はありません(と、記憶しているだけですが……)。
 サイドストーリー1章が公開された後のライブなので、恐らくこの時の2_wEiはその時期の精神性を反映した二人であると推測されます。
 すなわち自分達から優衣を奪い、その存在を許さなかった人間達への憎しみや復讐の感情に囚われていた悪役としての2_wEiです。
 故に、ライブにも"乱入"という形式と言葉が用いられたのではないでしょうか。
 MCもこちらに対する若干の敵意や反抗的な態度が感じられる……かもしれません*7
 最初は悪役(ヴィラン)的な立ち位置として鳴り物入りで登場し、その印象のままの期間も結構長かった2_wEiですが、この次の出番が1stワンマンまで飛んでしまうので、そんな人間達に敵意を抱いた悪役である二人として現実のライブに出演するのは実はこの一回のみであったりします。
 厳密には徳島マチアソビステージやキャラ1ステージという、このサイドストーリー1章時点での2_wEiが乱入という形で出演し、キャラクターとしてのMCも披露していたイベントはその二つがあるにはあるのですが、規模や参加難易度を考えるとストーリーの考察に加えていいものか悩む部分も大きいです。なので、その二つは番外編的な立ち位置としておくのが無難なように思えます。
 ともかく、現在も見返すことの出来る映像データとして存在していて、悪役(ヴィラン)である時期の二人のライブを見られるのは8/pLanet!!の4thライブのみでしょう。
 そして、そこで行われたMCからストーリーを補完するというよりは、この1章の時期にある二人がどういうライブやパフォーマンスをしているかのイメージとして見ておくのがいいのかなと思います。
 また、公式がライブの内容とその時に公開されているストーリーでの2_wEiの立ち位置や心情を連動させている例や証拠の一つとしても考えることが出来るでしょう。

 

2_wEi 1stライブでのストーリー

 2_wEiの1stライブは18年11月東京、12月大阪、19年3月東京Finalと三公演が行われました。
 そのライブはいずれもハニプラ4thの時と同じく徹頭徹尾キャラクターボイスと楽曲歌唱の担当声優である「野村麻衣子」、「森下来奈」の二人が演者本人ではなくキャラクターである「虎牙アルミ」、「虎牙ミント」としてステージに立って歌い、MCも行うというものでした。
 特にMCの内容はイベントとして観客を楽しませるようなコミカルなものも多少はありますが、概ね真面目な内容のものとなっており、ある種シリアスな雰囲気がライブ全編に渡って漂うものになっていました。
 これまでの4th乱入やイベントでのミニライブでの出番などから2_wEiが大真面目にキャラクターになりきってのライブを行うこと自体は周知されていましたが、まさか自分達のワンマンライブにおいてエンターテインメント的に砕けた雰囲気のものではなく、観客にある程度の真剣さでもっての鑑賞を強要するような公演を行うとまでは考えておらず、大いに度肝を抜かれた覚えがあります。
 折しも11月の東京公演の二週間程前に2_wEiのサイドストーリー2章は実装されたのですが、二人が会場に集まった人間達へライブの途中に語りかける言葉はその2章の内容が大きく反映されているように感じられるものとなっており、それを切っ掛けにで2_wEiのライブとはストーリーからの地続きになっているものであり、むしろライブ自体がある程度ストーリーの中の一部としての側面を持っているのではないかと考えられ始めたのがこの1stライブからでした。
 では、この1stライブが2_wEiのストーリーにおいてどのような位置にあるもので、どういった内容を持ったものなのかを考えていきましょう。
 まず印象深いのが、東京公演と大阪公演ではどちらも開演前にまず虎牙優衣からのメッセージが会場に流れるという演出が存在していた点です。
 その内容は大まかには「色々な喪失を抱えて、それでもライブに臨むアルミとミントを見守ってあげて欲しい」という驚く程に真面目なものでした。
 そもそも虎牙優衣の存在自体がサイドストーリーを読んでいないと一体何者でありどんな役割の人物であるのかわからないものであり、それなのに語りかけてくる内容もライブを盛り上げるというには違和感があるようなシリアスな内容であることを思うと、この時点でこのライブは何かがおかしいと感じさせるものがあったように思います。
 ライブ中のMCにおける二人も4th乱入の時のような得体の知れない不敵な悪役としてではなく、絶望に打ちのめされ、大事なものを失い、それでも前を向いて生きようとするそんな二人としての言葉がステージ上では紡がれていました。
 そして、それはやはり明らかに直近に公開されたサイドストーリー2章の内容を踏まえた2_wEiの二人として描かれていると感じられるものであり、単なる人間への敵意を持った悪役的存在ではなく、運命に翻弄され、絶望に囚われながらも懸命に生きようと藻掻くそのバックボーンに共感を抱ける存在としてそこに立っていました。
 そう思うと物語の中で人間にとっての敵という悪役ではない2_wEiに立ち位置が切り替わる2章と1stライブのタイミングを合わせたことは意図的なものであると考えられますし、またこの1stライブの中での2_wEiが2章の中で描かれている二人から続く存在であると示すことで物語の補完を行う形にもなっているのかもしれないと推察出来ました。
 そんな2_wEi 1stライブの東京公演ですが、その次に行われた大阪公演の内容もそれとそんなに大きく差はありませんでした。
 ですが、残念なことに両公演とも現在映像化はなされておらず、後から虎牙優衣のメッセージやライブMCの内容などを再確認する手段は存在していません。何とも惜しい話です。
 なので現在も見返すことの出来るものとして映像化されているものは追加公演である東京Final公演のみなのですが、実は前二つとFinalは恐らくライブ内に反映されているストーリーの時系列が異なっており、それぞれほぼ別物の物語が展開されてしまっていると思わせるものになっています。
 故に、映像化されていない方の1stライブに関してはもはや薄れつつある自分の記憶を何とか絞り出して考察していたことになるのをご容赦願いたい。
 さて、では次に東京Final公演でのストーリーについても考えていきましょう。
 この公演が11月のものとストーリーの時系列が異なっているのではないかと推測する理由の一つに、開演前の虎牙優衣のメッセージがなくなっているというものがあります。
 東京だけでなく大阪でも流れていたそれが何故Final公演でだけいきなりなくなったのかについては未だに正解といえるものは公式から提示されていません。
 もしかすると単なる気紛れであったり、明確な意図など存在しないものなのかもしれませんが、何かしら納得のいく理由を考えるとするならば、2章の最後で虎牙優衣のバックアップをアルミが破壊したせいでもはやこの世に虎牙優衣の意志を発する手段が存在しないという事実を受けてのものであるのかもしれないという推測がまず出来るのではないでしょうか。
 あるいは、このFinal公演時点での二人が優衣のちょっとした手助けのようなものを必要としなくなった二人であることを表わしているのかもしれません。
 いずれにせよ、その真意はわかりませんが、少なくとも東京Finalのステージに立つ2_wEi自身と公演の内容自体が以前のものとは別物であると示す目的が存在していると考えた方が自然なように思えます。
 そして、それを裏付けるかのように、東京Final公演は今まで全く同じ順番で行ってきたライブのセットリストをガラリと変更して行われました。
 たかがセットリストの内容程度で大袈裟なとの思いもありますが、少なくとも最後の最後だけ全く違うセットリストを用意してきたことは間違いなくこのステージだけは今までのそれとは違うものであると表現する意図があるものだと考えられる気がします。
 そして、これまでと違うステージであると示すことで一体何を表現したいのかと考えてみると、それはやはり2_wEiの二人の心情や立ち位置というものになるのではないでしょうか。
 以前の公演の時はまだ傷跡も新しく、痛々しい悲しみに包まれている二人という印象が拭えなかったように思いますが、この東京Finalではそれを乗り越えようとするかのような強さと前向きさを感じられる、そんな2_wEiの姿が描かれているように見えました。
 その理由が、ライブ中における2_wEiのMCの内容にあります。
 前公演との正確な比較が出来ないのが痛いところですが、その内容には大きく変わったと言える程の差はなかったように思います。
 自分達が絶望に塞ぎ込んでいたこと、多くのものを失ってきたこと、今日はその感情を全てぶつけに来たこと。
 そう語るところまでは殆ど前公演と同じですが、最後の最後に二人が語る言葉は以前には全く存在していない内容のものでした。
 2_wEiはこれまで多くの悲しみを背負い、後悔をしてきた。もしかしたらここにいる人間達もそうなのかもしれない。
 そしてそんな時は後悔と悲しみの中で、下を向いてしまうこともあるかもしれない。
 それでもこの2_wEiのライブに来ている時だけは、今みたいに顔を上げて、前を向かせてやる。
 それまでの二人からは考えられないような強く前向きなそんな言葉が、この東京Finalのステージに立つ2_wEiは今までの時系列の二人とは異なる存在であることを示しているように思えます。
 また、この時にはゲーム内で実装されたばかりの新曲である『Heroic』も前公演までと違ってセットリストの中に組み込まれており、ライブの開幕を飾るという印象的な使われ方をすることでこの曲が今回のライブにおける二人の何らかの心情を表わしているのではないかとも推察出来る気もしています。
 そうなると、先に書いたような『Heroic』自体の楽曲解釈と合わせることで、東京Finalにおける二人は3章終了後の二人なのではないかと考えられるのではないでしょうか。
 そうであると断言するにはこの時点では3章はゲーム内に全く影も形も存在していないという問題があったりするのですが、いずれにせよ東京、大阪公演が2章の内容を受けての2_wEiであるとするならば、この東京Finalは明確にそれとは違う、何かしら精神的に一歩進んだような2_wEiであるということは間違いないものと思われます。
 とまあ、このような感じで2_wEiの1stワンマンライブはある程度サイドストーリー本編と密接に関係した内容のものとなっており、ストーリーを読むことでライブ内における2_wEiの二人についての理解が深まってよりライブへの没入度や一体感が高まり、またライブ内での二人のMCに込められた物語性を拾うことでストーリーの補完をするという、そんな相関関係を形成しているものと考えられるのではないでしょうか。
 とにもかくにも、2_wEiの物語を考察する上でこの1stライブは欠かせない一つの要素であり、そこで展開されるストーリーもまた物語本編の一部と言えるのは間違いないと思います。

 

nano×2_wEi コラボライブでのストーリー

 1stライブの時に早くも次の2ndライブが11月に予定されているということは告知されていたのですが、その2ndよりも更に早く19年8月に事前告知のなかったアーティストnano氏と2_wEiのコラボレーションライブが開催されたりしていました。
 アニソン歌手とはいえ他の一般アーティストの方と、完全にキャラクターとしてステージに上がるタイプの2_wEiが果たして一緒にステージに立って良いものなのかどうか、一体どんな進行になるのかなど困惑と不安の入り混じった気持ちで開催を待つことになった突然のライブでしたが、割と滞りなくライブ自体は成功を収めていたように思います。
 相も変わらず2_wEiはここでも頑なにキャラクターを保ったままステージに立ち、少しではありますがストーリーとの繋がりも匂わせるMCや演出も存在していたので、物語の一端としてここで少し考えてみたいと思います。
 また例によって例の如くこの公演も映像化はされていないので、完全に自分のおぼろげな記憶を頼りの考察になることをご容赦願いたい。
 さて、このnano×2_wEiライブが開催された8月、またしても同月内にライブに先駆けてサイドストーリーの3章が公開されていました。
 3章ではここからもっと広い世界へ踏み出して行こう、色々な人間に会いに行こうと決めた2_wEiの二人でしたが、そんな物語の直後に他のアーティストとのコラボライブが行われるというのはあまりにもタイミングが良すぎるし、そういうことを踏まえた上での3章の話作りでもあったのかもしれないと窺わせるように思えます。
 そして、それと同じく、このライブでのMCも完全にその3章の内容を拾ったものとなっていました。
 MCでのアルミ曰く、「ここから2_wEiと一緒に新しい世界へ踏み出して行こう」と会場の人間達へ語りかけていたそれは、3章での様々な経験を経た上での彼女であり2_wEiの二人であることを思わせるのに十分なものであったように考えます。
 流石に他のアーティストとのコラボライブでもある以上1stワンマンの時のようにガッツリ何かをMCで語りかけてくるというのは少なく、物語性を感じられるものとして特筆すべき部分はそのくらいであったように思います。
 ですが、それ以外にもう一つ、今回のコラボ相手でもあり2_wEiの楽曲の作詞を提供してくれたnano氏と2_wEiの二人が最後に一緒に一つの曲を歌うという特別な演出があったのですが、それについては以下からその一緒に歌った曲であり、かつnano氏が歌詞を作って提供してくれた楽曲である『Heart 2 Heart』についての考察と共に説明していきたいと思います。

 

Heart 2 Heart

 上にも書いたように作詞をアニソン方面で活躍されているアーティストであるnano氏が担当し、提供していただいた異色の楽曲となっています。
 実は3章公開よりも前にゲーム内では実装されており、2_wEiっぽさは維持されていつつもそのあまりにも優しく前向きに感じられる曲調と歌詞はこれまでに発表されていた楽曲より更に予想も出来ない二人の未来での状況を示しているようで大きな謎を呼んでいました。
 その後3章が公開されたことで、この曲はこれまでの時系列とストーリーを反映した楽曲と同じく、恐らく公開された時期的にもこの3章の物語の内容が反映されている曲なのだろうという結論に落ち着くかと思われました。
 ですが、それにしては歌詞の内容には色々と腑に落ちない部分も多く、3章直後にnano×2_wEiライブが開催されたこともあって、そこで披露するためだけの特別なコラボ楽曲という位置づけにしておく方がいいだろうと今までは考えていました。
 しかし、そこから更に状況が大きく変わってこの楽曲に関する裏設定がポロリとキャストトークなどから公開されたことで、ようやくこの楽曲が劇中の何を表わしていて一体どういう位置づけなのかというものの一応の正解が判明したかと思うので、これからここにそれを書いていきたいと思います。
 まずこの楽曲の歌詞ですが、驚くべきことに実は3章の中においてハッキリと登場しているものでした。
 先にも書きましたが、ストーリー内ではその正体が明かされることのなかった2_wEiに向けて人間から送られ、二人の認識を少し変えるきっかけとなったあの謎の手紙がまさしくこの『Heart 2 Heart』の歌詞であったというのです。
 設定的には、この歌詞は今までの楽曲のように物語の中の2_wEiを反映させたものではなく、もしかしたらこんな世界もあったかもしれないという"もしも"の二人を描いたものであり、それが人間からのメッセージという形であの3章の中の二人に届けられたということであるらしいです。
 この楽曲の歌詞がnano氏というコンテンツの外部にいる人間から提供されたものであることを思うと、まさしく非常に納得のいく楽曲に関する設定かと思われます。
 ですが、納得がいく理由はそれだけではありません。そのもう一つが、上に書いたようにnano×2_wEiライブのアンコールにおける特別な演出の中にあるのです。
 そのアンコールでの演出とはnano氏と2_wEiの二人が一緒に歌詞提供曲である「Heart 2 Heart」を歌うというものだったのですが、その時のMCの中では「アンコールの舞台に立ち、今から歌うのはアルミとミントの二人ではなく、担当声優としての野村、森下個人である」ということが語られていました。
 そして、「この歌は人間である野村、森下からの2_wEiの二人へ送るメッセージでもある」ということも同時に語られました。
 つまり、恐らくこの『Heart 2 Heart』という楽曲はnano氏から2_wEiへのメッセージであり、また担当声優である野村さん、森下さん両名からの二人へのメッセージでもあるということなのではないでしょうか。
 順番は前後する上に表立って公表されているものではなくあくまで裏設定の範疇ではありますが、現実世界での歌が物語世界の中の2_wEiに届いて二人が変わるきっかけの一つとなったというのは、2_wEiで試みられている現実と物語をリンクさせる演出の中でも非常に特殊で面白い形であるように思えます。
 とまあ、そんな番外編的な演出がnano×2_wEiライブの中では行われており、物語的にさして重要なそれではないものの、他所の人を巻き込んだ上でこんなライブ内でのストーリー表現を試そうとする辺り制作側の強かさと意欲には舌を巻く思いと言えるでしょう。
 さて、それでは最後に歌詞の内容についても少しだけ考えてみましょう。
 この歌詞は新しい世界へ踏み出して行こうとする二人を表わしたものであるらしいのですが、読んでみると確かにその通りの内容となっているように思います。
 こんな"もしも"の二人もあったかもしれないという部分については歌詞に抽象的な部分が多いのでこれだという解釈が難しく、そこは各々で感じ取るのが正解なのかもしれないと考えます。
 個人的には素直に互いへの愛と、もしかしたら誰かもう一人への愛を歌っているところが、本来とは違う"もしも"のである部分なのかなと考えていたりもします。
 そしてタイトルの『Heart 2 Heart』、英語の慣用句である「Heart to heart」をもじったものであるならば、意訳してみると『心を通わせる』という意味になるかと思われます。
 そして「2」の部分で「二つの心」を表わしているとすると、この曲が影響を及ぼしたとされる3章の中でようやく互いに心を通わせ始めた2_wEiの姿と重なるようで、本当に上手いタイトルであると思うのですがいかがでしょうか……。


 以上が2_wEiの2ndライブ以前までのライブ内におけるストーリー展開に関する考察となります。
 こうしてまとめてみると、やはりライブの中で大きくストーリーが動くというわけではなく、サイドストーリー各章における2_wEiの物語の補完としてライブの中におけるちょっとした物語要素が存在しているのではないかと考えられます。
 それぞれのライブ開催に合わせたように事前にサイドストーリーが公開され、そのライブ内における2_wEiの言動が対応するサイドストーリーの章の延長線上にある風に見えるようになっているのもそれを裏付けているように思えます。
 二人がその章の中においてどんな気持ちで、どんな風に歌を歌っているのか。ゲーム内ストーリーだけではどうしても表現の難しいそれを現実でのライブにおいて描こうとしている側面が2_wEiのリアルライブには存在しているのではないだろうかと個人的には考えております。
 実際2_wEiのストーリーだけを追うのであれば、ライブやイベントにも全部参加しなければならない必要性はあまりないのではないだろうかとも思います。
 個人的にもそこが必須条件となってくるのはコンテンツの間口を狭めたり、後追いが難しくなっていくという点からあまり好ましくないと考えています。
 しかし、ライブに参加することがストーリーを読む上で必須という程ではないものの、そうすることで物語への理解や臨場感のようなものがより深まるようになっている今の塩梅はいいバランスが取れているものだとも思われます。
 ストーリーをしっかり読むことでライブに対する没入が更に高まり、ライブに参加することでストーリーへの理解がより深まる。
 個人的には2_wEiのライブにおけるストーリー要素とはそういうものであり、またそんなシナジーを発生させるリンク形成こそがその一番の目的でもあり、こちらから観測して考察する上での最大の面白さなのではないかと考えています。

 

 

 

 

サイドストーリー4章

 2ndライブの開催に合わせて公開されたサイドストーリー4章についても、もうこの際今公開されているものは全て噛み砕いて飲み込むつもりで考察していきたいと思います。*8
 さて、4章は時系列的には3章からの続きというわけではなく、8/pLanet!!メインストーリー12章で8/pLanet!!と戦わずにライブバトルを棄権するという選択を取った2_wEiのその後というところから物語がスタートしています。
 つまり、先に書いたようにやはりサイド3章→ハニプラメインストーリー中の2_wEi→サイド4章という時系列で考えるのが正しい形だと思われます。
 それではここでも以下から物語の流れを簡単にまとめつつ、それに沿って今回の章での二人の心情についての変化や成長について考えていきましょう。
 まず、2_wEiが棄権に至った経緯は上の方のメインストーリー考察内での2_wEiについてのくだりで書いた通りです。
 12章内では2_wEiのその後の行方は描かれていませんでしたが、サイド4章ではそんな棄権直後の二人がBIT空間から研究所へ戻ってきた時点を始まりとして物語が展開していきます。
 以下からはその簡単なあらすじです。


研究所へ戻ってきた途端に、アルミにどうして棄権したのかを尋ねるミント。
どうやら棄権の判断は2_wEi二人の合意の元ではなく、ほぼアルミの独断だったようである。
その問いかけに、「ひなたの話と8/pLanet!!の歌を聴いて、ちょっと思うところがあった」とアルミは答える。
メインストーリーの項でも書いたように、彼女はやはり8/pLanet!!のパフォーマンスから今までの自分の認識を改める程の何かを感じ取ったらしい。
しかし、それが何なのかは自分でもまだ上手く言葉に出来ないようであった。
そんな二人の元に、SotFの研究員が慌てて飛び込んで来て状況の説明を要求する。
どうやら2_wEiの行動は完全にMotherを逆上させてしまったらしく、その理由を説明出来なければライブバトルにおけるアカウントのBANや強制支配が行われる可能性があることを告げられる。
それを聞いて、不安がるミントとは対照的にアルミはその理不尽な扱いに対して静かに怒りを燃やす。
「Motherに決められた道を歩くつもりはない。2_wEiの歌は研究サンプルでも、争うための道具でもない。自分達の価値と想いは自分達で決める」
そしてアルミはミントを連れて二人で研究所を出奔することに決める。
自分達の歩く道は自分達で決める。3章で固めた決意を曲げることなく、縛られることを拒否してアルミは決然と告げる。
そんなアルミの姿に、自分の不安な気持ちをはね除けてミントもどこまでもついていくことを決意し、2_wEiは研究所から逃げ出した。
Motherと研究所の支配から逃れて、生まれて初めての自由を手にしたことを意識する2_wEi。
ミントは自由になったことで自分達が何をやりたいのかを考え始めるが、結局思いつかないまま二人ならいずれ見つけられるだろうと思い直す。
そうして研究所の追っ手から逃げ隠れる日々を重ねる2_wEiであったが、今まで庇護されていた立場から飛び出したことで二人だけでは生きていく日銭も稼げず、定住出来る場所もないという厳しい現実に直面する。
そして、MotherにアカウントをBANされたことで、音楽業界の表舞台には二度と立てなくなったことも判明する。その支配下に戻り、意志も剥奪されて牢獄に繋がれない限りは。
守られていた場所から逃げ出した途端にこんなにも弱くなる自分を嘆くミント。それを慰めることも出来ないアルミ。
しかし、そんな中で仮のねぐらにしていた優衣の隠れ家の机の奥から、アルミが一枚のメモを発見する。
そこには優衣の走り書きで、「生きてたら、一歩前に進んでるってこと!」と書かれていた。
そのメッセージを読んで最後まで諦めなかった優衣の姿を思い出し、自分達も諦めずに進み続けることを誓い合う二人。
弱くても、上手くいかなくても、きっとそれが生きているということなのだと信じて。
しかし、研究所でのメンテナンスを受けられないことで日に日にミントの機械としての調子は悪化していき、アルミも事故に遭ったことでボディを損傷してしまう。
何処かにある誰も来ない河原に隠れ潜みながら、二人は遂に動くことも出来なくなったまま静かに機能停止へ近づいていく。
そんな中で、他にすることもないからと歌を歌うアルミを見て、ミントは自分達には歌うことしか出来なくて、そして結局それが自由になっても自分達のやりたいことであったことに気づく。
自分達にとっては歌うことが生きることなのだ。誰も見ていなくても、誰も聞いていなくても自由に歌えればそれが生きる意味なのだ。
ミントのその言葉を聞いて、アルミも同意する。たとえこのままここで終わるとしても、二人で最後まで、自由に、自分達の意志で、自分達の想いを歌い続けられたらそれでいい。
そう悟って二人は歌い始める。しかし、それが手がかりとなって遂に研究所の職員に発見されてしまう。
逃げようとする力も残っていない二人であったが、最後の力を振り絞ってアルミは自分達は決して屈しない、諦めない、誰にも支配されず自由に歌うという決意を叫ぶ。
今を生きて歌うことが2_wEiの掴んだ答えである。
そう言い切る前にアルミは機能を停止してしまい、ミントも続けて意識を失う。
次にアルミが意識を取り戻すと、そこはいつもの研究所であった。
身体が元通りになっており、しかし支配を受けずに意識が存在していることに疑問を抱くアルミ。
そこへ同じように完全回復したミントが飛び込んできた。二人とも互いの無事に安堵しあうも、状況が掴めない。
そんな中に研究員が続けて現れ、事の経緯を説明し始める。
まずは、SotFの研究所が今の2_wEiを支援することを決定したこと。だから二人を助けたのであり、ライブバトルにはもう参加出来ないが他に歌う場所も用意するということ。
それはMotherの意向に逆らうことになるのではないかと心配する二人に、そうであっても構わない、これまでの2_wEiの活動と歌が、多くの人間の心を動かしてそう決断させたのだと研究員は告げる。
一人だなんて思わないで欲しい。これまで歌ってきた中で得てきた多くのファンが2_wEiの傍には存在していて、自分達もその一人である。2_wEiは決して孤独ではない。
たくさんの人間達がこれからもずっと2_wEiの歌を聴きたいと思って、二人の音楽を待っている。
その言葉を聴いて、自分達が孤立した存在ではなかったことに2_wEiはようやく気づく。
そしてこれからも自由に歌い続けられることに、ひとまず二人は喜び合う。
後日、動けなくなっていた河原に戻ってきた二人は、そこで何かを探しながらも逃げ出した時のことを振り返って語り合う。
今を生きることの大切さが、そのおかけでわかったということ。今回のことを含めたこれまでの想い出を全部こめた歌を歌っていきたいという想い。
2_wEiの歌で、誰かにとっての何かを残す。それが2_wEiの生きている意味になり、二人が今を生きていることを教えてくれる。
そう二人で話して確かめ合ったところで、二人の元へと風に吹かれて、探し続けていた優衣の走り書きが残されたメモが戻ってきたのだった。


 さて、ひとまず話の流れが整理出来たところで、今回の章におけるアルミとミントの心情についても考えていきましょう。
 4章は2章や3章ほど大きく話が動くわけでもないので、二人の心の変化も実はそれほど劇的というわけではありません。
 3章とメインストーリーを通して少しずつ絶望と憎しみや虚無感に囚われていたところから脱して、前を向くために自分達の道を探し続けていたのが、今回で決定的に自分達の生き方をこれまでとは違うものにすると二人が決意する話がこの4章と言えるでしょう。
 なので気づきつつあったものにようやく気づくという点では既に以前から予兆されたものであり、予想を大きく超えるような展開ではなかったのですが、それでも二人がこれまで散々に彷徨い歩いてきた末にようやく辿り着いた答えはとても美しく感動的なものでした。
 そこに辿り着くまでの二人の心の動きも同様に繊細な美しさに溢れていることが、4章の二人のそれを丁寧に考えてみることでより深く理解出来るようになっています。
 というわけで、その心の動きについてアルミの方から考えてみましょう。


 では、まずアルミは桜木ひなたの言葉、それと8/pLanet!!のパフォーマンスと歌から一体何を掴んだのでしょうか。
 少しメインストーリーへと話が遡ることになりますが、ひなたが2_wEiに向けて話した内容とは要約すれば「ライブバトルにおいて音楽で争うというMotherのルールに従う必要はない。音楽を楽しむためにライブバトルをして、音楽は楽しいものだとみんなとMotherに伝えてみせる」というものでした。
 それを聞いて、アルミはそれが出来ればライブバトルの意味が変わると考え、興味を示すような素振りを見せます。
 そして、その後の実際の8/pLanet!!の歌を聴いて、ライブバトルを戦わずに棄権するという選択をしました。
 それを選んだ理由として考えられて、かつアルミが8/pLanet!!から得たものとは、恐らく「自分達の歌は争うための道具じゃない」という思いなのではないでしょうか。
 メインストーリー内では2_wEiのその後は描かれていないため確認のしようがなかったのですが、その中でひなたが「きっと二人にも伝わった」と言った通りに、「想いを伝えて変えてみせる」という主人公ユニットの決意に対して一番最初にそれが伝わって変化したのが敵であるはずの2_wEiだったということが4章でようやくわかるのは感動的なものがあります。
 ただし、アルミが「簡単に決意したことではない」と言っているように、元々3章で自分達の生きる道を探し始めて、8/pLanet!!にも何かしらの可能性を感じていた2_wEiだからこそ今回それが伝わったという部分も大きく、まだまだ8/pLanet!!の戦い自体は先が長そうです。
 話を戻しましょう、自分達の歌は研究のためのサンプルでも、争うための道具でもないという考えにこの時至ったアルミですが、具体的に自分達の歌にどういう意味があり、どういうものにしていきたいのかという想いにはまだ辿り着いてはいませんでした。
 なので、それを自分達の意志で自由に決めるために、そして誰かにそれを決められてそのための道を歩いたりはしたくないという想いのために、アルミは自分達にそうさせようとしてくる研究所を脱出するという結論に至ったのだと思われます。
 つまり、今回の2_wEiの逃避行は支配から逃げ出すためでもありながら、同時に3章でこれからそうしていこうと決意した自分達の在り方を探すという目的のためのものでもあったのでしょう。
 結局二人の逃走劇は上手くいかないことだらけなのですが、生きている意味なんてないと考えては簡単に自分の命を諦めようとしたり、口を開けばすぐに飽きた、どうでもいいと虚無的なことばかり言っていたアルミが生きるために必死で逃げて、仕事まで探そうとするその変化は、そんな最初の頃の退廃的な彼女の姿を見てきただけにかなり感動出来るものがあるように思います。
 そして、逆境に追い込まれ、上手くいかないことや辛いことだらけで、自分達の選択が失敗だったとしても、それでもいい、それが生きているってことなんだと悟って乗り越えようとしていくのは、これまで彼女達に降りかかってきた不幸や絶望に塞ぎ込み、世界や誰かを恨んでその憎しみや鬱屈を自分を含めた何かにぶつけるしかなかった頃よりも遥かに強靱で逞しく、成長した心であるように映ります。
 そんな風に自分一人だけならどんな結果に終わろうと最後まで追っ手からは逃げ続ける覚悟のアルミでしたが、日に日にメンテナンスを受けられないことで調子が悪くなっていく妹を見ているとその覚悟も揺らいでしまうような場面がありました。
 また自分は妹を望まぬ境遇に巻き込んでしまっただけではないのだろうか。自分はどうなってもいいけれど、妹だけでも研究所へ帰して助けてやるべきなのではないだろうか。
 しかし、ボロボロになりながらもミント自身がこのままでも構わないと語るのを聞いて、アルミは最後まで二人でいるという決意を固めます。
 それはこれまで散々すれ違い続けてきた姉妹がようやく反省して、互いに一人だけで勝手な決断をしないと決めた二人の成長があってこその光景なのかもしれません。
 2_wEiに取って"生きる"ということは"自分の意志で、自由に、自分達の想いを歌うこと"なのだ。そうやって生きていくことを自分達は選んだのだ。
 そのことにアルミはここで思い至り、それを奪われる状況へと妹を送り出すことは彼女を生かすこととは違うとも思ったのではないでしょうか。
 ここら辺の死生観は、最初のType-Zである空乃かなでもそうだったのですが、アンドロイドは人間の手を離れては身体活動を維持出来ない、ある意味不完全でありどこまで続くか先がわからない生命であるからこそ"生きる"ということについての認識が人間とは違うところにあるのではないかと感じさせる部分が存在しているように思えます。
 "死にたくない"と思うことと、"生きたい"と思うことは違うこと。
 2_wEiにとって生きることは歌うことなのだから、最後まで自由に歌い続けることはすなわち「最後まで生きるよ」ということなのかもしれません。*9
 まあそれはさておき、そうして辿り着いた2_wEiにとっての答えを、研究員に見つかった時にもアルミは叫びます。
 決して屈しない。諦めもしない。歌は自分達の全てであり、誰にも否定させたりしない。今を生きて歌う、これが2_wEiの答えだ。
 そしてあれほど悲しいことがあった過去でも、二人で過ごしてきた時間の全てを愛しているとアルミはその中で叫びます。
 かつては自分達の境遇を憎み、嘆いていただけのアルミが、今ではそれを愛していると言えることがどれほどの衝撃であるかは、自分も含めてここまで2_wEiの物語を見てきた人達には言葉に出来ないものかと思います。
 たとえ命を失っても、最後まで自由に歌うために、そうやって生きるためにアルミは抗おうとして、しかし叫びの途中で機能を停止してしまいます。
 と、まだこの先も物語は続きがあるのですが、ひとまずアルミについてはここで一旦止めておいて、ミントの方に移ることにしましょう。


 さて、アルミとは違い、どうもミントの方は8/pLanet!!の歌やパフォーマンスから何かを感じることはなかったようです(そもそも姉と違って桜木ひなたという存在にもいまいちピンときていませんでした)。
 棄権という選択をしたアルミに従いはしましたが、自分達がMotherに反抗してしまったことやそれによって与えられる罰(強制支配)に対してミントは不安や恐怖を感じていました。
 しかし、支配などされないために研究所を逃げるというアルミの言葉に賛同し、ミントも共に自由を求めて外の世界へと飛び出していきます。
 自分の意志で出奔を決意したアルミと違い、姉に付き従ってという形で逃亡したミントであるので、ひとまず何の監視も束縛もない自由な状態になってから初めて彼女は自分達のやりたいことは何なのだろうかと考え始めます。
 そしてその場ではすぐには思いつかなかったようですが、これから二人でならそれを見つけていけると思い直します。
 しかし、実際逃げ出した先での二人は自由に何でもやるどころか、やろうとしても上手くいかないことばかりという現実に直面します。
 二人で音楽の仕事をしていくことも出来なければ、定住する宿も見つけられず、更にミントは追跡装置を外す際に出てしまったエラーのせいで日ごとに調子を崩し、動けなくなっていく。
 そんな状況の中で、ミントは誰にも支えてもらえなくなった途端にこんなにも弱くなる自分を嘆きます。
 常に自分達の強さに自信を持っており、人間達を下に見ていたようなところがあったミントにとっては初めて自分達の脆弱さを知った瞬間だったのではないでしょうか。
 そして自由な世界は広くて楽しいものだと思い込んでいたけども、結局どこに行っても同じように閉ざされた監獄なのかもしれないとも思い始めます。
 しかし、そんな風にどれだけ苦しい状況へと追い込まれていっても、ミントは研究所へ戻りたいとは口にしませんでした。
 自分の弱さに悔しがりはしても、その苦しみから自分勝手に逃れようとはしない。
 それこそはやはり、3章での過ちやこれまでの過去を通じて得たミントの精神的な成長と強さなのかもしれません。
 そして、たとえ自分の身体がどんどん動かなくなって、意識を保てなくなってきても、そんな状況であるからこそミントは自分のやりたいことについて思い当たります。
 どれだけ自由になったとしても、結局自分達には歌うことしか出来なくて、そしてやりたいこともまた歌うことなのだと。
 2_wEiにとって"生きる"ということは"自分達の意志を歌う"こと。
 誰も見ていなくても、誰も聴いていなくても、最後まで歌いたいように歌えたならばそれでいい。
 アルミよりも先にその結論に辿り着いたミントは、その言葉で姉に覚悟を決めさせます。
 ここでようやく2_wEiの心は、二人で一緒に最後まで自由に歌を歌い続けるという目的の下で一つに重なり合ったのではないでしょうか。
 研究員に見つかっても、最後まで諦めようとしない姉の声を聞きながら、ミントも最後まで必死に動いて逃げようと試みます。
 しかし、それも叶わず、アルミに続いてミントも機能停止に陥ってしまいます。
 その直前に広い青空を見上げながら、自由な空に自分達は羽ばたけたのだろうかと優衣に問いかけながら。
 というところでミントの心情についてもここで一旦止めておいて、この先の物語の続きと共に、今度は個別にではなく二人の意志が重なった2_wEiとしての心情を考えてみることにしましょう。


 結果として2_wEiは二人ともここで終わるかに思えたところを、メンテナンスを受けて再び五体満足で再起動することになりました。
 今までの記憶もそのままで、特に強制支配をされている様子もありません。
 SotFはMotherの意向に逆らってでも2_wEiを支援すると決定したからなのですが、その結論に至ったのは2_wEiのこれまでの活動が影響を与えていました。
 3章でも描かれたように、これまで2_wEiが(あくまで自分勝手にではありましたが)自分達のその時の想いを全て込めて歌ってきた姿は、多くの人間の心を打って、彼女達の歌の虜にしていたようです。
 SotFの研究員達もそんな人間達の一人であり、自由を奪ってライブバトルの道具にするよりも、これまで通りに自分達の想いを歌い続ける2_wEiの未来の方を見ていきたいと思ったのでしょう。
 生まれる前に一度世界から見放され、お互いすらまともに見えていなかった二人は、それでも様々な絶望と壁を乗り越えて自分以外へと目を向けるようになっていき、そうなるまでの心を全て歌ってきたことで、それに感化された多くの人間達が彼女達の味方になってくれる、自由に歌い続けて欲しいと願ってくれる世界へと辿り着いたのです。
 世界に誰も自分達の味方なんていないと思ってきた2_wEiの二人が、自分達の歌でそんな状況を引っ繰り返して、誰かの心や世界を変えることが出来るのだとようやく気づいた瞬間でもありました。
 そして自分達は誰かに助けてもらえる存在で、世界にはそうしてくれる人間達がいるのだということにも。
 結果として二人が逃げ続けていたのは壮大な無駄足だったことになるわけではありますが、世界をそんな風に変えることが出来ていたことを、恐らく逃げ出す前の二人では信じることが出来なかったのではないでしょうか。
 これまで通り二人で自由に歌えることがわかった後で、彼女達自身も二人で逃げ続けて挙げ句死にかけた日々をそれでも必要なことだったと思い返しています。
 生きるということがどういうことなのかを悟るために。そして、今を生きることの大切さを知るためにも。
 自分達にとって生きるとは自由に歌うこと、しかしそうして今を生きていくことの難しさと大切さ、自分達が孤独ではなく様々な人達が応援してくれていること。
 そういうことをこの逃避行の中で体験し、理解して、改めて2_wEiは自分達の生き方を二人で決めることにします。
 自由に歌えることが許される限り、これまで自分達の経験してきたこと、良かったことも悪かったことも全てを込めた2_wEiの歌を歌いたい。
 2_wEiが人間達に助けてもらったように、2_wEiもまた自分達の歌で聴いてくれている人間達に何かを返したい。声を出せない誰かの代わりの叫びになり、誰かの絶望を自分達の抗ってきた絶望で上書きして、自分達の決断や生き方が誰かの人生を変える切っ掛けになってくれるように。
 そうやって、2_wEiの歌が誰かにとっての何かになるように歌っていこう。
 きっとそうしていくことで、自分達がこれまでに受けてきた絶望や悲しみにも意味があったことになっていくはずだから。
 自分達のやりたいように勝手に、自由に、そしてありのままに自分達の想いを歌って運命に抗ってきた2_wEi。
 時には悪として全てに対しての復讐者となり、時には空っぽの迷子として自分達の哀れさと悲しみに溺れ、時には自分達の過ちを認めながら行くべき道を探して歩き出し、自由を守るために逃げ出して彷徨い、自分達を求める誰かに救われて、そして彼女達はようやく自分達のためだけではなく、誰かのためにもその歌を歌おうとする決意へ至ることが出来ました。
 それこそが、サイドストーリー第4章における2_wEiの二人の心情の変化と成長と考えられるのではないでしょうか。


 最後に、4章とは結局どういう役割を持った話だったのかを少しだけ考えてみたいと思います。
 まず第一には、2_wEiの二人に生きるということがどういうことなのかを自分達で見つけさせるための話というものが挙げられるかと思います。
 サイド3章から自分達の進むべき道を探し始めた2_wEiはメインストーリー12章で8/pLanet!!の歌とパフォーマンスから影響を受けて、まだどう生きるべきかはわからないまでも、少なくとも誰かによって意に反することに従わされて自分達の歌を戦いに利用されることを拒むようになりました。
 そして自分達にとって"生きる"ということは何なのか、自分達は一体何をしてどういう道を進んでいきたいのかを探すためにMotherの支配下から出奔するも、二人にとって本当の意味で誰にも頼らず自分達だけで生きていくことは想像以上に困難なことでした。
 結果としてその困難の果てに自分達の死にすら直面することとなる2_wEiですが、たとえそうなるとしても最後まで自由を奪われることだけは拒否し続けます。
 むしろそれによって、2_wEiは自分達にとって生きるということは自由に自分達の想いを歌い続けることなのだと悟ることが出来ました。
 誰かに従い、自分達の気持ちを曲げながら命を繋ぐよりも、誰からも見られず誰にも聴かれていなくても最後まで自分達の素直な想いを歌いたいように歌えること、それこそが2_wEiにとっては"生きている"ということでした。
 それは自分達の自由の前に立ちはだかるならばどんな相手にも抗ってみせるということでもありますが、少なくとも今は人間の音楽を否定して戦わせられるためにあるわけではない。
 ひとまずは2_wEiの二人が自分達の見つけた生きる意味──自由に歌い続けるということのためなら、それを邪魔する誰にも従わず、命も惜しまないということ。
 そして今のMotherの思惑と2_wEiの歌いたい想いは相反しているということ。
 それらのことを2_wEiに見つけさせることで、二人がライブバトルにおいてヒューマンサイドの敵となることをやめ、誰にも与さず自由に自分達の想いを歌う存在となるようにすることが4章の役割の一つであると思われます。


 そして第二に、この4章には2_wEiの二人に自分達の弱さを自覚させる役割もあったのだと思われます。
 もしも二人の逃避行が何の障害や躓きもなく上手くいっていたとしたら、果たして二人が上に書いたような自分達にとっての生きるということの意味について悟れていたのかどうかはわからないのではないでしょうか。
 二人にとって自由が容易く手に入れられるものであったなら、それが生きている実感へと繋がりはしなかったかもしれません。
 特にこれまで何をやっても手応えを感じられないせいで退屈と空虚さに囚われていたところもあるアルミにとって、初めて上手くいかない事態や困難に直面したことはそういうものをようやく埋め合わせてくれる体験だったではないかと思われます。
 最終的には失敗だったとしても、それが生きているってことなんだとそのことで気づけたような描写もされています。
 そして、これまである程度自分達が優れた存在であるという自負があり人間を見下していたところのあるミントにとっても、その傲慢さを少なからず改めるいい機会であったのかもしれません。
 自分達が二人だけでは生きていくことが難しいほど弱い存在であることを知り、どんどん八方塞がりな状況へ追い詰められていくことで、二人は自分達についての自信を失っていきます。
 それでも、ミントはそうでありながらもMotherの元に戻って、その命令に従うことでこれまでのような道具としての自分達に戻ることは最後まで拒否します。
 ミントにとっても結局自分が本当にやりたいことは、姉と一緒に自由に歌うことでした。
 そうして自分達の弱さを知って、誰かの庇護なしでは命を失ってしまうということがわかっても、それでも尚そのために誰かに支配されるくらいならたとえ命を失うとしても自由に歌い続けることを選ぶからこそ、その選択が2_wEiを完全にMotherの言いなりである悪役から脱却させる契機となり、二人を真に強くさせてくれたのではないでしょうか。
 弱さを知ったからこそ本当の意味での強さを得られたということなのかもしれません。
 そして、二人が自分達の弱さを知ることは、それ以外にももう一つ重大な役割があります。
 今回の逃避行は結果だけ見ると二人が逃げ出した研究所は結局2_wEiを害するつもりはなかったという盛大な一人相撲だったわけではありますが、かと言ってあの場で研究員達がその意志を伝えても二人がそれを素直に聞き入れられたかどうかはわからないのではないかと思われます。
 そもそも、その時点の2_wEiは研究所を逃げ出しても二人だけで生きていけるという根拠のない自信に溢れていたからこそ逃亡という選択肢を取ったわけで、そこへいきなり二人の保護を申し入れても聞く耳を持たなかったのではないでしょうか。
 アルミもミントも前3章を経て人間に興味を持ち始めていたとはいえ、まだまだ二人とも人間という存在を下に見ているような傲慢さがあり、またある種の実験道具扱いを受けているという現状による軽度の人間不信からも完全には脱却しきれてはいませんでした。
 そんな状態であったことを思うと、結局二人だけでは生きていくことは難しいという現実を一度経験しなければ、人間達が自分達を助けてくれるという申し出を反発することなく受け入れることは出来なかったように思えます。
 そしてまた、その逃避行の果てに自分達にとっての生きる意味というものを明確に見出し、理解して、それをハッキリと向こうへ示してみせたこと。それをしたからこそ、その上でそんな二人であるからこそ助けたいのだと言う言葉を信じてみてもいいと思えたのではないでしょうか。
 そんな風に一見無駄な遠回りにも思える逃避行を経たことで、それでも二人はそこから自分達にとって生きるということの意味と、二人だけで生きていくことは難しいという自分達の弱さを学び、そうした上でそんな自分達にそのままでいて欲しいと願ってくれて、それを支えたいという人間達の存在を知って、その申し出を受け入れることが出来るようになりました。
 そして、それによって、最後に2_wEiはもう一段階の変化をすることになります。
 二人が自由に自分達の想いを歌うことが2_wEiにとって生きるということであると気づいただけでは、まだ二人は中立の立場に立っただけに過ぎなかったでしょう。
 2_wEiの想いが様々な立ち位置の間で揺れてきたことは今まで描かれてきた通りですし、Motherの意志とは相容れぬ故の出奔だったとはいえ、その逃避行の果ての結論は2_wEiはその想いを誰にも支配されたりはしないと決めただけであり、まだその歌いたい想い自体がどういうものであるのかは明確に決まっていませんでした。
 しかし、今回の一件の最後にこれまで自分達の想いを勝手に歌ってきただけのことがいつの間にか多くの人間達を惹きつけ、その歌が相手の心に響いていたことを二人は知り、そしてそんな2_wEiを好きになってくれた人間達によって2_wEiは助けられました。
 そのことがあったからこそ、二人はこれから自分達の歌に込めて歌っていく想いを、自分達の歌を聴いてくれている誰かの心を助けられるものにしていこうと決めたのだと思います。
 人間達が2_wEiが自由に歌うことを許してくれて、それを支えてくれる限り、2_wEiもまたそんな人間達にとっての何かになれるような歌を歌っていく。
 今まで誰にも目を向けずに自分達の歌いたいように歌ってきて、一時は誰も見ていなくても、誰も聴いていなくても構わない、自分達が最後まで自由に歌えるならば例え死んだとしてもそれでいいという覚悟を決めたような二人が、そんな自分達の歌を愛してくれている人間達にこれからも歌い続けて欲しいと願われ、命を救われたことで、自分達の歌もそんな風に、この歌を聴いた人達が願う何かを残せるように歌っていこうと決意する。
 そうして自分達のためだけだった2_wEiの歌は、そこで初めて誰かのための歌となりました。
 最終的に二人をそんな結論に辿り着かせることことこそが、二人に自分達の弱さを自覚させた逃走劇の最大の成果であり、また結局は4章の最大の目的でもあったのではないでしょうか。


 ということで、こうしてまとめてみると4章とは「2_wEiがようやく主人公(ヒーロー)になる話」だったのではないかと思います。
 これまで1章は「2_wEiが悪役(ヴィラン)になる話」であり、2章が「悪役でいられなくなる話」、3章が「ヒーローになり始めた話」だとしてきましたが、遂にこの4章で2_wEiはようやく完全にヒーローとなったと言ってもいいでしょう。
 元々3章を契機に二人は将来的に主人公に近くなっていくのだろうという予測が出来る描写はなされていたので、4章でもはや完全なもう一方の主人公と化したことについてはそれほどの衝撃はありません。
 ですが、今回は衝撃的な展開ではない代わりに、二人が曲がりなりにもヒーローとなるまでの心情の推移、その描写の丁寧さとロジカルさに改めて驚かされました。
 個人的にはすぐ上で書いたように、一旦二人を立場的にはどこにも属さない、自分達の想いにだけ従って歌う存在にしておいてから、最後に改めて二人に何のために歌うのかを決めさせるという流れが非常に良く出来た論理展開であるように感じられました。
 そして人間達が二人を助けた理由が2_wEiを自分達の味方に引き入れたいからというわけではなく、2_wEiの歌に助けられ、魅了されたからこそ、そのままの2_wEiでいて欲しいからというものであるところも非常に良かったと思います。
 これまでの2_wEiの歌に助けられ、あるいはその歌とパフォーマンスに引きつけられたからこそ二人を助けたいと思う人間達というのは、取りも直さずゲームの外でも2_wEiを追いかけてきた自分達のそれと重なるものであり、そういう部分での現実と作中がリンクするような演出になっているのも面白かったし、感心させられた部分でありました。
 そして、自由に自分達のその時の想いや感情を歌っていく、そのままの2_wEiでいて欲しいと願われたからこそ、二人の思考や言動が大きく変化するようなこともなかったのが更に素晴らしいと思います。
 何より2_wEi自身もそんな人間達に心打たれて全面的に改心したというわけではなく、そんな風に自分達の歌に共感して影響を受ける人間達がいるからこそ、自分達の歌や、そこに込めてきた今までの絶望と辛苦に意味が生まれていくことに気づいて、そうやって自分達のこれまでとこれから――生きているということを意味あるものにするために歌っていこうと決意する流れが特に素敵でした。
 そうであるから人間達を守るために急に愛と正義に目覚めたというような感じではなくて、これまで築き上げてきた2_wEi像から大きく外れることのない、そうでありながらもヴィランではなくヒーローとして成り立つようになった。
 そういう理由付けのための話の組み方や感情の変化の描写の細やかさには本当に感心させられることしきりでありました。
 実際2_wEiというユニットの従来の二次元アイドルより新しく、かつ独特な部分とはキラキラした観念に中指を立てるようなおよそ尋常のアイドルでないアンチ的な立ち位置にあったと思っているのですが、それがそのまま主人公に打ち倒されるだけでは結局既存の概念を単に反転させただけの安っぽいキャラクターとなる恐れも登場初期には同時に存在していました。
 しかし、この二年近くで単なるわかりやすい悪役というそれだけではない複雑な二人の心の動きと激しい立ち位置の変化を描いてきて、その仕上げとしてそういう最大の持ち味である正道には反した言動や振る舞いを維持しつつも、王道的な正義の観念からは逸れていないダークヒーローとしての2_wEi像へと違和感や無理を感じさせずに着地させてみせたという点で、この4章は非常に見事なものを見せてくれたと個人的には思いますし、それこそがこの章で一番評価されるべき部分かもしれないと考えています。
 それは自分達がこの世に生まれた意味を探し続けて彷徨い続けてきた2_wEiにとってはようやく自分達で探し当て、掴み取った終着点であり、それを見守りつつ、追いかけ続けてきた自分にとっても大いに納得と感動の出来る素晴らしい一つの結末でした。
 という感じで、2_wEiの物語はここでひとまずの区切りがついてしまったのですが、じゃあもう二人について物語の中で描くことは残っていないのかというと決してそういうわけでもありません。
 4章終了時点でも2_wEiについて明かされていない謎はまだまだ数多く残っており、特に虎牙優衣が一体何を作ろうとしており、そして本当は何に追われていたのかということや、アルミの中の取り除けない重大なバグとは一体何なのか、そして何故二人は世に出ることなく消されなければならなかったのか等の出生に関する部分はこの先のメインストーリーの根幹にも関わっていそうな気配が漂っており、二人がここで素直に戦いの舞台から降りられるとは考えにくいものがあるように思えます。
 また、新たに発表されたアンドロイドサイドの新ユニット『B.A.C』が次の現実世界でのライブに乱入するとの発表も、二人のこれからの物語について不穏な影を投げかけているようです。
 いずれにせよ、2_wEiの物語はこれからも続いていきそうな予感や兆しに溢れており、新たな第二の主人公(ヒーロー)となった二人が今度はどんな道を歩んでいくのか、まだまだ楽しんで追いかけることが出来そうだと思っています。


さて、今回の4章においてもやはりストーリーの内容や二人の心情とガッツリ噛み合った楽曲が複数存在していると思われますので、これまでと同じようにそれらの楽曲の歌詞や時系列も考察していきましょう。

 

Be alive

 時期的には1stライブのファイナルで発表され、その後すぐにゲーム内で実装された楽曲となります。
 タイトルの通り「生きる」ということをテーマに二人がそれに関しての何かを探し求めるような歌詞と、自分達を追い立てる何かに捕まらないように駆けようとしている二人の楽曲ジャケットが印象的です。
 これらの色々と不穏なものを感じさせる要素が二人の未来において何を意味するのかは長らく謎でしたが、今回の4章の内容でようやくそれが表わしていた状況を理解出来た気がします。
 ジャケットにおける二人を掴もうとする無数の骨だけの腕は死という概念を表わしており、それを振り払おうとする二人は反対に生への執着を表わしているのではないかというのは楽曲の歌詞の内容と合わせれば理解出来るのですが、二人に迫る死というのがどのような展開で現れるのかを読み解くのはこの楽曲だけでは中々難しかったように思います。
 しかし、4章を読み終わった後で歌詞の意味を読み解こうとしてみると、この世界でどう生きればいいのかということや自分達が存在する意味を探し求めたり、これまで身を委ねてきた絶望と破壊や戦いの螺旋というものから脱けだそうとするその内容は4章の内容を反映したものであると理解出来るようになっているかと思われます。
 ちなみに曲の始まりと終わりに叫ばれる「Just to be alive.」という言葉ですが、意訳すれば「ひたすら生きるために」つまり「ひたすら生きるためだけに生きろ」という意味になるんじゃないかと思うんですが……まあつまりそういう歌でもあると考えてもいいんじゃないでしょうか……。*10

 

Green Cat.

 1stアルバムにて初出しの曲でありながらも、2_wEiの楽曲とは思えないほど前向きで未来を見据えた歌詞の内容が印象的な曲でした。
 一体何があってこんな歌を二人が歌うようになるのかは発売当時から長らくの謎であったのですが、今回一年越しにようやくこの4章のための曲だったことが判明しました(と、思われます)。
 タイトルの"Cat"は「猫」という意味ではなく、"Caterpillar"の略でありつまりは「芋虫」を表わしているようです。
 そのタイトル通り、絶望に塞ぎ込む弱い自分達を芋虫に例え、それでもいつかは羽化して蝶となり大空へと飛んでいきたいという願いが込められているような歌詞となっています。
 この歌詞が4章の内容を表わしていると考えられる根拠は、以前の絶望に沈むだけだった自分達を弱いものとして認め、大空――誰にも囚われない自由な場所へ羽ばたこうとする内容であるということにもありますが、その最大のものは4章内でミントが機能停止する間際に青空を見上げて(自分達はこの空に羽ばたけただろうか?)と心の中で優衣に問いかけるシーンの存在にあると思います。
 しかし、これだけ強く羽ばたこうとする意志を描いた曲が表わしていた二人の姿が、実は追い詰められ、どこにも行けないまま野垂れ死ぬ寸前のものだったとは予想外に過ぎるし、この連動を思いついた誰かには恐らく人の心がないものと思われます。

 

Inheaven

 4章公開とほぼ同時にゲーム内で配信された楽曲となります。
 公開タイミングもそうですが、物語の中でもこの曲を二人が口ずさむシーンが描かれており、まさしく4章のために作られた曲と言っていいでしょう。
 否定の接頭辞である"In"がついていることでHeaven(=天国)を否定するという複雑なタイトルの通りに、今まで身を置いていた場所や立ち位置を否定して自分達だけの生き方や進むべき道を探し求める二人の意志を描いたような歌詞の楽曲となっています。
 ジャケットの美しい景色(天国?)が崩壊していく中、傷ついた姿ながらも力強く前を見据えている二人の姿も印象的です。
 これらの内容は4章の特定のシーンというよりは、二人がこの章を通して得た答えや結論のようなものを表わしているのではないだろうかと思われます。
 そんな風に4章で完全にヒーローへと転じた2_wEiに相応しく王道的な正しさを歌う曲でありつつも、同時に『穢れた理想』というどうしても綺麗にはなりきれない二人を表わすような言葉や、相も変わらず過激な表現などは健在で、これまでの持ち味を消してしまうことなく新しいダークなヒーローとしての2_wEiを巧みに描いたものとなっているように思えます。
 そして4章の振り返りというだけではなく、歌詞の最後にある「This is the beginning」という言葉の通り新たな2_wEiの始まりとこれからの未来を描いたような曲でもあり、今後の二人の活躍を大いに期待させてくれる一曲に感じられます。

 

Jailbreak

 まさかの一部以外全部の歌詞が英語で歌われている楽曲です。
 歌詞カードに和訳もついていなかったので自分で全部を訳すことで楽曲の意味するものを何とか理解しなくてはならず、果たして正確な解釈であるかどうかはかなり怪しいところです。
 とはいえ、タイトルのJailbreakはわかりやすく『脱獄(それも機械的なデバイスのロックを違法に外すという意味もある)』という意味であるし、ジャケットの2_wEiも拘束衣をアレンジしたような衣装を着ておりわかりやすく何かから脱け出した二人というコンセプトを想起させています。
 内容も恐らくそのコンセプトから大きく外れてはいないものでしょう。
 そして、それは取りも直さず4章において研究所から逃げ出した2_wEiの行動を連想させ、恐らくその時の二人の心情を表わしたような楽曲となっているのだろうと考えられます。
 とはいえあくまで個人的な解釈ですが、サビの部分の『Raise your hands and raise the rebel fire(反逆の炎を掲げろ)』という言葉が示すように徹底的に何かへの反逆というものもテーマになっていると思われるこの曲は、4章だけのことというよりも今後Motherに対して全面的に敵対していくつもりの二人の未来をイメージしたものでもあるのではないかと考えていたりします。
 何はともあれハニプラとは相容れることはなかったけれど、Motherに対して抵抗するという目的では同じレジスタンス側となった、そういう新たな2_wEiの立場を示した曲でもあってくれると、楽曲自体やジャケットなどの格好良さも相まって非常に興奮するし、嬉しいところです。

一応自分で和訳してみたものがこちらになりますので、参考までに……。 

 

 

 

 

2ndライブにおける2_wEiの物語

 現実でのライブの中においても2_wEiの物語が進行していき、ストーリーの中の流れの一つに組み込まれているということはすでに上の方でも書いた通りでした。
 そして、先だって開催された2ndライブにおいてもまたそれは例外ではありませんでした。
 ここからは今現在の2_wEiの物語における最新回と思われる、そんな2ndライブ内でのストーリーについても最後に考察していきましょう。
 さて、いつものようにこの2ndライブが開催される直前に怒濤の如くサイドストーリー4章が更新されたので、ライブの中の設定時系列も恐らく4章が終わった後の二人であると思われます。
 そんな、ストーリーをあらかじめ履修した上で臨むことが推奨される相も変わらず特異なライブですが、これまでのようにMCなどの中に物語の要素を漂わせるだけでなく、今回は遂にゲーム内のようなストーリー映像を途中で直接スクリーンに流すことでライブの中に物語を形成するという恐ろしいほどの力業に訴えてきました。
 そのストーリーの大まかなあらすじはそれほど複雑なものではなく、ミントがここ最近自分の歌が心にしっくりこないということをアルミに相談し、それについて同じことに悩んだことのあるアルミがミントへ自分なりの答えを返して、二人が新しい自分達について理解するというお話になっています。
 以下から、もう少しだけ細かく見ていきましょう。
 まずミントの悩みとは、以前の2_wEiが歌っていた絶望の歌を最近上手く歌えている気がしないというものでした。
 込めている気持ちは本物なのに、どうしてもすっきりしないものがある。
 そんなミントからの相談を受けて、アルミはそれが自分達の変化に起因するものなのではないかと応えます。
 そして、自分も一度同じことで悩んだことがあるとも告げるのです。
 2_wEiの変化、絶望を振り払って未来へと進むことを決めた今の自分達が、以前のような絶望に囚われていた時の歌を歌うことに果たして意味はあるのだろうか。
 それを聞いて、もう2_wEiが絶望を歌うことに意味はないのかもしれないと落ち込むミント。
 しかし、アルミはそんなミントの考えを否定して、妹をとある場所へと連れて行きます。
 そこは虎牙優衣の隠れ家。二人が生まれ、多くの絶望と悲しみを味わい、そして愛をもらった場所。
 ここに来てどんな気持ちになるかを問われたミントは、温かくて同時に胸が締め付けられるような気持ち、決して忘れてはいけない過去があるように感じると答えます。
 そんなミントの答えに頷き、2_wEiは今未来に向かって立っているけれど、この場所と同じように忘れてはいけない過去もたくさん持っているのだとアルミは語ります。
 以前のように絶望に塞いでいた時期も、何かをどうしようもなく憎んでいた時期も、全部の過去が今の2_wEiを作っている。
 それを忘れてはいけないし、忘れないようにするために、過去の歌も今の歌も全部を背負って歌っていこう。
 アルミのその言葉に、ミントもようやく納得出来た様子で頷き返すのでした。
 これが、2ndライブの中で公開されたストーリーの大まかな内容でした。
 まず話の流れを見るに、このストーリーの中の2_wEiは4章の後の二人であると考えてもいいでしょう。
 実際このストーリームービーは2ndライブが終わった後でゲーム内でも4章の最後に番外編として追加されており、公式的な時系列としてもそのように捉えられると思います。
 内容自体も、4章を読み終えた後でファンも疑問に思うような部分を上手く補完するようなものとなっているのではないかと思います。
 すなわち、絶望することをやめた2_wEiが歌う絶望に意味はあるのか? 今の2_wEiが歌う絶望の歌に以前のような感情が本当に込められているのか?
 今まで散々書いてきた2_wEiの立ち位置の変化論を用いて言うならば、ヒーローとなった今にヴィラン(悪役)だった時の歌を歌われても二人が一体どんな気持ちで歌っていて、聴く側もどんな気持ちでそれを受け取るべきなのかがわからないという問題になるかと思います。
 そして、それに対して示した二人の答えが今回のこのストーリーということになるのでしょう。
 悪役であった時期も今の2_wEiになるために必要だったものだから、その時の自分達を否定したりせずに、大切な過去として忘れないために歌い続けていく。
 なので、2_wEiの歌を聴く人間達も二人がそういう気持ちで以前の曲を歌っていると思って聴いて欲しい、というわけです。
 内容自体は特にこれ以上掘り下げられるものではありませんが、今回のこのストーリーの面白いところは読む側、あるいはライブ参加者達にわざわざこのライブに臨むキャラクターとしての2_wEiの心情を共有させようとした部分にあると考えています。
 普通のライブイベントであるならば、別に楽曲の時系列やそれを歌っていた時のキャラクターの心情などを考慮する必要はなく、ただの作品とは切り離された担当声優達のライブとしてどの楽曲であろうといっしょくたに歌っていくことには特に何の問題もないでしょう。
 しかし、2_wEiのライブにおいては作品内のキャラクターとしての二人が現実の舞台にも立つ公演としている以上、そこに立っている二人がどんな感情を持っていて、どんな立ち位置にある時の二人なのかが明確に設定されています。
 なので、歌う楽曲一つ一つにも設定されているその時の二人の感情や立ち位置と現在のステージ上でのそれが異なっている場合には、その差異を埋め合わせるにはどうすればいいのかということについても考え、それを何かしらの方法で観客にも周知させなければいけないということになるのでしょう。
 果たして実際そこまでする必要があるのかどうかはともかくとして、制作側は実際そうする必要があると考えて、今回このような手法を用いてきたという事実には非常に興味深いものがあります。
 つまり、こういった理由付けのための演出とストーリーの存在こそが、現実でのライブをも2_wEiの物語の一つとして組み込み、その中においてもストーリーを進行させていくし、架空の物語の合間にライブもその物語の一つのパートとして存在しているのだということを裏付けているように考えられるのではないでしょうか。
 また、やはりそうであるからこそ、ステージの上の二人が今ストーリーのどの時点の二人で、どういった心境にあり、どういった立ち位置なのかも細かく考えられているのでしょう。
 今回改めてそういう2_wEiのライブの特異性というものが強烈に感じられたという点で、このストーリーと演出は個人的には非常に面白いものでありました。
 もちろん、2_wEiが果たしてどういうスタンスで以前のような絶望の歌を歌っていくのかということの答えとしても、この物語はよく出来ていると思います。
 過去があるから今がある。だから、今に続くまでの過去を全部、これからも忘れないために歌っていく。今の2_wEiが歌う絶望にはそういう意味がある。
 ライブのタイトルである『Past to Present』と合わせて、しっかり納得のいく理由であると思えます。
 そしてこの2ndライブはそういった感じでガッツリとこのストーリームービーを流したからなのでしょうか、二人のMCによってストーリーを匂わせるという方向性の演出は殆どありませんでした。
 しかしそんなMCの中でも、4章の最後に、そしてライブ中のストーリー映像の最後でも語られていたアルミの言葉が、今回のライブで直接人間達に向かって投げかけられたりした部分は大きく印象に残るものでありました。
 「2_wEiの絶望が誰かの絶望を上書きして、2_wEiの叫びが声を出せない誰かの声になる。2_wEiの歌をお前達にとっての何かにしてやる」
 今回この言葉がステージ上のアルミからMCとして口にされたこともまた、ここにいる2_wEiがこれまでのストーリーでの出来事を全て乗り越えてきた二人であることを示しており、非常に感慨深いものがありました。
 そして、ストーリーの中だけではなく自分達も直接その言葉を現実で聞くことによって、このライブにおいても自分達の中で2_wEiの歌をそういうものにしていけばいいのだと思えるようになり、まるで自分達も物語の中の人間達になったかのように錯覚出来るようであったと個人的には思っています。
 果たしてそこまでの意図があるのかどうかは不明ですが、というか考えすぎの方が勝っている気もしますが、何にせよある程度物語への没入感を高め、現実とフィクションをリンクさせる目的のある演出が今回の2ndライブでも随所に設けられていたこともまた確かではあるかとも思います。
 そんな、他にはない特殊さを味わうという点でも1stより進化した面白いライブであり、またその中において描かれていた物語であったと思います。

 

 

 

 

再度の謝罪と言い訳

 今回この考察記事を書き始めたのは、3章でのストーリーに大いに感動したことが切っ掛けでした。
 その感動がどういうものなのかを説明したくて筆を取ったわけですが、当初は9月中~最悪でも2ndライブの前までには書き上げるつもりでした。
 分量もそこまで多くなく、サクッと読めてわかりやすいものを目指していたはずでした。
 結果としてはこの有様です。2ndライブに間に合わせるどころか、その間に4章まで追加されたせいで追加公演の2nd Final前日まで縺れ込む始末。
 分量に至っては何故こんなことになってしまったのか、自分でもわかりません。
 一つだけ言えるのはこれほどの量を書きたくて書いているわけではないと言うことです。当たり前でしょう。最初から読み直して手直しするだけでも二日かかってんですよこれ……。
 そしてダラダラ書いていた時期も長くなりすぎたせいで文章の雰囲気もバラバラですし、正直最後の方は何を書きたいのか自分でもわからなくなってきていました。
 誰かに読んでもらうことでこの感動を伝えたかっただけのはずなのに、結局一体誰がこんなものを読むのか全く想像出来ない代物となってしまいました。
 それ故の、この最後の謝罪文だと思ってください。本当にすみませんでした。書く方も大変でしたが、読む方はもっと大変かと思います。
 一体何のために書いていたのか……。
 最後の方はそれを見失っていたと思う割には、最初から読み直してみると意外にストーリーが簡潔におさらい出来たり、「へぇー、そういうことなのかー」と(自分で書いたはずなのに全部忘れて)自分でも思えるような解釈が書いてあったりして、自分にとっては案外ストーリーを改めて理解し考察する目的ではまあまあ役に立ったように思います。
 なので、自分のために書いたものということであれば、書いている間は悪夢を見そうなほど大変でしたが、今は満足といえば満足もしています。
 しかし、他の方にとってどうであるかはわかりません……。少しでも何か2_wEi解釈のためのお役に立てばとは思いますが、正直こんな分量のものを読ませていると考えるだけで心苦しさを覚えるところであります。
 なので、焼け石に水ではあると思いますが、最後にまだ書こうと思っていた総まとめのような項目はもう独立させて、単なるストーリー考察の部分だけをここには残しておくことにします。
 こんなもの真面目に読んでられねえよというごもっともなことを思われている方は、そちらの総まとめの方だけを読んでいただければまだ多少は楽かとも思われます。
 まあ、こんなことを最後に書いても仕方ないかもしれないですし、そもそもこの謝罪文自体がもうありえない長さになってきている気もしますので、とにかくこれはもうここで終わりです!
 中途半端かもしれませんが、一応今公開されている2_wEiのストーリーについては全部洗うことが出来たかと思われるので、それでヨシ!としましょう。ヨシとしておいてください。
 そして、重ねて最後にもう一度だけ謝罪を。本当に、こんなアホみたいな量の文章を読ませようとしてしまい、あるいはここまでお読みいただき、本当にすみませんでした&ありがとうございました。
 まあ、そんな感じで、こんな違法建築みたいな文章ですが、2_wEiの物語についての自分の考察としては流石にもうこれ以上はないかと思います。
 それでもまだまだ拾えていない要素とかもあるようにも思えてしまいますが、本当に2_wEiのサイドストーリーはそれくらい奥が深い物語であると感じます。
 感じているのですが、しかし、改めて読み直すと、ここまで書くほどは流石に……

 

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*1:※2_wEiファンの総称

*2:後にこのコンセプトは途中で完全崩壊しました

*3:それもそれであり……という思いもあったりはしますが

*4:気づくのが遅い

*5:これを書いている最中に更新されて4章まで実装されました

*6:本当は色々なことがあるにはあったのですが……

*7:何せMCの正確な映像資料も自分の記憶もあまり残っていないため確証がない

*8:これを書いている途中で4章が追加されてしまったせいでヤケクソな書き出しとなっている

*9:Wow-wow-wow Take your AmazonZ!

*10:EAT, KILL ALL…